ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(35)
終章
何を手に入れているのか?永遠に続く遺産
心底、好きだったのだ、今でもだ。
さて、次に何を記そう?ピートとの対話によって明らかになった疾風怒濤の日々のあと、「アイ・ルック・アローン」のコードが与えた静寂。彼とバズコックスはどうなったのだろう?その音楽は忘れ去られていったのだろうか?それとも次の時代に向って?
答えは明らかに後者であった。ピートとバズコックスは再び集結し、業界で成功を収めることになったーしばしば刮目すべき行動でもって。
バンドはオリジナル・ラインナップ(訳注:オリジナルとうたっているが、正しくはない)で1989年に再結成された。資金の一部はファイン・ヤング・カンニバルズが「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」がカバーしたことによる印税収入により賄われた。再結成は熱狂的に迎えられ、イギリスでの「友と語りしTelling Friends」ツアーは彼らがいまだに会場を満席にしうることを証明してみせたのである。彼らはいまだに「それ」を持っていた。「それ」とは卓越したな楽曲と心つかんで離さないステージとの相乗効果が放つ魅力、と言い得るものであった。
バズコックス・ファンにとって不幸なことに、ジョン・マーは自らの本業を疎かにするつもりはなかった。最初のイギリス・ツアーを終えた後バンドを辞めた彼は、ドラッグ・レースに使うフォルクスワーゲン・ビートル用のエンジンを開発するビジネスを起こし成功を収めることになった。バンド解散時まだ21歳であった彼にとって、バズコックスでの日々は同じ年頃の人が学校に通い大人への階段を昇っていく途上に相当し、バンド活動に人生全てを捧げるわけにはいかなかったのだ。マーの一時的代役としてスミスのマイク・ジョイスが参加することになった。当時ジョイスはスミスを辞め、パブリック・イメージ・リミテッドのアルバム一枚に参加していた。どうやら彼は「常に忙しく」していたかったようで、バズコックス側が僅かな休暇を取ろうとしたときにも外部の仕事で自分のスケジュールを目一杯にしたがっていた。三年後スティーヴ・ガーヴェイも、ロンドンでのバンド活動とニュー・ヨークにいる家族との間を行き来するのに耐えられなくなり、バンドを去った。
しかしバズコックスは心機一転、すぐにドラマーのフィル・ベイカーとベーシストのトニー・バーバーという二人のロンドンっ子を揃って加入させた。既にいくつかのパンク・バンドで共演していた二人は並外れてタイトで強靭なリズム・セクションを形成した。二人ともバズコックスの熱狂的ファンで,曲を全て知っており演奏もできたのであった。ピートとスティーヴを心底敬服していて、作品が発売されたら速攻で手に入れていたという。
シェリー,ディグル、バーバー、ベイカーの体制は長く続いた。五枚のアルバムを制作し、三枚ではゲイカーがプロデューサーを務めた。これらの作品群はUA時代の三枚のアルバムから引き続いて受け入れられたが、若手時代にはなかった円熟味とゆとりを示すものでもあった。彼らは世界中でファンを獲得し、アメリカや遠く離れた南米、オーストラリア、さらには日本にまで、幾度となくツアーをして回った。聴衆は七十年代には接することの叶わなかった人々であった。
バーバー+ベイカー時代、バンドは多くの名だたる会場に招かれ演奏を繰り広げた。1994には当時最大のビッグ・ネームであったニルヴァーナの前座に起用された。1996年には大々的な宣伝が打たれたセックス・ピストルズのロンドンにおける大規模な、歴史に残るフィンズベリー・パークでの再結成ライヴの前座を務めた。さらに2003年にはグランジの草分けパール・ジャムを前座に栄えあるマジソン・スクエア・ガーデンで数万の聴衆を相手に演奏もした。
九十年代のバズコックスは、あのむせかえるような時代よりも多くのメディアに登場することになった。チャンネル4の『Big Breakfast』から深夜の『Bed with Medinner』まで広範な番組に出演してその存在をアピールし、頭の禿げかかった年配の元パンク連中以外の人々にも、その名を知らしめたのであった。数えきれないほどの映画やテレビのサウンドトラックにまでその名は浸透することになったが、最近で忘れられないのが映画『The Party Animal』と『Ghost World』での楽曲起用であり、『Shrek2』での「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」のカバー・ヴァージョンの登場であろう。ヴィデオ・ゲームの人気シリーズ『Guitar Heros』にも楽曲は提供され、バンド自身もマーベル・コミックthe Marvel Comic(訳注:ディズニー傘下の、アメリカにあるマンガ出版社)の影響を受けたゲーム『Guardians of the Galaxy』に登場し、『The Telltale Series』には「ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?」が起用されている。[1]テレビにおいてはどうであろうか。「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」のベースラインは、あたかも隣家の壁から漏れ伝わってくるようなBGMとして昼ドラ『East Enders』でしょっちゅう耳にすることができる。さらに「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」は『The Simpsons』でありえない使われ方ををしている。注意深い方ならバズコックスのライヴ告知のポスターが『Friends』(訳注:アメリカのテレビ番組)の劇中、「Central Park」(訳注:喫茶店の名)近くの壁に常時貼られているのに気付いておられるかもしれない。バズコックスの楽曲は世界中の夥しい広告宣伝に使われてきたし、ピート・シェリー自ら1996年にペプシのためにわざわざジングルを書き下ろしたりもしているのだ。[2]
同じく1996年、バズコックスの名が不滅であることを広く認知させる出来事があった。お笑い音楽テレビ番組『Never Mind the Buzzcocks』に、バンド名がバンドに関係なく使われたからである。番組はBBCで28シーズンに渡って放送され、バンドの名はすっかりイギリスでお馴染みとなってしまった。ロクに情報を聞かされずに番組に参加したサクラの観客達は、プレゼンテーターのマーク・ラーマ―やパネリストのフィル・ジョピタスがパンクのファブ・フォーと懇意なのだと思い込んでいたのだけれども。
ピートはパンクの歴史を語る番組にその顔役として頻繁に引っぱり出されると同時に1994年にはBBCの『Antiques Roadshow』(訳注:日本でいう『何でも鑑定団』のような番組)に突然出演したりもした。
2002年、シェリーとデヴォートは期間限定のテクノ・ユニット、バズクンストBuzzkunstを結成した。このユニットは三分間ギターを疾走させる名高きバズコックス・スタイルから相当逸脱した音を構築していたが、二人のテクノロジーへの該博な知識とそれを音楽に結実させる卓抜な技量を示すものであった。
バーバー+ベイカー時代は1992年に始まり、フィルが2006年4月、次いでトニーが2008年夏に脱退するまで安定した活動を続けた。ドラムスの座を継いだのは柔軟なマルチ・プレイヤーにしてアラームやスペアー・オブ・ディスティニーとの共演もあり、さらに音楽教育やオーケストラなどの古典的な楽器にも知見のあるダニー・フォラントであった。ベーシストには才能豊かであり、スティーヴ・ディグルのソロ活動で信頼を得たクリス・レミントンが決まった。バンドは数多くの地をツアーする日々を続け、新しく中国まで開拓した。フェスティバルの常連ともなり、何万という人々の前で演奏しうる能力を持つバンドであることを証明し続けた。
