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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(13)

アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン

ANOTHER MUSIC IN A DIFFERENT KITCHEN

 

スタジオ・アルバム

録音:1977年12月~1978年1月、オリンピック・スタジオ、バーンズ、ロンドン

ミックス:オリンピック・スタジオ、バーンズ、ロンドン

発売日:1978年3月10日

プロデューサー:マーティン・ラシェント

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

 

レコーディング期間は?

 

デモを録ったのは12月14日。レコーディング終了は1月5日。三週間だね。デモのときからマーティン・ラシェントはいたよ。スタジオでは普通にやるような音作りは断じてするつもりはなかった。当時の同じスタイルのバンドに比べて僕らの音圧感はケタ外れだった。マーティンはありきたりなサウンド・メイクをエンジニアにさせないようにとり計らってくれた。マーティンは不可欠な存在だった。僕らには明確なアイデアがあったし、それを具現化し得たということだね。

 僕には曲作りに一つのポリシーがあるんだ。一曲につき20種類もヴァージョンを作らない、一曲につき一ヴァージョンだけということさ。ときには最初から書き直すとか手直しすることもあるけどね。コスパに優れたやり方ではあるよね。

 レコーディング自体は大体二週間位しかかけなかった。12月最後の週に1月の第一周。『スパイラル・スクラッチ』の、ちょうどきっかり一年後だね。

 

マーティンの音楽的バックグラウンドはどんなものだったんでしょう?

 

彼は「Give It All You Got」[1]という歌で七十年代に『トップ・オブ・ザ・ポップス』へ出演して歌ってるんだよね。ベースとキーボードが弾けて音楽の知識も豊富だった。お茶くみのような雑用係から始めて、やがてテープ・オペレーターの仕事を手に入れたんだ。たくさんのセッションに関わってきてエピソードには事欠かない人だったね。七十年代初頭にはアドヴィジョンでエンジニアを務めていた。マーク・ボランの『ERECTRIC WARRIOR』のエンジニアも担当したんだよ。スタジオで必要とされる知識を存分に吸収したんだね。洞察力にも長けていて、人を困らせず、逆に楽しませる術も心得ていた。常にベストを尽くしてくれた。彼とスタジオにいるのは楽しかったね。マーティン・ハネットよりも統率がとれていた。ハネットはもっと奔放だった。

 スリーヴ・デザインには大抵こう書いてあるものね。「プロデュースはマーティン・ラシェント、アレンジはバズッコックス」とね。

 

相当な契約金をものにしましたよね?75000ポンドという話でしたが。

 

ああそうだよね。けどアルバム三枚分の契約だったから。『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』の分だけじゃなかったんだよ。

 

カバー写真の撮影はオリンピックで?

 

そう、台所でね。アルバム・タイトルにはぴったりだったけど、それを意識して写真を撮ったわけじゃなかった。マンチェスターのキッチン・クイーンkitchen Queen(訳注:台所法品を専門に扱う店、ブランド)でアルバム販促用の写真を撮ったんだ。あそこには台所に必要なモノは全部揃ってた。建築資材業者よりちょっぴりマシな所だったというところかね。

 

バンド全員、良いルックスですよね?まるで兄弟のように寄り添っているように見えます。

 

まあ、バンドだったんだからね!

 

誰もがスティーヴを中国人とのハーフだと思い込んでいました。そうじゃないと判ったとき、皆がっかりしたんじゃないでしょうか。

 

そのようだね。実際日本のテレビで「テレフォン・オペレーターTelephone Operator」のスリーヴ・カバーのことで云々していて、僕の元妻だった日本人が、あのテレビに出てる連中は皆、スティーヴに似てるって言ってた。

 

当時のギターはどんなものを?

 

ハンドメイドのゴードン・スミスGordon Smith一本だったと思う。二人の男、ゴードンとスミスの名前からとられたブランド名でマンチェスターのパーティントンで制作されてるんだ。

 それまでは赤いスターウェイ・ギターを使ってた。『スパイラル・スクラッチ』に明記してあるよ。レーで買ったセコハンで18ポンドだった。軽くて弾きやすかったし「ダーディな」音が出たんだ。フェンダーのジャガーやジャズマスターの安直なコピーだと思うね。

 このギターは76年の夏に、サルフォードの教会で練習してるときに壊しちゃったんだ。床に落っことしてボディ表面を二つに割っちゃって。それでもちゃんと弾けたしさらに軽くなって、かえって良くなったよ。[2]片方の木のカケラはハワードが持っていてね。ずいぶん後になってドクター・マーチンのマンチェスター店開店のこけら落としに、この二つのパートはくっ付けられて展示されることになったんだ。

 

スターウェイの復刻版、出たんじゃなかったんでしたっけ?

