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ごく私的、ボッチ論

   先日、Twitter凍結について記したが、その後、凍結は解除されないままである。いちいちチェックするのが面倒くさくなってきて、もうこのまま凍結のままでよいと思っているこの頃である。解除になった暁にはお約束通り報告をさせていただくが、今回テーマにしたいのは、Twitter凍結のことではない。凍結になったことで考えさせられた事を、ここに並べてみたいのである。但し、これは私の独りよがりな考察―まさに呟きtwitterだ―であって、なにがなんでも俺が正しい、と言っているのではない。異論もあるだろう。こういう風に思っている人間も、この世には存在する。それを知っていただければよいだけである。
 凍結当初は、確かに、心淋しいとは感じた。だが、1日2日と経つと、むしろ楽だと思えてきたのである。
    人から注目されることに、注目されるのが増すごとに、それが快感だ、励みになる、そんな人もいるのだろう。現にそういう人があまた存在するから、SNSが今日繁盛しているのだろう。しかし、それが苦痛な人もいるのだ。そして、この両者が混ざり合った無数の中間形態-グレー・ゾーンってやつだな―も多く存在するのだろう。いや、比率としては殆んどの人がグレー・ゾーンなのだろう。そして人それぞれによって、その濃淡が異なるのだろう。SNSを盛り上げている人は、つまり注目されるのがまんま励みになる人、もしくはグレーだが注目が苦痛だと感じる度合いよりも快感なのだと感じる度合いの方が強い人、という事になるのだろう。私の場合は、注目されたくない、いや無視された方が楽、そういう色が占める心的割合が非常に濃いのだろう。私のような人間類型は、情報があふれかえり、年がら年中注目しまくりされまくりなSNSの世界にどっぷり浸って生きるのはしんどいのだ。もちろん、人は完全に孤立した中で生きていくことはできないが、過剰な情報・干渉の中にいるのもまた、そういう人にとってはストレスに、毒になるのだ。
   したくもないのにする、させられる。いわく生活の為、世間体の為、あるいは、孤立したくないと思ってしまうため、などなど。
   今の世に生きる人は、皆、知らず知らずのうちに自らストレスという名の爆弾を抱え込んでしずしず人生を歩んでいるのかもしれない。その爆弾を、それを抱えなければいられない状況に追い込まれ、爆弾が無くなったら無くなったで、絶海の孤島に投げだされたような暗澹たる色に染まる。
   情報が得られない、とおっしゃる方もおられるだろうが、今回改めて思ったのは、今SNSであふれかえっている情報は、大半は不必要なものである。自分が生きていくのに必要な情報は、ちょっと気合を入れれば手に入る。私の場合は今回、Twitterが使えなくなったけれども、他のSNSの手段があれば、例えばYahooなどで情報は手に入る。むしろ無理やり流れ込んでくる情報を遮断する方に、よっぽど骨を折っているくらいである。
   お前に何がわかる!そうおっしゃる方もおられよう。その通りである。他人の心はわからない。わかりたくてもわからない。だからこそ、こうした暴言がはけるのである。
   いまさら何を!私自身、こんなこと、ずいぶん前にわかっていた。わかっていたつもりだった。物心ついた時から、人と関わっていくことに大いにしんどい思いをずっと抱え、学校の行事―運動会とか学芸会―が嫌でたまらず、社会に出たら出たで飲み会宴会が恐ろしくてならぬ・・・・という日々をずっと過ごしてきたから上記のような自分の特性はとっくの昔にわかっていたはずであった、はずなのに、今回の件で、自分の特性への認識を麻痺させられ、自らに心的ストレスを積極的にかけていたことに気付かされたのである。私は孤独が好きなのである。ボッチでいることが好きなのである。Noteの自己紹介欄にわざわざ自分で書いていることを再認識したわけである。
  とりとめのないことを、くだくだしく記してしまった。妄言多謝。