バズコックスは聴衆を魅了し、評論家筋も文句の出しようがなかった。2009年には「アナザー・バイツ」(訳注:「ラヴ・バイツ」章の「リアル・ワールド」節、参照)ツアーを行ない、最初の二枚のアルバム収録曲を中心に演奏した。2012年には待望の「バック・トゥ・フロント」(訳注:「レゾン・デートル」章、参照)ショウが実現した。これは三部構成となっており、第一部はシェリー、ディグル、レミントン、フェラント体制、第二部は「古典的な」ガーヴェイにマー体制、最後の第三部は最大の目玉であるシェリーにデヴォート、ディグルにマーの再結成であり、『スパイラル・スクラッチ』からの四曲を演奏したのである。プロのミュージシャンとしての長いブランクを感じさせない演奏を見せつけたマーとガーヴェイに対し、いくつかのレヴューは二人がショウ全体を喰ってしまったとまで書いたほどであった。
2014年、バズコックスは待望久しい九枚目のスタジオ・アルバム『THE WAY』をリリースした。レコーディング費用はファンからのクラウドファンディングで賄われた。バズコックスがその立ち位置を原点に戻したのは幸いであったというべきであろう。その最初のレコード『スパイラル・スクラッチ』を自ら資金調達し自らリリースしたのであったが、今回のクラウドファンディングはその21世紀版といえた。自主制作と同じことなのだが、クラウドファンディングは、これまでの伝統的なレコード会社との契約のありようも含め、自らの創作の自由を一定レベル保証するものであるのだ。この方法を見出したときメンバーは六十代にさしかかっていたけれども、バズコックスは常に、体制への反骨心を保ち続けていたのであった。
2018年12月のピートの悲劇的な死で、バンドはもうこれまでかと思われた。しかしスティーヴ・ディグルが全曲のリード・ヴォーカルを引き継ぎ、その共同クリエイターを欠いてもなお、果敢にバンドはツアーを行ない、活動を続けている。
バズコックスの遺産は21世紀の今も受け継がれている。UA時代の作品群は様々な形でリイシューされ、多くのリスナーに届けられてきた。最初の編集アルバム『シングルズ・ゴーイング・ステディ』は12インチのヴィニール盤の片面にバンドの全シングルA面曲を、もう片面に全B面曲を収めたものであった(訳注:この記述は厳密には正しくない。UA時代最初の八枚目までのシングルAB面全曲である)。リリースは1979年。バンドのアメリカツアーと同時期であり、イギリスでのリリースは1981年。アメリカからの輸入盤として法外の売上を記録したのを受けてのものであった。NMEからはイギリスで発売された「本国制作でないバズコックス最高のアルバム」と称賛され、廃盤になることなく発売されてきた。2003年にはローリング・ストーン誌の「オールタイム・グレイテスト・アルバム500枚」に他のアルバムと並んでランク入りした。
『シングルズ・ゴーイング・ステディ』はファンとそうでない者双方から受け入れられた。ファンでない者にとってはバンドの魅力を凝縮させた作品であり、ファンにとっては文句のつけようのないシングルA面曲、レコードを裏返せば他に類を見ないB面曲が立て続けに連射されるのを味わえる作品であった。均整のとれたこのソング・オーダーを持つアルバムを、他のバンドは作り得なかった(この種のシングルAB面曲をここまで見事に配置しうるバンドは現在殆んど存在しえないであろう)。
他のビッグ・ネーム同様、種々の編集盤はより完璧なコレクションを望むファンの要請によりリリースされてきた。そこにはUA時代の全作品並びに「アイ・ルック・アローン」が収録された決定版ボックス・セット『PRODUCT』やUA時代の全シングルをミニチュア復刻したマニア垂涎のコレクターズ・アイテム『INVENTORY』も含まれる。2020年には再結成後の全アルバム、ミックス、未発表トラックをまとめたボックス・セットがチェリー・レッドよりリリースされた。現在のバズコックスの作品数は七十年代の、『シングルズ・ゴーイング・ステディ』を含めたそれをはるかに上回り、今やパンクの象徴的存在として不動の地位を得ることになった。
バンドは1989年の再結成後数々の栄冠を獲得してきたが、おそらくもっとも注目すべき賞として挙げられるのが「モジョ認定啓発賞The Mojo Inspiration Award」であろう。バズコックスは2006年、多くのミュージシャンを啓発し、またミュージシャンから賞賛された功により受賞することになった。
モジョ賞を受賞したことは驚くに値しないであろう。彼らのもっとも偉大なる功績はその音楽にあり、初期から現在に到るまで綿々と影響を与え続けているのだ。
多くの後続アーティスト達が、バズコックスの影響を受けてきた。パンク史上最大級のセールスを上げ、パンクと言うジャンルでは最も成功したグリーン・デイは事ある毎にお手本としてマンチェスター出身の四人組を挙げ称賛してきた。グリーン・デイのベーシストでありオリジナル・メンバーの一人であるマイク・ディアントはこれを否定し、1987年にグリーン・デイを結成するまでにはバズコックスなど聴いたことはなかったと主張してはいるけれども。[3]バズコックスからの影響をより素直に認めているバンドとしてREM、ホワイト・ストライプス、アルケイド・ファイアらがいる。もっとも、オーケストラを過剰に使用し装飾をたんまり施した「バロック・ポップ」的なアレンジを施す後継者には「オーガズム・アディクト」や『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』からの強い影響をごまかす向きがあるけれども。
ジョイ・ディヴィジョンの作品とそのプロデューサーの名前から、バズコックスを連想することは不自然ではないだろう。バーナード・サムナーのギターで多用されるバレー・コードやディストーションにはバズコックスとの親和性が高く、とりわけそれが顕著に現れるのが『UNKNOWN PLEASURE』期のライヴ・レコーディングにおいてである。ピーター・フックのベースにはスティーヴ・ガーヴェイのスタイル、とりわけ(アルバム『ラヴ・バイツ』収録の)「ウォーキング・ディスタンス」からの影響が顕著である。スティーヴン・モリスのドラミングにもジョン・マーとの親和性を直ちに窺わせる部分がある。ジョイ・ディヴィジョンの「Atrocity Exhibition」におけるパーカッションとバズコックスの「ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート」のドラムスを比較していただきたい。歌詞のテーマとそこから立ち昇る雰囲気には相当隔たりがあるが、この両バンドに共通しているのがその多彩さであることは,各々の楽曲から明らかだろう。とりわけ共通するのはそのサウンドの「独自性」であり、しばしば評論家やミュージシャン達から指摘されてはいるものの、明確に定義するのは難しい。ナイン・インチ・ネイルスのようなインダストリアル・ロック・サウンドと、マンチェスターの工場や家の地下室で育まれたその陰鬱さや荒涼感あるサウンドとの間に関連性はみられない(ジョイ・ディヴィジョンから聴き取ることは可能だけれども)。むしろそういった類似性を感じ取れるのはピートも指摘しているように、殺伐とした暗さとドイツ実存主義をまとったクラフトワークとするのは自然だろう。
パンクの毒性、豊かなヴィブラート、ヨーデルやさらには雄叫びまで、驚くほど幅広い表現を独特な方法で融合させたピートのヴォーカル・スタイルは、影響を受けたと認める者も含めて、他に類例を見出すことは困難である。余りにもユニークなのだ。その「Oh-ohs」のコーラスはピートとマーティン・ラシェントが共同で創り上げ、バズコックス・サウンドの専売特許となったが、これはアンダートーンズが上手くとり入れている(例えばバンドと同名のファースト・アルバムに収録された「Listening In」)。そしてポール・ウェラーのソロとジャム時代の両作品においても。ジャムの「When You’re Young」で彩りを添えているのがこの声である。同曲は今や殆んどオン・エアされず省みられることも皆無となってしまったが、1979年のイギリス・チャートでは17位にランクされるという立派な成績を上げたのである。
モリッシーの歌詞に登場する自暴自棄、憧憬、不満といったテーマはピート・シェリーのそれと大いに共通するものがある(スティーヴ・ガーヴェイがいみじくも述べている。「結局みんな『ああ悲しきかな』ってなる」)。モリッシーがマンチェスター出身の音楽好きであったことと、ピートや両スティーヴよりも少し若かったこと(さらに言えばジョン・マーよりほんの少し年上だったこと)から、彼がバズコックスから影響を受けていたのは不思議ではない。しかもバズコックスは当時北部で最も成功したバンドだったのだ。