 

2007年に壊れたままを復刻したギターがイーストウッド社から出たよ。特製ケース付きでね。ケースには『スパイラル・スクラッチ』と同じ筆記体のバズコックス・ロゴが刻印されているんだ。

 ファンが壊れてないヴィンテージのスターウェイを、2007年にプレゼントしてくれたんだ。持っていたのと同じ赤いヤツでね。ヴィンテージ市場じゃすごいプレミアが付いてるよ。当時は安物だったのが、雲泥の差だ。

 

アルバム・タイトルの由来はどこから?

 

『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』のレコーディングを始める直前、1977年12月だった。ショウのときに何度か自作のバッジをバラ撒いたんだけど、この時は「アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン-別の台所でつくるもう一つの音楽」と書かれたステッカーを何種類か作ったんだよ。元々はジョン・サヴェージとリンダーが自分たちのカレッジで使ってた「A Housewife Choosing Her Juice in a Different Kitchen₋奥様が別の台所でジュースを注ぎ入れる」っていうフレーズから拝借したんだ(そのちょっぴりワイセツな感じが気に入ってね)。UAからステッカーを作ろうって話が出たとき、これをもじって使おうってことになったのさ。

 

バッジにはアルバム販促の意味合いがあったわけですね?

 

1977年12月に三回ライヴをやった。一つはラウンドハウス、一つはブライトンにあるちょっと汚いパブみたいな所、でさらにもう一ヶ所がマンチェスターのペレ・ヴューにあるキングス・ホール。年末のパーティも兼ねていた。広報担当がアラン・エドワーズという男で(今じゃ大物プロモーターだね。ローリング・ストーンズなんか手掛けてて)、その彼がブライトンのライヴにロンドン中のジャーナリストを呼び込んだんだ。

 ブライトンの会場はとにかく狭くって、隙間もないくらいだった。クリスマス・シーズンで世間は大変な賑わいだった。当時はエレクトリック・ギター専用のチューナーなんてなかった。本番前に控室でチューニングをしたよ。控室はパブに隣接した小屋で、チンケな、歪んだ屋根がとり付けてあった。すさまじい寒さだったよ。パブの中は逆にすごい暑さでね。人ですし詰めだ。ギターのチューニングは即狂いまくり。客がどんどんこっちに押し寄せてくる。ステージの上でチューニングしないといけなかったけど、こんなのはしょっちゅうだったね。今のツアーみたく至れり尽くせりな環境じゃなかったってことさ!

 この三回のショウで「アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン」と書かれたバッジを持ち込んだわけ。それからは新作をリリースする毎にバッジを持ち込むようになった。デカい箱にバッジを入れてステージに置いておく。そこからバッジをつかんで客に放り投げるんだ。―健康と安全性ということでは誉められたもんじゃないけどね!周りは気にも留めてなかったよーパンクのライヴってこういうもんだったわけで、流血騒ぎになるよりはまだマシだと思うよ!

 

サイド1

 

アルバムは「ボーダム」のギター・ソロで始まります。誰のアイデアだったんですか?

 

僕のアイデアだ。『スパイラル・スクラッチ』しか聴いたことのない人が大勢だろうから、バズコックスを再紹介しようと思ったんだ。ハワードが、ビートルズとかシャドウズのアルバムで次の曲に入る前、バンドは音も立てず静かに待機しているんだろうって言ってたことがあるんだ。つまり僕らが注意を払わなかった曲間の部分にも意味があるってことなんだ。「ボーダム」のエンディングにはエコーがかかっていて、間断なく「ファスト・カーズ」に繋がる。「ファスト・カーズ」が終わるやクルマのアクセルを吹かす音がして、すぐさま「ノー・リプライ」の冒頭、電話のベルへと繋がる。単なる曲の集まりではなく、サウンドスケープになっているんだ。

 

ファスト・カーズ Fast Cars

 

ソングライターズ:ハワード・デヴォート、スティーヴ・ディグル、ピート・シェリー

 

元はスティーヴの作った曲だったんですか?彼の発言ではレコーディング当日、歌詞を書いたメモを家に忘れてきたということですが?

