見出し画像

ハーモニー・イン・マイ・ヘッド

「無理することはないんじゃなくって?」そう言ってきたのは、奥さんである。35年も経った今、その前後の記憶が朧になってしまっているが、おそらくはヒンディー語の講義が終わった後だったと思う。この時の私は中庭の井戸の前にいて、自分の汚れた服をゴシゴシ洗っていたのである。
「料金なら、私が交渉するわよ」
「いやこれくらいやります。ⅮIYですから」
 このとき、私は果たしてこんな言語表現をしたのだろうか、はなはだ心もとない。ただ、洗濯をドービーに頼めばと言われ、断ったのは確かである。
「今日、ダーニ君はどこへ?」
「あの子は補講。試験の出来の悪い教科があって、そういうときは補講が義務付けられるのよ」
(おやおや。俺の行っていた高校とそっくりだな。御同輩というわけか)私は、ダーニ君に同情しつつ、そういえばと思い、いろいろ聞いてみたくなった。これまで、私はアシムル家のことは立ち入ったところまで聞かないように注意してきた。所詮は赤の他人である。人の楽屋裏を覗いてはいけないのであると。しかしアシムル家に住むようになってもう2週間は経とうとする頃であり、そろそろ互いに打ち解けてきて、ざっくばらんな会話もするようになってきたのである。そのきっかけは、あのアダム・スミスを巡る対話―厳密にはアシムル先生による講話―だったろう。あれから、一家の私への態度はなにがしかの変化を来たした。もちろん、私がこの家に来た当初から―つまり私が高熱と下痢で倒れた時から―、一家は温和に接してくれていたが、あの日から、こういう言い方が適切かどうかわからぬが、私は真っ当なオトナとみなされるようになった・・・・。これは今だからこそわかる事であって、渦中にいた時分には迂闊にも意識すらしてはいなかった。一家の態度は軟化した。それに乗じて、私も込み入ったことを知りたくなったのである。ただ、いきなり土足でずかずかと上がり込むことは慎まねばならないという意識は常に働いていた。
 話はまず、ダーニ君の学校の事から始まった。彼は16歳ということは、日本でいう高校2年生に相当するところだろう。市内の私立の学校に通っている。来年には全国共通試験を受けさせねばならないから結構なプレッシャーだという。この試験の結果如何で、大学に行けるか否かがかなりな部分で決まると奥さんは説明してくれた。
「それは、イギリスでいうAレベルみたいなもんですか」
「まあそうね。何年か前にも受けたんですよ。インドでは共通試験は2回あるから」
 前回の試験では、ダーニ君はかなり良い成績で、母親としてはほっとしたと言いつつ、
「やっぱり、親としてはレベルの高い教育を受けさせたいですからね。上の学校にも行けるという選択肢が出来れば、将来の見通しも、ね」
 インドも日本も、(母)親の考えることは同じという事か。
「できれば、ダーニにはここの大学に行ってもらいたいわね」こことは、バナーラス・ヒンドゥー大学である。それはそうであろう。家から徒歩で行ける。
「でもあの子、ここの大学にはそんなに熱心ではないのよ。大学には行きたいみたいだけど。じゃあどこって聞いても、はぐらかしてしまって。大丈夫なのかしら」
 何年か前の私も、同じ心配をさせたのであろうか。いや、あの時の私はこんな選択に困るほどの良い成績をはじき出してはいなかった。行ける大学はただ1つだと言われていた。そして、私自身、大学に行くことに、さほど深刻な思いはしていなかった。学力レベルの差はあれ、当時の私と、ダーニ君の根っこの心は同じようなものだっだということか。けれど、親の心子知らずだと、母たる奥さんは、息子の事を思っているようである。
 私は、ダーニ君の肩を持ってやりたくなった。私は親ではなかったのである。
「彼は、真面目ですよ。よく私のこと気遣ってくれますし。クレバーですよ」実際、この言葉に嘘はなかった。下痢をしたときにラッシーを持ってきてくれ、ようやく治ったとき「油断はするなよ。まずはダールのスープだけにしなよ」と言ってくれたし、スミスを巡る対話(?)をお膳立てしたのも、元はと言えば彼であったのだ。
 奥さんは、まんざらでもない顔をした。
「まあ。そうね。いや、まだまだ。世間を知らないわ」そうは言っているが、一人息子が褒められるのは、やはりうれしいものだろう。
「私には、彼一人しかいないし。しっかり育ってほしいですよ」
 彼一人。私はここで、一つの情景を思い出す。インドでは、特に貧困層の人口爆発を抑制しようと、様々な政策が実行に移されてきた。政府は、子供は2人までを奨励するスローガンを打ち出し、避妊手術には援助金を出すなどしているという。街中にもそれを宣伝する壁画―ポスターではない―があった。しかし、それでもインドの人口は増え続けている事実。35年前、事態は深刻であるとされていた―そして今はさらに一層深刻化しているであろう―問題。アシムル家は、インド政府の要請を守ってなのか、子供は1人である。私は奥さんに、インドの人口問題をどう見ているか聞こうと喉元まで出かかった質問を、ぐっと飲みこんだ。「彼一人しかいないし」その言葉から、私はああ、本意ではないのかと思った。
(聞いてはいけない)
 すると、それを察したのだろうか。やにわに、奥さんの方から私に問うてきた。
「あなたのお家では、洗濯は機械でやってるんでしょう?」
 不意の質問に、私はちょっとまごついた。
「え、ええ。洗濯機。ありますね」