さらに驚くことに、ブルース・スプリングスティーンがバズコックスのサウンドと姿勢に影響されていた可能性がある、ということである。仄聞するに、その出世作となった『BORN TO RUN』(訳注:『明日なき暴走』)から1978年の『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』(訳注:『闇に吠える街』)[4]のレコーディング期までの間にスプリングスティーンはバズコックス・ナンバーをよく耳にしていたというのである。それは『スパイラル・スクラッチ』「オーガズム・アディクト」そしておそらく「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」に限定されるだろう(『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』は1978年3月のリリースであり『DARKNESS』の製作期間と重なるため、『アナザー』を聴いてはいなかったろう)。『 BORN TO RUN』はアメリカ国民からその音楽性を絶賛されたが、『DARKNESS』では一層自らと同じ文化的出自を持つ者への共感がテーマとなっているように思える。パンクからの音楽面での影響を『DARKNESS』にハッキリ見て取ることは困難であるけれども、同アルバムでのスプリングスティーンの歌詞に現れている暴力性は以前になかったものだ。例えば「もめ事に巻き込まれたぜ/もうやる気も失せた」「奴らのツラにツバを吐いてやりたいよ」(「Badlands」より)といったフレーズには1977年のブリティッシュ・パンク勢の曲[5]に通ずる辛辣さがある。
「古典」時代の四人は全員独学で音楽を身に付けており、この独学こそがその独自な音創り最大の要素となったことは間違いない。ポップ・ミュージックは最初の五十年間、一時的な流行りものとされ、エレクトリック・ギターやベース・ギターにドラムスを演りたければ自分でカネを節約して手に入れ、独学でレコードを聴きながら演奏の仕方をマスターしなければならなかった。当時のバズコックスは全員、とりわけパンクの連中と比較してみると際立って(もちろん名前はここに記さないが)腕達者なメンバーばかりであった。
スティーヴ・ディグル自身語っているが、彼はギターを独学で、ビートルズにキンクス、フーやスモール・フェイセズといった六十年代のヒーロー達を手本にして、さらに作曲法はピート・タウンゼンドから学んだという。彼とピート・シェリーで創り上げたギター・サウンドは、識者ぶった連中から安直にバズコックス・サウンドを特徴づけると評されてきたが、次世代のミュージシャンから称賛され受け入れられてきた。実際八十年代から現在に到るいわゆるインディ・シーンの特色とされるギター・サウンドの基礎はバズコックスが築いたとされるのが定説となっている(本心を言えばその良し悪しは別にして、ピートとスティーヴの織りなす複雑なギターの絡み合いを二人が意識的にとり入れたことで、互いの創作における緊張関係と親密さをさらに促進させることになったのかもしれない)。
バズコックスを有名にしたのはピートとスティーヴのギター・サウンドであったわけだが、バズコックス・サウンドを決定づけたのはそれだけではない。他の二人の働きも等しく重要であった。ベーシストのスティーヴ・ガーヴェイは元々ギタリストであったが、フォーク・ロック・バンドのウィッシュ・ボーン・アッシュのベーシスト、マーティン・ターナーに衝撃を受けベーシストに転向した。スティーヴはロックのスタンダード・ナンバーをマスターし、(売れ線ねらいの『トップ・オブ・ザ・ポップス』スタイルの曲を集めたピックウィック・レコーズPickwick Recordsの作品を演奏する)コピー・バンドに加入、14歳の頃から、労働者向けクラブや社交クラブなどで演奏活動をするようになった。彼自身の話ではギターから楽器を始めた故に「昔からそれなりに上手く演れたんだよ。一人前にできたんだ」スティーヴは自分のスタイルをメロディックで複雑なものであると自覚しており、他のパンク・バンドとは際立って異なっていた(例えばシド・ヴィシャスかディー・ディー・ラモーンのベース・ワークと比較していただきたい)。スティーヴは当時の演奏の組み立て方をこう回想している:「大抵はピートとスティーヴがバレー・コードを押さえて、二人とも全く同じフレーズをかき鳴らしていた。ちょっとスリー・ピース・バンドかと思ったよ。歪みまくったギターの音で埋め尽くされるんだけど、メロディックなベースラインを入れるスペースもたくさんあった。「ペダル」は使わなかった。ちょっとしたオブリガードとか何か気の利いたフレーズを入れようと努めたね。俺にもイケてるんだってとこを見せたかったんだ。まあ自己顕示ってヤツだったんだよ!でも、皆好きにやらせてくれたんだ」
スティーヴの奏法を決定づけていたのは(「ユー・セイ・ユー・ドント・ラヴ・ミー」で聴かれる)ジャズやフュージョン界ではよく用いられる和音を用いたベースラインであり、ニ音の高音弦を頻繁に用いることであったが、大部分の曲におけるオブリガードはシンプルな、ルートと五度の音を組み合わせるという、多くのパンク・バンドの常套フレーズであった。さて、ガーヴェイはピートとスティーヴのプレイ・スタイルが自らの「トレブリー」なサウンド作りに寄与したと指摘している:「二本のギターが同じコードを弾いて、ベースがギターのバレー・コードに並走していく。そうすることで俺はより高い音を出せるようになった」彼はフリーのアンディ・フレイザーの奏法に影響を受けるとともに、プログレ・バンド、イエスのベーシストであるクリス・スクワイアの作り出した「リード」サウンドにも傾倒していた。ガーヴェイは言う:「確かに他のベーシストより二本の高音弦を多用するね。たぶんそれが俺のスタイルなんだろう。けどそれは注目されたかったからなんだろうな!アンディ・フレイザーも高音弦を多用したけど、低音弦へのポジション移動も「ダイナミック」だったんだ。メリハリがあって、ドラマチックな効果を生んだね。で、俺もとり入れようとしたわけさ。特に速いテンポの曲でね」
ガーヴェイよりひと世代年長の、エルヴィス・コステロズ・アトラクションズのブルース・トーマスは六十年代から七十年代のミュージック・シーンを回顧した著書『Rough Notes』の中で、バズコックスに注目していたことを記している。そしてもちろん、ジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーのピーター・フックはベースの高音域を積極的に使うことで名高い(フッキ―曰く、初期に使用していたアンプが酷い代物で、バーナード・サムナーのギターにかき消されてしまわないように高い音でベースを弾かなければならず、後年ニュー・オーダーでシーケンサー・ベースやシンセ・ベースを使うようになってからは、その流れを汲んだ、よりメロディックで「リード」的なスタイルが、サウンド全体に適していたからだという)。例えばジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」におけるベースラインは、ほぼピタリとメロディをなぞっており音域は極めて高音域である。オーケストラでいうところの最低音域を成すダブル・ベースやチェロというより第一バイオリンを補佐し「音程を外さず正確に演奏することが要求される」第二バイオリンを思わせる。
ドラマーのジョン・マーは六ヶ月でドラムスのイロハを身に付け、弱冠16歳にしてバンドへの加入を果たした。ジョンは生まれながらのパーカッション奏者であり、正確にして「スイング」する術を備えた奏法は他の(後(のち)にバズコックスに一時的な参加をした者も含め)「メトロノームの如く規則正しくリズムを刻む」ドラマーにはとうていマネはできないだろう。マーのスタイルの特徴と天才性を示すのは「ロールよりもハイハット〔シンバル〕」である。この独特な演奏スタイルはキリング・ジョーク(訳注:以下KJと略)の「Pssyche」や「Empire Song」で容易に聴き取ることができよう。KJは1977年のパンク期、というよりポスト・パンクのバンドとすべきだが、ポール・ファーグソンがその僅か一つ年上のマンチェスター出身のドラマーから影響を受けていることはごく自然に了解できるだろう。KJはその「部族的」なパーカッション・サウンドも売りにしていたが、マーはその名手であった。