 

「プロミセズ」でもおんなじことを言ってたなあ!作詩をしてないのは間違いないね。ハワードが二つのヴァースを書いて、僕がラルフ・ネーダーにまつわる部分を書いた。スティーヴは自分の書いたのをとり下げたんだろうね。

 

曲になったのは、1965年に公刊されたラルフ・ネーダーの著書『どんな速度でも安全ではないUnsafe at Any Speed』ですね。この本でアメリカ車の安全性が問題視されていました。結果として運輸省道路交通安全局が設置され、シートベルト着用と強化ガラス導入といった安全基準が設置されることになったわけですが。

 

ペシャンコになったクルマじゃなくて、鉄の塊としてのクルマということだね。当時は物議を呼んだね。アンディ・ウォーホルはペシャンコになったクルマの画像をプリントした作品を出し、JGバラードは『クラッシュCrash』を出した。どっちも1973年だったよね。デヴィッド・クロネンバーグは九十年代に『クラッシュ』を映画化したけど、それもショッキングな内容だったね。殆んど原型を留めない位潰れたクルマに出くわした人間が性的欲望にとりつかれ、次第にそれを満たすために車の事故を求める話だった。それが現実にあることなのか判らないけど、原作は良かったね。

 シートベルトはイギリスじゃ1979年か1980年頃まで義務化されなかった。七十年代にジミー・サヴィルが「お出かけ、ドアにカギかけ、シートベルト」って盛んにPRしたり、他にもいろいろやったのにね。七十年代のアタマまでは、バイクに乗るにもヘルメットをかぶる必然性を誰も認めなかったんだから。

 ラルフ・ネーダーは今もいろんな方面で消費者擁護の活動をしている。大統領選にも立候補したね。

 けどこの曲には、そこまで深い意味はないよ。

 

当時クルマは持ってたんですか?

 

いや、最近免許をとったんだよ。ずいぶん時間がかかった。運転は好きじゃない!いつもはバスか他の人のクルマに乗せてもらってるよ。

 

ノー・リプライ No Reply

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

手がけたのはいつですか?

 

まだハワードがバンドにいた頃に抱いた感情を曲にしたんだけど、ハワードは歌いたがらなかった。

 基本的には今の時代によくある「恋人からの返事は来ない」、そんな関係を歌ったものなんだ。当時は不便な時代だよ。クルマなんか持てる身分でなし、Eメールもない。留守電なんかの設備もありゃしない、大抵の家には電話そのものがなかったんだから。直接相手の家に行くか、手紙を送るかのどっちかだった。郵便配達は一日二回だったから、朝手紙が届けば午後には返事はもらえた。朝手紙で会いたいと書き送り、その日の夜には会う。Eメール並みに迅速にやれたよ。コミュニケーションの在り方がまるきり違っていたわけさ。

 けどそう容易くはいかなかったけどね。相手はちゃんと家にいるのに電話をかけても知らんぷり。いや電話をかけ間違えているから相手に通じないってこともありうる。今はEメールを「送った」かどうかちゃんと確認できるし、通信記録は全部残るからね(訳注:このインタヴューの内容から推測すると、LINEが登場する2011年以前に行われたのではあるまいか)。

 つまりコミュニケーション・ストレスに苛まれ、パラノイアな状況に到ったことを歌った曲だね。

 

電話の音はどこで録ったんですか?

 

オリンピック・スタジオの電話を使った。マイクをあてがってね。最後に受話器を降ろす音も録ったよ。

 いい曲さ。演奏もいい。時代をすごく反映した内容だけど。

 

『アナザー・ミュージック』は一種のコンセプト・アルバムのようじゃありませんか?あるいはティーンエイジャーの一週間の生活を切り取った映画のサウンドトラックのようでもあります。聴く毎に私の頭の中には、台所の情景が思い浮かぶんですよ。

 

そう。これぞパンクなアイデアだと思わないかい?誰もが感情を爆発させたり腹を立てたりするだろう。そんな状況を歌っているんだ。皆が共通して持ってる日常の心の移ろいをね。

 

ユー・ティアーズ・ミー・アップ

You Tears Me Up

 

ソングライターズ:ハワード・デヴォートとピート・シェリー

 

この曲はどこで、いつ?

 

そうだね。これも初期の、ハワードとの共作だった。僕が作曲で、彼が作詞だね。75年の終わり頃だった。

 ハワードは十代の頃の悩みを思い起こしながら書いた。そう思わないかい?

 

ドラム・ビートが強烈です。ものすごいです。パンクそのものです。[3]

 

あのドラム・ビートは「Ⅾ―ビート」と呼ばれてるんだってね。パンク第二世代の定番ビートになってる。確かに、ディスチャージとの親和性は高いよ。

 

「何もかも食い尽くされて、僕の分は残っちゃいない」という歌詞はポール・モーリーの自伝『nothing that you kissed him(訳注:奴へのキスは無意味)』で言及されてますけど、実話なんですか?