「あなた、やり慣れていないようだし・・・・」そう言うと、奥さんはクスクス笑った。
「ええ。そうですね」私は、そう答えるしかなかった。
「じゃあ、他の人と、いっしょでも、いいわけね」
 私ははっとした。私が心の片隅で感じた違和感。あの時は何故だかわからなかった違和感が、再び意識されることになった。
(これは、聞いてもいいかな)私はゆっくりと、言葉を選んだ。
「この家のひとたちは、皆さんドービーを利用してるんですね」
「ええ。そう。あら。あなたも利用する気になった?」
「いえ。私は自分の服は自分で洗います」
「あらまあ」やっぱり、彼女はクスクス笑った。
「ですが、奥さんの服は、ご自身で洗濯をされるんですか」
「そうよ」簡単な回答である。
「それは」この時、私は悲しいほどに語彙力がなかった。だから直截にこうくり出したのである。
「disgrace?」
 奥さんは、うーん、とうなって私を見た。その目は、笑っていなかった。
「そう・・・・そうね」
 奥さんは、ゆっくり説明してくれた。かつて、姑さんも息災であった時代には住み込みの、いわゆる下女もいた。洗濯や掃除と言った日常の雑用はこうした下女にさせていた。彼女らはアシムル家の人々より低い位の出身であって、彼女らの身分にふさわしい仕事として掃除や洗濯などが与えられ、奥さんや姑さんはそうしたことには一切かかわらなかった。但し、自らの肌に身に付ける衣服だけは、自らが洗わなければならぬとしつけられた。それが当たり前とみなされた。やがて子育てにも手がかからなくなり、下女を雇うのをやめた後になっても、家人の服の洗濯はしてはならず、しかるに己の服は己で洗うことは強固な家の掟として残存した。本来は掃除もしてはならない行為とされていたが、下女が辞め、姑さんが亡くなったのをしおに、奥さん自らが行うようになった。しかし、洗濯だけはどうしても慣習を変えることはできなかった。それでは、日本人である私が、奥さんしているのと同じ場所で洗濯をすることは何故、認められたのか。奥さん曰く、確かに日本人はアウトカーストなのだが、同時に仏教徒である、仏教徒は神聖なる存在であるから許される、これが奥さんの実家並びにアシムル家から代々言い伝えられてきたことである。
「それと。食事は、一緒にしないでしょ」
「ああ。たしかに」
 そう。食べ物の煮炊きや食べるという行為は、特に神聖なるものであり、他者とは、たとえ家族であっても同じ場でしてはならないのであった。そしてこれらは、この家の、彼女のエートスなのであった。姑さんが亡きあとに、家の掃除を自らするようになっただけでも、大変な改革と言えた。
「だから、あなたが自分で洗濯をしたいと言ったとき、ああ、あなたも同じかなって感心したんですよ。その後で、日本じゃ洗濯機は普及してるって聞いて、ああ違っていたんだって。でも、がっかりはもちろんしてませんよ。Do it yourself.グッド!」そう言うと、又奥さんはクスクス笑うのだった。
 ダーニ君から聞いたのだが、奥さんは18歳かそこらで嫁入りし、ほどなくしてダーニ君を産んだという。つまりあの当時、奥さんはまだ30代半ばだったわけである。それなのに、私の記憶の中にある彼女は、ある種の老成、あるいは疲労を漂わせているのである。おそらく、彼女はその年齢に不釣り合いなほどの―と私が判断する―労苦と骨折りを味わってきたのだろう。その中で、彼女なりに不条理さを飲み込み、自らの中で調和させて来たのだろう。その営為は尊敬に値すると言わなければならないであろう。
 しかし、そうしなければと言いつつ、彼女の生の中で強いられてきたことを反芻するとき、私のアタマの中ではそれらを調和させることができない。どうしても彼女の労苦と骨折りは、どこまでも不条理のままとして、投げ出されたままなのである。どこまでいっても不生産的で見返りのない、不毛な結語が待っているだけなのである。私は甘ちゃんなのだろう。こんな青臭いことを言っていては生きてはいけないのだろう。どこまでいっても、まるで解決はしない。奥さんのエートスは、他所者が云々することは許されない。エートスを拒絶することは、その人の生全般を否定することにもなりかねないのである。それがどんなに苦痛であっても、それが生きるための基底条件であるなら人はそれを受け入れなければならない。それでも、私のアタマは、調和することを拒絶してしまうのである。
「マンマーと、なんかあったのかい」夜、私が眉を吊り上げながら辞書と本をにらめっこしていると、ダーニ君がやってきた。
「さあ」と私が言うと、
「君の事、面白い男だって、言ってたぜ。すごい、機嫌がいいんだよ」
 私は、奥さんのガス抜きを、多少なりともできたのだろうか、だとしたら、少しは他人のお役に立てたのかもしれないとうれしく思ったのであった。だが、それはけっして解決を意味しない。どこまでも宙ぶらりんなままである。
 あれから35年。奥さんはあの後も、あのエートスを、生きていったのだろうか。おそらく、そうなのであろう。今、彼女がどうなっているのかまるで判らない私としては、その思考をしようにも、どこまでも茫漠な中に漂うしかない。
 だが、当時の渦中にいた私は、それにいつまでもかかずらっているわけにいかなかった。
「クソだ。進まねえ!」私はヒンディー語の講義にきりきり舞いさせられ、『国富論』のレジュメづくりにため息をつきまくるのであった。