バズコックスのデビュー・アルバム『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』に収録された「ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート」はマーの革新的なスタイルと卓越した技巧を示す格好の一曲である。ピートの創る歌詞は曲の肝となるべきものだが、この5分20秒という長尺ナンバー(パンクの基準からすれば長い)において歌詞は意識的に控えめなものとなっている。ピートの曲にはめったにないものだが、その言葉には重層的な味わいがなく単一なリズムを強調して聴く者を催眠状態に陥れる。言葉の意味合いよりもリズムに重きを置いているようにみえる。マーのドラミングの卓抜さに自然に引き付けられる音処理がされている。パーカッションのみで始まるイントロ、(40秒という)長いドラム・ソロ。バズコックスのライヴでは最もパワフルなナンバーの一つとして定番曲となっている。その部族的なサウンドは(マルコム・マクラレンがピストルズ解散後にデッチあげた)バウ・ワウ・ワウにパクられ、八十年代初頭に絶大な人気を誇った『KINGS OF THE WORLD FRONTIER(邦題:アダムの王国)』期のアダム・アンド・ジ・アンツにもとり入れられたが、それらは最も早くレコード化された例ではない、とするなら、パンクのレコード上に最も早くとり入れられた例が、「ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート」であったといえよう。
ジョン・マーのドラミングは後のパンク勢にも影響を与えている。あの特異な(『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』収録の)「ユー・ティアーズ・ミー・アップ」のラン・タ・タン・タッというパーカッション・スタイルは初期ブリティッシュ・ハードコア・パンクのディスチャージがとり入れている。ディスチャージは1977年、イングランドはウェスト・ミッドランズ州内のストーク-オン-トレント圏にあるポッテリースPotteriesで結成された。ポッテリースは粘土clayの産出が豊かであるため、産業革命初期には陶器製造の中心地となった(ディスチャージが所属したレコード・レーベル名はクレイClayである)。多くの陶器pottery製造工場同様、ストーク地元の炭田も「経営不能」とされ、軒並み廃業へと追い込まれた。マーガレット・サッチャー期の1979年以前からディスチャージは活発な活動を展開していた。産業の衰退は大量失業をもたらし、併せて核兵器や各国の飢饉といった世界規模の問題がディスチャージを生み、1977年のパンク・バンド達と共通する激烈なメッセージを放つことになった。ただその表現の仕方でいえば、1977年組の方がよりアート・スクール的な、気取った傾向にあったのだけれど。その攻撃的で速射砲のようなドラミングはディスチャージ以降Ⅾ—ビートと名付けられ、あらゆるパンク勢に浸透することになった。クラスト・パンク、カン・パンク(スウェーデンでは「ブート・パンク」をこう呼ぶ)そしてクラストビートといったところである。こうした様々なパンクのスタイルは日本、ブラジル、スペイン、そしてもちろんスウェーデンといった国々にいるバンド達の活躍によって世界的な知名度を得ているが、現在Ⅾ—ビートを熱心にとり入れているのは、こうした他所(よそ)の国々である。Ⅾ—ビートはパンクやメタルをクロスオーバーした多くのジャンルで使われてもいる。
さて、我らがピート自身のギターも忘れてはならない。彼をいわゆる「ギタリスト」と呼ぶには抵抗がある。彼は楽器を扱うことを、ソングライターが作曲をする際のやむにやまれぬ必要悪とみなしていた。「奥ゆかしい」者たちの一人として、ステージでの手持無沙汰解消の道具とみなしていたのかもしれない。バズコックスがギタリストにギタリスト兼リード・ヴォーカルではなく、アンダートーンズのような二人のギタリストにシンガーという編成であったならピートのギターに居場所はなかったであろうし、バズコックスのギャラは四等分ではなく五等分にされなくてはならなかっただろう。しかし1977年末バズコックスのライヴに、後年ピートのソロ・アルバム『XL-1』にも参加したバリー・アダムソンは、ピートには彼にしかないスタイルがあったと以下のように語っている:
「ピートはとても聡明なギタリストだった。皆がやるようなペダル・エフェクトでもってサウンドをコネくり回すことは一切やらずに、あんなホレボレするプレイをしてみせたんだから。ホントにユニークな音作りをしていた。いろんな要素が一つに溶け合っていた。彼が目指していたセンチメンタルでロマンチックな情景が、その音楽を聴いていると浮かび上がってくるんだ。バズコックスが結成間もない頃のハワードが辞める前はまだ、パンク然とした粗っぽい音作りだったけど、だんだん洗練されていったのはたぶん、ギター二本の体制にしたからだろう。ピートはギター馬鹿gutarist's guitaristじゃなかった。ギターを、曲をより濃やかに表現しうるノイズを作り出す道具とみなしてたんだ。ソングライティングではさらに積極的に使ってたね。ギターは曲の構成を練るための手段であったわけだ。もちろん誰もが忘れようがない,ギタリストなら誰でも知ってる「ボーダム」」のソロがある。リズムがそのままの中、あのニ音だけの「反リード」がくりかえされるんだ。曲の持つ気怠さ、ウンザリした感情を見事に伝えている。普通一定の小節が進めばソロの音を自然に変えるだろう。ピートは予想を裏切ってひたすら同じニ音だけを弾き続けるんだ。天才だよ。オレンジ・ジュースが特にピートのギターに影響を受けているね。本人達が「ボーダム」への敬意を〔1983年の〕「Rip It Up」で表しているしね。歌詞(「知っての通り,バカをやってる・・・・『ボーダム』ってタイトルの付いた曲が好きさ・・・・」)と、音楽的にはニ音ソロを混ぜ合わせたところ、この両方で。それに「Shot by Both Sides」のギター・パートはマガジンとジョン・マッギオークがつくったもんだと皆思ってるけど、実際はピートなんだ。今や古典的なリックになってるけどね」
自らをギタリストだと認めていなかった者が、これほど称賛されている例が他にあるだろうか?
2018年12月、ピートが亡くなったとき、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ガンズ&ローゼズ、モグワイ、REⅯ、デュラン・デュランにスパンンダー・バレエ(ニュー・ロマンティクスが大流行していた1981年には、その僅か四年前にボンデージ服と安全ピンがもてはやされたことは都合よく忘れ去られていた)といった、共通点のないバンド達から追悼の言葉が相次いだ。バズコックスの影響は世代を超えて浸透している。―音楽的に見てひと世代の区切りはおそらく十年ないし十二年だと思うが―。今や21世紀最初の四半世紀の内にハッキリと、ポップ・パンクとその周辺、さらに他のジャンルにもその影響は顕在化している。ケバケバしいポップ・パンク・バンドのフォーエヴァー・ザ・シッキストもまた、その曲「Whoa Oh!」で見事なバズコックス流コーラス・ワークを披露しているのだ。
そしてピート・シェリーのバズコックス時代、その後の衝撃的といえるソロ活動がシーンのプレイ・スタイルに、そしてアーテイスト達に影響を与え続け、その影響はより広範に音楽界に、ついには社会全般に万華鏡の如く広まっていった。
バズッコクスはパンクのパイオニアとして称賛されてきた。それは全くもって正しい。しかし彼らは「パイオニア」を超えた存在であった。彼らは観察者であり、おそらくは洞察者であった。セックス・ピストルズを演奏させようとマンチェスターに招聘し、その広告宣伝をすることでポップ・カルチャーの様相を一変させた運動を先導していったのだ。
それではピートとハワードがレッサー・フリー・トレード・ホールで二回のライヴを実現させるべくピストルズを招聘しなかったなら、かつピストルズの、そのもっとも初期のショウを目撃することもなくバズコックスを二人が結成することもなかったなら、と想起していただきたい。その後の展開はまるで違っていたことは毎違いないところである。