 

ああそうさ。僕らはいつだってそのテの問題を抱えてた。日常茶飯事に起こった問題だった。

 

彼はあれ以来、男とはキスしていないということですがね。

 

たぶん、僕が彼を拒絶したんだな。いやたぶん、彼自身が男とヤッテはいけないって思ったんだろう!

 

ゲット・オン・アワ・オウン

Get on Our Own

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

どこで、いつ手がけたか記憶にありますか?

 

76年中だったんじゃないかな。ハワードが作詞を手がけなかった曲の一つだけど、何でだったかね。

 生意気で浮ついた人間が主人公の曲だ。特定の人を歌ったものじゃない。誰にでも当てはまる内容だよ。いかにもな感じの六十年代的な、伝統的なラヴ・ソングかな。

 

ピート・シェリー式ヨーデルが披露されていますね?

 

フランク・アイフィールドがずっと好きなんだよ。オーストラリア出身のカントリー・シンガーさ。六十年代の頭に「I Remember You」を大ヒットさせたんだ。ライト・プログラムでしょっちゅうかかってた。その次に出たのが斬新な「She Taught Me How to Yodel」だったんだけど、僕にはその遠回しな言い方が判らなかったんだよね。

 BBCの教育番組かなんかで、ニューギニアかどっかの部族が、ヨーデルを多分戦さに対する恨みつらみを表すためだと思ったけど、ヨーデルを使っていてね。パクッてみたんだ。

 歌い方はずいぶんジャジーだよね。黒人とか白人とかを明確に線引きしていない。両者の折衷だ。越境かな・・・・。ある意味音楽的にはすごく洗練されてて、自分でも感心するよ。

 

ラヴ・バッテリー

Love Battery

 

ソング・ライターズ:ハワード・デヴォートとピート・シェリー

 

ハワードとの共作ですか?

 

そう、共作。作曲は僕だね。

 ハワードは性的に欲求不満を溜め込むタイプなんだろうと思う。彼の曲って全て怒りとか欲望とかを爆発させるような内容なんだ。

 

恋人の女性との、ロマンチックな出会いって感じではないですけど・・・・。

 

ハワードに聞いてみないとね!

 

「終点で、ひと騒ぎ」というくだりについて、私の祖母がとあるインタヴューで知ったと言ってました。それは「バズ・コックBuzz Cock」という言葉はあなたがバスの後部座席に座っていて、エンジンの振動が下から響いてきたところから着想を得たんだと。私はお知り合いの方が「バスbus」ではなく「バズbuzz」と発音したからじゃないかと思うんですが。

 

僕も読んだよ。それが通説になってるけど、正しくはないね。バズコックスの名前は、『ロック・フォリーズ』っていうテレビ番組を紹介した『タイム・アウト』誌に出ていた一節から取ったんだ。

 

この曲で思い出すのがジョージ・フォンビーの曲です。同じレー出身の彼の曲から着想を得たということは?

 

彼のことは知ってはいたけど、それはないな。「Little Stick of Blackpool Rockブラックプールの岩でできた棒」がBBCで放送禁止になったんだよね。けど「オーガズム・アディクト」の40年前だよ!今の耳で聴いても結構キツイ内容だけど。[4]

 

シックスティーン

Sixteen

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲はどんな経緯ででき上がったんでしょう?

 

ハワードの家でまったりしていたときだった。その家の、普段は使ってない奥の部屋にギターが置いてあって、そのギターを使って書いた。77年の4月以前なのは確かだね(歌詞にあるように)21歳のときだよ。

 断片を繋ぎ合わせた曲だ。始まりは3/4拍子で、こま切れな言葉で連なっていく。そこに間奏が挟まって、ワイルドに展開していく。

 この曲にはジョン・サヴェージが絡んでいるんだ。彼とリンダーは複数のカレッジで仕事を掛け持ちしていた。クルマを持っていてあちこち連れて行ってくれた。ある盤レコーディングの休憩時間に『スター・ウォーズStar Wars』の映画を観に行った。当時僕らはH&Hブランドのアンプ一式を手に入れていたんだけど、Ⅴ―Sミュージシャン製の特別あつらえだった。フランジャーやペダル・エフェクトが付いていた。今のフランジャーはそれ自体が単体になっていて、ギターと直接繋げる仕組みになってるけど、このH&Hのヤツはアンプとエフェクターが一体型になっていて内部で配線されていた。つまりコンパクト・エフェクターとは別物といってよかった。映画を観た翌日、「シックスティーン」の中間部、あの混沌としたパートをレコーディングした。映画の電気ノイズとかレーザー・ガンの光とかに感化されてたね。アンプのヴォリュームを全開にすると例のエフェクターがフィードバックを起こしてすごいノイズが発生したりした。そんな音も気に入ってるよ。『スター・ウォーズ』への敬意さ。

 バンドを始めたばかりの頃、ジョン・マーはシンバルを持ってなかった。ハワードの家の地下室で練習していたとき、石炭を入れるバケツがあって、たたくとシンバルとよく似たノイズが出たんだ。ジョンは学校の理科室から工具を「借りて」きて、珍妙なシンバルの代用品をこしらえた。本番のライヴでも使った。これだって実験さ!こういう奇妙なことをやろうっていうのはキャプテン・ビーフハートがヒントになっているんだ。

 

ロックでは普通3/4拍子は使わないですよね。ストラングラーズは使ってましたけど。

 

いやいや、4/4拍子を「普通の拍子」とみなしてるだけさ!それならワルツはどうだろう。あれは3/4拍子だろう。この数百年間ヨーロッパじゃあたりまえに使われてるさ。

 

ラベルの『Boleroボレロ』との類似性を云々してませんでしたか?

 

コード二つで、ノリの感じも似てるしね。

 

本当に現代音楽にディスコ、ブギにポップは嫌いだったんですか?

 

僕にはダンサーとしての資質はなかった。その他大勢の連中が踊っているのをいつも眺めてた。スポーツもそうさ。昔ガールフレンドがいた。その娘はよくダンスホールのコンテストで入賞してメダルをもらってた。僕ら二人はよく教会でやるスープをふるまわれるダンスの催しに行ったもんだった。女の娘たちは自分の荷物を置いてダンスに興じてたけど、僕はその輪の中に入ることはなかったよ。いわゆるトレンディな男じゃなかったんだな。人が僕の元に集まってくるのは、僕がいつもギターを持っているからさ。

 全てを嘲っていたんだ。「僕はフレンチ・キスは好きじゃない。君が僕の舌を吸い込むから」っていうのは、個人的な体験を基にしてるんだ。その相手は何だか掃除機みたいだったね。

 この曲に3/4拍子をとり入れたのは、簡単には踊れないだろっていう皮肉を込めてるからなんだ。もちろんワルツを踊れるんなら別だけどね。

 

イギー・ポップにも「Sixteen」って曲がありますね。

 

そうなの?知らないな。その曲への敬意っていう意味はないね。

 

ポール・モーリィが自分のバンド、ネガティヴスでカバーしている情報をどこかで読んだことがあります。それとは別の記事だったんですが、彼はパンク・バンドなんかやったことはないって言うんです。それは彼が創りだした伝説ですけど。

 

いや、連中は本物だった。記憶は朧だけど。エレクトリック・サーカスで観たんじゃなかったかな。当時は皆がバンドを始めたんだ。型にはまったやり方でなくていい。それがパンクの理念だったんだ。

 

サイド2

 

アイ・ドント・マインド

 

98ページ参照。

 

フィクション・ロマンス

Fiction Romance

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲はどんな具合にでき上がったんですか?

 

UAと契約を交わしたその日にケヴィン・クミンズとフォト・セッションを、とある図書館でやったんだ。エレクトリック・サーカスに僕らはいたんだけど、図書館はオールダムの通りに面したところ、そこのコリー・ハーストかそこら辺にあったんだ。書棚には表示板が挿してあって、それには「フィクション/ロマンス」と書いてあった。でも曲はもうでき上がってたよ。ボックス・セットの『PRODUCT』付属のブックレットにくだんの写真が載ってるね。

 曲には引きつったようなリフがあるんだけど、最初は歌詞がなくて、ライヴでやりながら作っていったんだ。ほぼ毎晩即興で歌詞を紡いでいってね。で、アルバムに収録される形にまとめた。本に書いてあるような、最期には救われるんだっていうような、そんな架空のロマンスなんて起こるわけがないんだってことを歌ってるんだ。人生が小説よりもマシな展開になるにしても、ということさ。

 

そういった類の本をたくさんお読みになったんですか?それともお母さんが読み聞かせをしたとか。

 

いや、そういったものは読まなかったし、母もしなかったと思う。僕が知ってるのは編み物をしてる姿さ。

 

オートノミー

 

102ページ参照。

 

アイ・ニード

I Need

 

ソングライターズ:ピート・シェリーとスティーヴ・ディグル

 

この曲はどんな具合にでき上がったんですか?