パンクは革命的なジャンルとして登場してから長い年月を経てファッションの常識を粉砕し、生き方を指すものにすらなり、一時の熱狂も過ぎ去った残照としてロンドンの片隅に細々と生き長らえている(あるいはとうの昔に消え去っている)とみなされているのかもしれない。バズコックスは非中央圏にパンクをもたらし、パンクに非中央圏の存在を知らしめたのである。
七十年代のイギリス音楽業界は、ほぼロンドンに牛耳られた格好であった。A&Rの男性(当時女性のA&Rなどいなかった)は進取の気性に欠け、都会以外の土地に居るタレントの発掘にはまるで消極的であった。バズコックスは音楽シーンに衝撃を与え、そのエキサイティングな活動は南東部のはるか彼方にまで轟き、レコード会社に都市以外の土地にも見返りがあることを証明したのであった。マーク・E・スミス、モリッシー、ピーター・フック、そしてバーナード・サムナーは自分たちのバンド結成のきっかけを得られなかったかもしれないのだ。フォール、スミス、ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、あるいはこれらのバンドに影響を受け称賛する後続のミュージシャンたちは現れなかったかもしれないのだ。
トニー・ウィルソンはファクトリー・レコーズ創立の父として、その死後マンチェスターの世俗的守護聖人崇められることなく、ボーイスカウトの慈善活動やら猫が木に登っただのといった話を提供するつまらぬ田舎のしがないテレビ司会者で終わったかもしれないのだ。ファクトリー・レコーズなしに八十年代初頭のマンチェスター・インダストリアル・サウンドを創り上げたポスト・パンク・バンドは存在しえなかったのだ。その数年後のハッピー・マンデイズ、その他当時のダンス・シーン直系のビートに喧しいギター・サウンドを融合させた「マンチェスター」バンド達も存在しえなかったのだ。そしてもし、ファクトリー・レコーズあるいはニュー・オーダーが登場しなかったら、ナイトクラブの在り方に革命を起こし今日我々の知る「スーパークラブ」(訳注:巨大な、成功し昼間から人々がダンスや飲食に集う場所)の原型となったハシエンダは存在しえなかったかもしれないのだ(ハシエンダが存在しなかったなら、ナイトクラブは今なお、気の抜けたビールの匂いが染みついた脂ぎったカーペットが敷きつめられた、汚い天井から水滴がしたたり落ち、何故かいつも床が水に濡れているトイレの設置された、不潔でいかがわしい地下にあるバー、という存在だったかもしれないのだ)。
翻ってみると今日のマンチェスターは、高度に専門化されたレコード店、夜にひしめくライヴハウスから転業したアート志向のコーヒーショップにヴィーガン向けのカフェの並ぶマンハッタンの亜流だなどとは誰も言わないだろう。21世紀のマンチェスターでは鉛色の壁とウィンドガラスが張り巡らされた高層ビルがそびえ、全世界から音楽愛好家達が心ときめく音楽を創り出すこの地へ集まってくる(スミスのアルバム『THE QUEEN IS DEAD』のスリーヴに登場するかの有名なサルフォード・ラッズ・クラブthe Salford Lad’s Club。その壁にはフィンランド、イスラエル、韓国から遠路はるばる音楽巡礼にやってきた熱狂的ファンが残したバンドへの寄せ書きが書き殴られた付箋が貼られているのが映っている)。
あるいはもしデヴォート時代のバズコックスが『スパイラル・スクラッチ』を発表するにあたって援助を受けていなかったらと想起していただきたい。そうであったなら、イギリスのインディペンデントな音楽は今日の隆盛を見なかったといえる。多くのパンク~ポスト・パンク・バンドはバズコックスのレコード・レーベル設立運営のやり方を、自らのレコードを出すときの手本としたのである(大手配給先から独立したとうたってはいてもレコード「発売」に関しては大手企業に従属している者も含めて)。1980年のイギリス・インディ専門チャートを見ると、ウールワースとかHMVといった大手チェーン店よりもむしろ個人経営の、たいていは非主流派的かつ反商業主義的なレコード店の売上で構成されている(薬局を廃業して大手レコード・チェーン店に鞍替えったところもあったが)。多くのアンダーグラウンドな、あるいはマニア受けするバンドは大手メジャー・レーベルがしようとせず、あるいはできなかった表現の自由をある程度認めてくれる新興インディペンデント・レーベルとの契約を選んだ。
インディはジャンルに関係なく、レコードの販売・配給にあたって日和見主義的姿勢を排除した。インディ・レーベル自らが配給することに徹底してこだわったのは、何よりもビジネス上のトレンドに彼ら自身がそぐわなかったからだった(例えば八十年代末~九十年代初頭のダンス・シーンはインディ・シーンに牛耳られていた)。しかしやがて、メジャー・レーベルがインディ・レーベルに便乗して、インディのテリトリーにまで喰い込んでくるようになってしまった。結果安直な、あたかもインディ・レーベルと契約したかのようなエセ・オルタナティヴにして凡庸なギター・バンドがメジャーから排出されることになった。イギリスのブリット・ポップやアメリカのグランジはインディ・レーベルと契約したバンドにより大衆の支持を得ることになったわけだが、バズコックスという手本がなければ、こうしたバンド達が世に出ることはなかったかもしれない。間違いなくいえることは、バズコックスがいなければオアシスは、そしておそらくブラーも存在しなかったということだ。ニルヴァーナもホワイト・ストライプスも、また然りである。
バズコックスは、その人脈という意味では非主流派であった。僅かな例外を除けば(すなわち「オーガズム・アディクト」「オー・シット」「ユー・ノウ・ユー・キャント・ヘルプ・イット」)、大部分は混じりっ気なしの心震わす愛の賛歌である(あるいは失った愛への悲痛な心情の吐露である)。―だが愛とは、パンクが最も憎んだ四文字言葉だろう―。その楽曲には誠実さと清新な感性が横溢していた。バズコックスは人々の心の問題をとり上げ、聴く者に我々の「自然の感情」を理路整然と表現した。いわば新しい言語表現を我々に提示したのである(ピートが切々と訴え作品化した、この複雑な、日々揺れ動くセクシュアリティをテーマとしたことは、1977年のパンク・バンドの中にあって実にユニークであった)。
UA時代、バズコックスのヴィジュアル表現は傑出していた。そのモンドリアン調のシャツ、小粋に黒で統一された服のコーディネイト。ステージでの見栄えは(当時ロック界で最もスマートであった)ジャムに比べれば地味であったけれど、それは些細なことだろう。そのヴィジュアル・イメージは健全で愛嬌があったし、他のパンク連中からは際立っていた。例えばジョン・ライドンの腐った歯と汚らしいニキビに慢性鼻炎、あるいはシド・ヴィシャスの人を不快にさせる常習的な自傷行為、とは鋭い対照を成していた。パンク界でも指折りの家族的な親しみやすさを持っていた彼らは頻繁に『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演し、音楽好きの若者ばかりでなくその年少の兄弟姉妹や母親、おばあちゃんをも虜にしたのだった。その上スティーヴ・ガーヴェイなどは十代の女の子からアイドル視され、(一度ならずも)『マイ・ガイMy Guy』のようなポップではあるが図解入りの、物議を呼びそうなアイラインの引き方とか、上手いペッティングの仕方とかいった内容を盛り込んだ、ゾッキ本扱いになる雑誌に登場したりもしたのだ(とある『マイ・ガイ』の表紙にはムッとするスティーヴ・ガーヴェイが登場し、その傍らには口紅を塗りたくった女の子のモデルがいかにも気を揉んだ態度でガーヴェイのシャツを切り裂こうとしている、そんな写真が使われている)。バズコックスが上品で穏やかなたたずまいだったから、このマンチェスター出身の魅力的な少年たちは人々(特に女の子達)にパンクへの関心を与えることができた。もし彼らの人となりがそうでなかったら、人々はパンクに恐れをなし、拒絶しただろう。