 

ラウンドハウスでサウンドチェックをしてる時だった。例のリフを皆で演り出したんだ。いい塩梅になったところで開演になって、インストで演奏することにした。歌詞はできてなかった。ジャム・セッションを切り取ったものだったから、作者を誰にするか特定が難しかった。その日のライヴでは「アイ・ドント・マインド」「ゲット・オン・アワ・オウン」「オートノミー」も演奏した。―自然に新曲を作ってアルバムに収めようという話になっていったんだ。

 三週間位後になって全員スタジオにいるときに、僕が作詞を始めた。何を欲するか、何を必要とするか、何を貪るか、まあ大抵その人の快楽なんだけど、その違いを詮索する内容なんだ。歌詞は「僕には必要だ」という一語でまとめられるんだけど、感情は音楽の中で表現されてるんだ。中間部に入るベース・ソロが実に見事だね。

 当時はたくさんの所をとび回っていた。冬場はライヴで汗ぐっしょりになると帰りのクルマの中では体が冷え切ってしまってね。六週間位カゼをひきっ放しだった。「アイ・ニード」のヴォーカル録りはカゼを引いた状態でやったんだ。今聴くと僕には判るよ。たいていの人には鼻にかかった北部訛りに聞こえるだろうけど。

 で、必要としているものを全部挙げていった。セックス、愛、酒、クスリ、食べ物、カネ、「君に愛してほしい」でも最後の箇所ではこう歌ってるんだ。「僕には必要だ、インフルエンザで、僕にはインフル用の薬が必要だ」ホントのことさ。インフル用の薬が必要だったんだよ。シンドかったんだ。

 ジャム・セッションから生まれた、小粋な曲ってとこだね。

 

ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート

Moving Away from the Pulsebeat[5]

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

想像力に富んだタイトルですね。

 

ポール・モーリスの、あれは評論だったな。あそこにこう書いてあったっけ。僕らの曲の中には、それまでのロックンロールの「常識」を逸脱しているものがあるって。

 

創作はどこで、いつ?

 

76年12月だったと思う。出だしのリフと全体の構成を思いついたのがね。あの頃はモンスレイ・ストリートの幹線道路沿いに廃屋、元々ヤク中患者の一時収容所だった所なんだけど、その廃屋を練習場に使っていた。リチャード・ブーンがいろいろ世話してくれた。練習場向けに造られた施設じゃなかったけど、大音量を出しても平気だったんだ。

 

ジョンのドラミングが曲の聴かせどころになってると思います。

 

ボー・ディドリー・ビートで始まるってところからしても際立ってるね。ドラムが肝だ。倍音を含んだコードを鳴らしまくっていて、大部分がインストだ。歌詞の付いたインスト・ナンバーと言っていい。そんなにメロディックな楽曲じゃない。主だった部分はそのリズムと,ささくれだった感触だ。キュービストの作品のようだね。モダンな音処理だし、ある意味アルバムのテーマ曲とも言えるね。

 ドラムはダブル・トラックにしようと決めたんだ。エフェクト処理は施していない。ジョンが実際に二度プレイしたんだ。

 

もし別のドラマーだったら、まるで違った曲になっていたんじゃないですか?

 

僕もそう思う。ジョンが加入してくれたのは幸運だった。彼は経験こそなかったけど、天賦の才があった。[6]

 僕らの曲作りは今どきのバンドとは違っていた。普通は一人が自分のスタジオでデモ・テープを作ってメンバーに聴かせるといった感じだ。僕らの場合は全員で練習しているときに、こう切り出すんだ。「一曲できたんだ。こんな風だよ」その時々の状況に即してやっていた。ジョンとも直接顔をつき合わしてね。僕が語りかける、彼はドラムで応える。曲を聴きその内容に対応した音をドラムで表現し得た。ドラムのない曲を想像するっていうのは難しいね。

 

そうですね。「パルスビート」のドラムは、曲の本質を見事に現わしてますよね?

 

ドラム奏法が注目されるようになってきた時代でもあった。ブルンジ共和国の太鼓奏者[7] が人々により民族的な、より原始的な打楽器奏法に目を向けさせるきっかけを作った。僕らはいろんなアイデアをアルバムづくりに持ち込んだ。マーティン・ラシェントとは上手くやれたね。ビートルズとジョージ・マーティンとの関係に等しいものがある。ジョージ・マーティンはグーンズ[8]とかチャーリー・ドレイク[9]とかいったノヴェルティ・ソングの制作に携わっていて、常識はずれなアイデアを持ち込んだ。ラシェントとの作業にも同じことが言えたよ。僕は左翼に右翼、中道派の思想、伝統的なロックンロールから逸脱したもの、流行の音にアバンギャルド、フリー・ジャズもとりいれていた。マーティンはよく理解し助けてくれた。プロデューサーの中にはそういった事に理解を示さない奴らもいるけど、彼は違った。ちゃんと僕らの姿勢をサウンド作りに反映させてくれた。

 

『ピール・セッション』は・・・・。[10]

 

『ピール・セッション』はシングル曲を演らせたがらなかった。僕らはいつも実験的なことをやっていた。あそこでは殆んどデモを作ってるような感じだったな。『ピール・セッション』は実験の場だったんだ。「レイト・フォー・ザ・トレイン」も同じようにして録ったんだ。

 

ジ・エンド

The End[11]

 

これは?

 

「ジ・エンド」はレコード内溝にある断片っていうか、「ボーダム」のスケールをくりかえしてるんだ。これにはちょっとした話があるんだよ。このアイデアはリチャードの友人が提案してきたんだ。その友人は超形而上学(訳注:高尚そうだが実はナンセンスな疑似科学議論)に興味を持ってる学生だった。例えば芸術には科学技術を用いるんだってことを言いだすようなね。ここに二つの異なったスケールがある。一つのフレーズは低い方からだんだんと高い方へと昇っていく。その半音低いフレーズが同じ軌道を描く。この二つのスケールが重なり合っていくんだ。音階はひたすら高くなっていくように聴こえるけど、そうではないんだ。意識して追いかけていくと、高い音がしだいにフェイド・アウトしていき、より低い音も続いてフェイド・アウトしていくのが判る。音の錯覚ってヤツだ。ほら階段を昇っていくけど、どこにも辿り着けないというね。Ⅿ.Ⅽ.エッシャー(訳注:Maurits Corneils Escher 1898~1972 オランダの画家)の版画みたいなものだよ。

 超形而上学的技法はビートルズの「Maxwell’s Silver Hammer」の出だしにも使われてるね。

 

『アナザー・ミュージック』はイギリス・アルバム・チャートで15位に入りました。パンク・バンド最初のアルバムとして上々の成績じゃないですか?

 

そうだね、そう思う。けど期待してはいなかった。ラジオで流れたシングルは一枚だけだったしね。最初の「オーガズム・アディクト」二枚目の「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」は『トップ・オブ・ザ・ポップス』に引っかかりもしなかった。トップ20に入るなんて僕らにとってスゴイことだったんだ。

 たくさんのライヴをこなし、その中には「ホワイト・ライオット」ツアーもあった。その後ずいぶんと名を上げたけど、それはアルバムが売れたからだと思う。マーティン・ラシェントとつくったシングルが売れたというのもある。自分たちのやってきたことには意義があったということさ。自分たちの居場所を持てたというかね。

 

相当な売行きだったんでしょうね。もっと重要なのは、急速な勢いで売れたからこそ15位になったということでしょうね?

 

まっとうなレコード会社は、まともにビジネスをこなしているということ。つまりレコードを売る、レコードがきちんと店に欠品することなく並べてあるということさ。店に行けば客の欲しいレコードが置いてある。今の世じゃ大変なことなんだけどね。

 僕らにはシルバー・ディスク(訳注:イギリスでシルバー・ディスクに認定される基準は、アルバム六万枚、シングルは二十万枚の売上だが、1989年1月1日以前はシングル二十五万枚であった)の実績はなかった。まあこの数か月後には『ラヴ・バイツ』でもっと実績を出せたし、『トップ・オブ・ザ・ポップス』の常連になったけどね。



[1] 「Give It All You Got」は安直に仕立てられたいかにも七十年代的な曲で、「Why Bother to Fight」という、パンクとメタルを中途半端に合体させたような、それなりにエッジの効いたスピード・ナンバーのB面にカップリングされている。

[2] この日本製の安普請なギターには多くの伝説が残されている。おそらく本機は元々ウールワース量販店にてバーゲンセールで売られていたものであり、手荒に扱われてきた。ピートの甥ハワードはスターウェイについて以下のように述べている:「ピートはレー・ロードにある店で買ったんだ。今は確か美容室になってる楽器店でね。皆は粉々にしたと思ってるんだろうけど、ピートはボディ表面を二つに折っただけで、その日のステージはこなせたんだ。写真が何枚か残ってるよ。セックス・ピストルズのマネージャーだったマルコム・マクラレンはこのスターェイを『切断されたギター』と喧伝してたね(破材を接着剤でくっ付けてギターに仕立てたと思われてるけど、本当に真っ二つに折っちゃったんだ)」