バズコックスのレコード・スリーヴが,その上品な佇まいをさらに強調することになった。時代の最先端を行き優美ですらあった。今日でも古さを感じさず古典となっている。殆んどのパンク、そして全てのポスト・パンクのシングル盤デザインの標準となるものを、バズコックスは確立してみせたのである(バズコックス以前のシングル盤は、大スターのものであっても殆んどが無地の、デザインなしのスリーヴであった)。そのくっきりとした線、幾何学模様、揺らぎのある色使いは、八十年代のグラフィック・デザインを先取りしていた。これはバンドのイメージ・メーカーであったマルコム・ギャレットによるところが大きい。彼のデザインは次の十年間のスリーヴ・デザイン(例えばカルチャー・クラブやヘヴン17,デュラン・デュラン)の礎となり、コンピュータを使ったグラフィック・デザインの始祖ともなったのであって、現在までのデジタル技術をとり入れたグラフィック・デザイナーの多くに大なり小なりの影響を与えているのである。
さらに、バズコックスの存在をより深く世に浸透させたのが、シークレット・パブリックSecret Publicである。元々はファン・クラブとファンジン制作の組織としてスタートしたが、今日に到るまでファンとの交流の中で発展・成長を続けてきた。[6]シークレット・パブリック誕生のヒントになったのは、美術家に学生、その他知識人層から成る国際的な組織シチュエーショニスト・インターナショナルSituationist Internationalであった。シチュエーショニスト・インターナショナルはシュールレアリズムと極左政党とが、破壊活動を目的とする「状況主義者によるデマゴーク」を遂行する連中と合体した、いわば哲学思想体制のことである。シークレット・パブリックの名はアメリカの急進的理論家ケン・ナッブの著作『公然の秘密、その案内The Breau of Public Secrets』から取られた。出版物は光沢のある高水準な雑誌スタイルの『シークレット・パブリック』と銘打たれたファンジンで、ジョン・サヴェージとリンダーによる今や美術作品のスタンダードとなっているコラージュ作品があしらわれていた。そういったヴィジュアル的主張もさることながら確たる社会批評も盛り込まれ、ポップ・アーティストのリチャード・ハミルトン(1922~2011)への敬意も表していたがそれ以上にセックスやセクシュアリティ、ジェンダーへの言及も行なわれた。リンダーはヴィジュアル・アーティストとして、自らのフェミニスト色を前面に出した写真、モンタージュ写真、論考などでイギリス美術界での名声を確立、ハノーヴァ、パリ、ニューヨークでも高い評価を得ることになった。彼女の空想的で辛辣な政治姿勢を示した創作『肉でできたドレスMeet Dress』(恋にか偶然にか、あるいはその両方だが)レディ・ガガが2010年に着用して物議を醸した。リンダー自身ポスト・パンクのミュージシャンとしてもルーダスというバンドを率いてバズコックスのレーベルであるニュー・ホルモンズと契約しここでも業績を残した。ジョン・サヴェージは国内屈指のパンク並びにポスト・パンクの評論家の一人として『オブザーバーObserver』といった新聞、『フェイスFace』『モジョ』といった雑誌、『ニュー・ステイツマンNew Statesman』などの左翼系文化政治雑誌に数多く執筆し浩瀚(こうかん)なパンク研究書『イングランズ・ドリーミング』は必読である。
一方ファン・クラブの謹告。元々は会員が普段必要とする情報を知らせるものであった。そこには来るべきツアー日程、歌詞、安直に「パンク的な」イメージで流通してきたものを補正した高画質なバンド写真を添えたインタヴュー、さらにはファンからの投稿も含まれていた。シークレット・パブリックは多くの意味で、パンクの原則に忠実であり続けた。
シークレット・パブリックが運営していたファン・クラブの役割は聴衆と「四人との壁」を取り払うこと、そしてファンとバンドとの絆をつくることであった。とりわけピートはファンジンの編集(こちらの方はリチャード・ブーンが熱心ではあったが)も含む創作活動を通じてファンを知ろうと努力し、積極的にファンとの交流を図った。同時にピートはポップ・バンドがもたらす「神秘性」を取り除こうと躍起になった。
一つの顕著な例が、UAと契約してから最初の一年間、1977年8月から1978年8月までのバンドの貸借勘定を公けにしたことである。バンドの、総所得を差し引いた総支出額が箇条書きされておりこれを見るとバンドには僅か3108ポンドしか手元に残っていない。今日に比べて七十年代の方が相当に貨幣価値が高いとはいえるが、見方を変えれば四人のプロ・ミュージシャンとマネージャーが一年間やっていくには淋しい金額である。この貸借勘定書には以下の茶目っ気ある断り書きが付されていた。「もちろん、これは秘匿事項である・・・・」そして素っ気ないコメントで結ばれている。「皆さんの稼いだカネがどうなるのか、言うまでもないだろうが」[7]
ピートなら、自己の信念を示す実例として、彼の元に投書してきたファンのエピソードを語るだろう。1979年か1980年、スケアード・スティッフスScared Stiffs(訳注:びくびく恐がる奴ら)がピートに宛てて自分達の作った粗野な音源をシークレット・パブリックで発表してくれと送り付けてきた。自作のファンジンのコピーも同封されていて、音源は自主製作ということを差し引いてもなかなかな出来であり、スケアード・スティッフスが情熱を持ったグループであるかが窺えた。シークレット・パブリックのスタッフとは殆んど面識のなかったこの「バンド」のメンバーには、熱狂的なバズコックス・ファンであるウェスト・ミッドランズの鄙びた温泉街の九歳になる子と、そのいとこでドラムス担当の十一歳になる子がいた。いってみればホワイト・ストライプスやロイヤル・ブラッドのプロトタイプといえた。曲の数々は九歳の子のベッドルームで二台のテープ・レコーダーを使って録音され、元々録ってあったギター、ヴォーカル、ドラムスのテープを流しながらバッキング・ヴォーカルと追加のギターをオーバーダブしたものであった。いとこの作ったオリジナル曲「Inside the Hit Factory」はピート・シェリーがサウンズ誌で受けたインタヴューの見出しから取られた。二人の少年は驚くほどの若さでバズコックスの思想信条を理解し、血肉化していたようだった。それはバンド名に「the」を入れず、メンバーの名にはピート・シェリーやハワード・デヴォート同様に乱暴でなく不快さを感じさせない、平凡な変名を用いたところにも現われていた(「ピートとスティーヴ・マギーPete and Steve Mageeと名のった」。スケアード・スティッフスのバズコックスへの想いやシークレット・パブリックに取り上げられたい情熱は本物であったけれども、この「バンド」とその宣伝材料は手の込み過ぎた、状況主義者による戯れというところだったのだろう。バズコックス自身が己のポリシーを曲げて身を取り繕うようなことになったとしたら、それこそスジガネ入りの状況主義者になったことだろう。[8]
誰に対しても迎合しないという、ファクトリー・レコーズを象徴する流儀にしてレーベルを有名にした倫理観を創り出したのがピート、ハワード、マルコム・ギャレット、ジョン・サヴェージ、リンダー、リチャード・ブーンであったとするのは正しくないだろう。ファクトリーを創ったのはトニー・ウィルソンであったとするのが正しいことは、バズコックスとその周辺が認めていることである。所属アーティストを拘束し抑圧することは決してせず、他のレーベルがまずやろうとしなかったアーティストへの表現の自由を認めたという姿勢は極めて革新的であった。その型破りなビジネスが、ニュー・ホルモンズと『スパイラル・スクラッチ』に範をとっていると考えるのは、ファクトリーが極めつけのインディペンデントなレーベルであったが故に困難なことではない。
ファクトリーから発表された作品の配当明細、不動産や備品に関する書類に到るまで商品番号を付す行為。例えばもう終了してしまったイベント宣伝用のポスター(FAC1)、ファクトリーとの雇用関係決裂の際マーティン・ハネットのよって作成された起訴状(FAC61)、ハシエンダ・ナイトクラブ(FAC51)、ハシエンダに居ついた猫(FAC91)、さらには2007年悲劇的にして早過ぎる死を迎えたトニー・ウィルソンの棺(FAC501)など。これらは明らかにマルコム・ギャレットがデザインしたバズコックスのシングルやアルバムのスリーヴに付されたUPから始まるシリアル・ナンバーに影響されたものである。そしてファクトリーが好んで使用したサンスクリット的なひげ飾りの付いた書体、鮮やかな色味、肉太の活字。これらはバズコックスのレコードや宣伝に最初に導入されたものなのである(ファクトリーのデザイナーにして発起人の一人であるピーター・サヴィルはバズコックスのグラフィック責任者であったマルコム・ギャレットとマンチェスター産業技術大学(ポリテクニック)の同窓生であり、グラマースクールも同じであった。サヴィル自身、その初期の活動においてマルコム・ギャレットの影響と励ましがあったことを認めている)。