 ピート自身は1986年10月25日付ラジオ1の番組『City to City』で、マーク・ペイジとのインタヴューで以下のように発言している:「伝説めかして語られてきたギターではあるね。たくさんのことが書かれてきた‥‥特製の展示用ケースにしまわれてどこかに‥‥何かの記事で読んだけど、後世のためにⅤ&A〔ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館〕に寄贈されたらしいね」彼は冗談めかして語っており、この発言は当時信用のおけるものではなかったが、現在ギターはロックやポップ・ミュージックの歴史、とりわけイギリス・ポピュラー・ミュージックの記録と検証を目的とする、リバプールの歴史的なクウナード・ビルディングCunard Building内にあるブリティッシュ・ミュージック・エクスペリアンスthe British Music Experienceにガラスケースに入れられて展示されている。その施設でスターウェイは、パンクと新しい音楽がもたらした変革の象徴とされている。

[3] スティーヴ・ガーヴェイの発言:「俺たちはひたすら前のめりになってプレイした。ひたすら押せ押せ押せって感じ。後ノリ感ゼロ。とことん前ノリ。典型的なパンク・バンドなノリだ。だけど、バッチリな出来さ。ラモーンズがヒントになったんだ。ビートルズよりも影響は大きいね。座って議論してできるもんじゃないさ。自然なノリってヤツだよ。

[4] 「ブラックプールBlackpool」という単語、あるいはその長い形状から連想されることだが、一本の岩でできた棒a stick of rockとは、アメリカ人にはスティックの形をしたキャンディを、オーストラリア人には固いキャンデイを指す言葉である。1937年にシングルB面曲として発売された「With My Little Stick of Blackpoolブラックプールの岩からできた私の小さな棒と一緒に」は婉曲的とはいえ性的な表現を用いている。フォンビイはこう歌っている:「そいつはネバネバしてるかもしれんが、ときたまちょいちょい齧る(かじる)にゃちょうどいい・・・・」そして指揮者の指揮棒が、とある海辺で行われた公演で何故か「その手からすっとんで」しまい、主人公は自らの「ブラックプールでできた小さい棒」を使ってうれしそうに楽団の指揮を引き継ぐのである。

 ちなみに、ピートの曲にはリスナーが一緒になって歌うことで一層楽しくなるものがあるが、これはジョージ・フォンビーの歌唱スタイルをとり入れたものである。ミュージック・ホールの演奏でもこの手法はよく使われる。

[5] 「ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート」には片面のみの、宣伝用12インチ盤が存在するが、今日では100ポンドの値が付いている。

[6] ピートが別の場で語っており、スティーヴ・ガーヴェイも認めていることだが、ジョンには他者の心の内を読みとり、バンドの他のメンバーとも意思の疎通のできる、いわゆるテレパシー(ESP)の感覚が備わっていたという。

[7] ブルンジ共和国御用達の太鼓奏者the Royal Drummers of Burundiは六十年代に世界各国で演奏活動をしているが、西側諸国でその「土着的」サウンドの知名度を上げるに至ったのは1971年、フランス人ピアニスト兼プロデューサーのマイケル・バーンホルクが「Burundi Black」(レコード・リリースにあたって「Burundi Steiphenson Black」をダブ処理したものである)のリリースからである。この曲でフランス人類学者1967年にレコーディングしたブルンジ原住民による典型的な太鼓演奏が聴ける。

[8] 『グーン・ショウThe Goon Show』 五十年代に放送されていたBBCに「一般家庭」チャンネル制作のラジオ番組。その超現実的かつ不条理主義的なユーモアは風変わりな効果音とトボケタ声によってふんだんに彩られていた。ビートルズに影響を与えたことは案外知られていないかもしれない。

[9] チャーリー・ドレイクCharlie Drake 歌手・俳優・スラップスティック・コメディアン。ジョージ・マーティンとレコーディングした「Splish Splish(訳注:ちゃぷちゃぷ)」や「My Boomerang Won’t Come Back(訳注:俺のブーメランは戻りゃしない)」は1961年当時政治的に好ましくないとされていた。

[10] ジョン・ピール 1967年入局のラジオ1最古参のDJ。この新規のラジオ局は若いリスナーを対象に、日中の大半はチャートの紹介にあてられたが、ピールによる午後の番組では様々なジャンルにまたがった新しいアーティストの「発掘」が尊重された。『ザThe・「セッションズsessions」(BBC専属の楽団やオーケストラではない「セッション・マン」やアーティストによりレコーディングされたため、こう呼ばれた)は一日につき四曲放送され、スタジオ・レコーディングとライヴ演奏の中間ともいえる内容で親しまれた。ピールの在職期間(不幸にも2004年の死まで)2000を超えるアーティストにより4000のセッションが収録された。

[11] 「ジ・エンド」のタイトルはスリーヴにもラベルにも、独立した楽曲として明記されていない。いわばアルバム本編終了後のシークレット・トラックである。一曲目の「ファスト・カーズ」冒頭の「ボーダム」のフレーズと見事なセットになっている。