状況主義という概念は、ファクトリーのご神木であったトニー・ウィルソンの思想を形作り、バズコックスのシークレット・パブリックやニュー・ホルモンズ設立の理念も同様という意味で重要である。ハシエンダ・ナイトクラブの名は都会の環境がその国民の感情や振る舞いに影響を与えると考察した心理学者にして状況主義者の著『新都会主義への指南書Formulary for a New Urbanism』から取られたものである。ケムブリッジ大学の教育を受けたウィルソンがブーンやサヴェージなどから状況主義者の教義を耳学問で吸収したに過ぎないと決めつけるのは正しくないだろう。しかし完全独立自営のレコード・レーベル設立、正確には復活の、最も象徴的なブランドにバズコックスも影響を与えたのであって、そのバズコックスの創作の理念と状況主義のそれとは通じるものがあるのも事実である。
ギター・バンドへの、バズコックスの影響力についてはあまねく知られているけれども、ピート・シェリーのエレクトロニク・ミュージックへの貢献については、彼のソロ・ワークがセクシュアリティやジェンダーといった社会的障壁に触れたこともあって余り注目されてこなかった。
ピートの最初のシングル「Homosapien」と同名のアルバムは八十年代を象徴するエレクトロニク・サウンドのお手本といえる。シングルがリリースされた1981年はイギリスでシンセ・ポップが「当たりをとった」年で、デペッシュ・モード、ソフト・セル、ABC、デュラン・デュラン、フォックス‐レス、ミッジ・ユーロをフロントに据えたウルトラヴォックスが大躍進を遂げた。
長きにわたりバズコックスのプロデューサーを務めたマーティン・ラシェントはシンセサイザーに注目せざるを得なくなっていた。というのも、彼はブリッツ・クラブの隣りにオフィスを構えており、スティーヴ・ストレンジにラスティ・イーガン、ブリッツ名物のホストにDJ、さらにニュー・ロマンティクスの広告塔ともいうべきヴィサージの結成メンバーとも昵懇の仲となっていたからだった。ラシェントはレーダー・レコーズの融資を受け、アンドリュー・ラウダ―が頭取を務めるワーナーの暖簾分けをしてもらっていたが、ラウダ―にはかつてUAのA&Rマンであった時代にバズコックスやマーティン・デイヴィスと契約を交わした実績があった(上手い具合にレーダー・レコーズがオフィスを構えていた60パーカー・ストリートのビル最上階に、ラシェントのオフィスがあった[9])。融資を受けてラシェントはローランドの最新機材をあつらえ、スタジオを建設した。スタジオにはMC8マイクロコンピュータ(初期のシーケンサー)にシステム700、ジュピター4(アナログ・シンセサイザー)、加えてシンクラヴィアにフェアライトCMI(初期のデジタル・シンセサイザーでサンプリングが可能であった)まであった。ラシェントはヴィサージの、バンド名を冠したデビュー・アルバムのレコーディング・セッションに「立ち会った」が、実際のプロデュースはミッジ・ユーロとバンドが務めた(ハワード・デヴォートが率いたマガジンのメンバーであったベースのバリー・アダムソンとギターのジョン・マッギオークが数曲で参加している)。ヴィサージのドラマー、ラスティ・イーガンによればヴィサージのメンバーは自分達の機材を使ってラシェントの十八番「ジェネティック・サウンズGenetic Sounds(訳注:遺伝子音)」をモノにしたが、ドラム・セットを一切使わず保守的なかの(・・)プロデューサーを仰天させたという。ラシェントには「この手のレコーディング経験が全くなかった」が直ぐにこの新しいテクノロジーをとり入れ、「Homosapien」のレコーディングを開始した1981年2月にはそれをフルに使いこなせるようになっていた。
アルバム『HOMOSAPIEN』収録曲は当初、バズコックス用のデモであった。これらのデモはヴァージンとアイランドに送られ、結果アイランドがピートとソロ契約を結ぶことになった。ヴァージン創設者の一人でありマーケティングとA&R部門の最高責任者であったサイモン・ドレパーはそのデモを聴いた時、とりわけラシェントが施したドラム・サウンドに強い印象を受け、この時感じた不足感をヒューマン・リーグの次作で「解消」させればよいと考えたのだった。この後数々の賞を受賞することになる画期的なシングル「Don’t You Want Me」を含むヒューマン・リーグのサード・アルバム『DAREラヴ・アクション』を、ラシェントはジェネティックでプロデュースすることになった。アルバムで多用されたⅬⅯ-1を含む数々のエレクトロニク楽器は1980年にピートが手に入れたものである。ラシェントが培ったレコーディング・テクニックは、ピートとの共同作業で実を結ぶことになる。『DARE』は傑作と称され、トリプル・プラチナムの売上を記録した功績により、ラシェントは「1982年度イギリス・ベスト・プロデューサー賞」を受賞した。しかし(仄聞するところでは)『HOMOSAPIEN』と同じ年の、初期の頃だけであったけれど、ヒューマン・リーグのフィル・オークリーはラシェントのシーケンサーとプログラミングのテクニックを高く評価していなかったという。
ピートのセカンド・ソロ・アルバム『XL-1』(リリースは1983年)でベースを弾いたバリー・アダムソンは、マーティン・ラシェントやピートとの制作プロセスをこう説明している:「マーティン・ラシェント『ここにあり』だったね。先進的な技法をどんどん持ち込んでいた。『Telephone Operator』を聴いてもらえば判るだろう。ピートがギターを鳴らして、私たち三人で傑作と呼べるものに仕上げた。マーティン・ラシェントは自分の流儀というものをきちんと持っていた。彼がヒットさせたバンドとの仕事が何よりの証しさ。ピートとは一級の作品をつくり上げる力量があった。『XL-1』で使ったフェアライトというデジタル兼アナログのサンプラーでシンセサイザーがあるんだけど、とんでもない代物だったね。扱い辛い機材だったけど、基本となるアレンジから何から何まで、他のレコードでは聴くことのできない音を創り出すことができた。曲を書いたのはもちろんピートだったけど、バズコックスとは明らかに一線を画す音像。あれを創り上げたのはマーティン・ラシェントなんだ」
ピートのソロ・デビュー・シングルは新しい音楽ジャンルの模範になると、当時十代の若者向けポップ・ミュージック雑誌『スマッシュ・ヒッツSmash Hits』の編集助手で自らも創作に取り組んでいたニール・テナントから評された。彼とキーボーディストのクリス・ロウはシングル「Homosapien」を研究し、テナントは執拗にギターとシンセサイザーを融合させる実験を続けた。ペット・ショップ・ボーイズは一億枚を超えるレコードを売り、「Outstanding Contribution to Music(訳注:音楽への傑出した貢献)」やNME主催の「Godlike Genius’Award(訳注:神に等しき天才賞)」と言った数々の賞を受賞してきた。ピート・シェリーとは個人的に親交があり、八十年代半ばにはプロデューサーを共有し合うほどだった。例えば多作にして多才なステファン・リーグはピート・シェリーのサード・アルバム『HEAVEN AND SEA』とペット・ショップ・ボーイズの最初の二枚のアルバム『PLEASE』と『ACTUALLY』をプロデュースしている(マーティン・ラシェントは一時的に子育てのため音楽業界を引退しており、ピート最後のソロ作品はプロデュースしなかった)。
『HOMOSAPIEN』の痕跡は今日のエレクトロニク・ダンス・ミュージック・シーンの中で今なお、はっきり見て取ることができる。例えばエイフェックス・ツインとケミカル・ブラザーズはヴィンテージのアナログ・ローランド・システム700の有名なマニアであり、オルビタル、モビー・アンド・フューチャー・サウンド・オブ・ロンドンはレコーディングに専ら初代のローランド・ジュピター8(1981年製で、ジュピター4の後継機)を使用している。リンⅬⅯ—1は限定生産であったこともあり、そのハードウェア類が時代遅れとして捨て置かれてきたが、今はその特異な音像が容易にダウンロードできる見本として、一聴してそれと判る八十年代ドラム・マシンと(デジタル・オーディオ機器類とを)接続しコンピュータ処理したハンドクラップ音ともども、需要を生んでいる。
しかし「Homosapien」はそれが与えた音楽的影響の他に、社会に与えた影響という意味でも魅力ある楽曲である。イギリス・シングル・チャート入りを果たすことはなかったが、この曲は同性愛を肯定し、ダンス・フロアでは引手あまたになるほどの人気を得たのだから。シングル「Homosapien」はオーストラリアのチャートで4位、カナダでは6位という好成績を収めたし、アメリカのダンス・チャートでは14位に達した(12インチ盤が7インチ盤よりもよく売れたのは、12インチ盤の、より長時間の「ダブ」ミックスの方がドラッグ、特に西側諸国で人気を博していたMDMAを服用して聴いた時により一層「のせてくれる」からだった)。オーストラリアとカナダでこのレコードを買っていたのはバズコックスのレコードを買っていた若いパンク・ファンではなく、ゲイの連中と世界各地のナイトクラブに集い飲みはしゃぐような連中だったのだろう。この曲の人気は進歩的なカレッジや独立系のラジオ局オン・エアされることでさらに高まり、上記二国のチャートに反映されることになったのである。
しかし、イギリスでの事情は異なっていた。シングルはBBCで放送禁止になったが、このBBCの措置に反対の意見が出なかったのは異常なことである。放送禁止を巡ってのピートの不用意な発言や、「Homosapien」をイギリスでは演奏しないと彼が決めてしまったということはあったにせよ、BBCが放送禁止にしなければイギリス・シングル・チャートでも一定の成績を収めることはできたろう。今日なおイギリスでシングルが売れるか売れないかのカギは、BBCが握っているのである。
放送禁止は道理に反した、苛烈で無意味な措置だろう。この曲にはセックスやセクシュアリティに直接言及した箇所はなく、聴く者を不快にさせるようなワイセツな表現なり言葉も見当たらない。21世紀的な社会慣習やより開かれつつある風潮を鑑みるに、BBCのホモセクシュアリティに対するこれまでの姿勢は大いに反動的で目も当てられないほどに偽善的というべきだろう。1981年、BBCが制作した第二次大戦中を舞台にしたコメディ・ドラマ『It Ain’t Half Hot Man(訳注:母さん、お熱いのは未だ半ば)』に登場するスカートをひらつかせた意気地なしのグロリア、デパートを舞台にしたこれもコメディだが『Are You Being Served?(訳注:お客様、いかがなさいますか?)』に登場する、気取り屋で愛想だけは良いハンプシャー氏の、セックスをほのめかす決まり文句(「私はいつも暇だよ・・・・!」)には家族全員が堂々と視聴できた。一人の男が創った美しく心に沁みる音楽作品が忌まわしいモノとされ夜9時を過ぎてからの、ゴールデン・タイムでない時間帯にも放送されず、他方『Are You Being Served?』でミセス・スロカムのセリフ「pussy(訳注:若い女性、意気地なし、性交の意味がある)にまつわるお下劣なジョークは昼間に公然と放送され、しかもいかがわしいモノとはみなされなかったのである。現在のBBC並びにその職員達は八十年代のときよりは賢明になっているのだろう。現にBBCはリベラリズムのお手本であり続けており、同性愛者の感情を歌ったそれだけのレコードを放送禁止にするというのは、リース卿(訳注:ジョン・リースのこと。BBCの初代総支配人を務めた)の、BBCは中道であるという理念にまるっきり反していると認識しているようであるから。
「Homosapien」の根本姿勢は次の一節に集約されている。「この世は間違いだらけ、だからもっと強くなろうよ・・・・」この曲は直接的なホモセクシュアリティへの言及を意図して行なったわけではなく、明白な政治主張を声高に訴えることもしなかったが、ゲイの誇りと団結を歌ったアンセムになっている。極めて真っ当な感情を描いた簡潔な歌詞は、同性愛の孕む障壁を剔抉(てっけつ)してみせているのだ。
本書で明らかにしたように、ピートは先進技術をとり入れるのに熱心であったし、最初期のコンピュータ・ユーザーであった。ソロ作品にコンピュータ・サウンドを追求したのが証しとなる。アルバム『✕Ⅼ—1』がリリースされた1983年、家庭向けコンピュータ・ZKスペクトラム用のコード解析技術は時代の最先端を行くものとして、音楽誌やコンピュータ関連の雑誌のみならず、アメリカの一般誌『ニューズウィークNewsweek』やイギリスで権威ある『サイエンティストScientist』でも取り上げられた。当時のZKスペクトラムのシステムで作られた映像作品は今なら、ユーチューブで簡単に作れるだろう。単にそれ自身人を楽しませる、というだけではない。草創期のコンピュータ・グラフィックとプログラミングの歴史を検証する意義も有しているのだ。
ピートはハードにしろソフトにしろ、単なる新しモノ好きだったのではない。インターネットのパイオニアでもあった。既に1994年という時期に、自作の歌詞を掲載するウェブサイトを立ち上げていた。ネットでこのようなことをした者、できうるのだと想像した者などほぼ「皆無だったであろう」ウェブは専門の研究所や政府の公的機関内で使用される場に限られ、ビジネスの場には存在すらせず、Eメールが日常的に使われることなどありえない時代であった。ドメイン名buzzcocks.comは1995年に登録され、1996年に最初の利用者が登場した。ハンドルネームはJohn P Lennonという大学生であった。こうしてインターネットでの交流が始まったのである。
buzzcocks.comは念入りにつくられた、情報・発信ウェブサイトの草分けであった。連絡・投書欄が設置されていてファンはバンドの情報を入手することができ、ファン同士の交流も図ることができた。ファンたちの思い出の品を売買交換する告知を投函できる「物々交換店swap shop」なるコーナーまであった。[10]
ピートがネットで目指していたことは今や現実のものとなっている。近い将来、誰もがネットを利用できるようになるだろうしこの動きはされに促進していくだろう。ネットはひとりひとりが、社会から隔絶されたような人とも交流しうるいわば公共広場の役目を担える場である。ネットは創作の場であり、さらに重要なことは、その創作を共有し合える場としても機能しうるのだ。例えばYouTubeはアマチュア・ミュージシャンやパフォーマー志望の人間にとっては最高の場である。彼らはYouTubeを使って世界中の人々に自分たちの創作を視聴してもらうことができる。わざわざレコード会社と契約のことで揉め、レコードを作る費用の工面をしたり、プレスし配給する煩わしさからも逃れられるのだ。ネットは『スパイラル・スクラッチ』を生み出したⅮIYの精神を具現化させてくれるのである。
ピートは他者に分かち与えることを愛した。ウェブでカネ儲けしようとは考えなかった。彼は文化的なものを分かち合い、それが人々の生活の質的向上をもたらすことに大きな喜びを感じていた。ネットでは多くのものが無償で、有償となる知的文化財のようなものであっても他の手段より明らかに安価に手に入れることができる。例えば楽曲をオンライン上で購入するときには、八十年代初頭の7インチシングル盤一枚分の金額で済む。彼はこうなることを夢見ていたし、それが実現することも予見していた。
ピートはインターネットを「愛した」何故なら、それは人々を繋ぐ手段となりえたからであり、バズコックスと人々とを繋ぐ手段でもあったからだった。ウェブへの愛惜もまた然りだった。同じことだが、ピートはテクノロジーに信を置いていて、それは終生変わらなかった。「ネットワークのためのネットワーク」という概念も、すでにピートは七十年代中期、イギリス炭坑庁で働いていたときに創出していた。これが実現されれば自分のファンと常に繋がっていられる。これが彼にとって最大の喜びだったのだ。
ピートの死から数か月、多くの者がバズコックスを、現代のビートルズと評した。バズコックスもビートルズ同様ギター二本の四人編成で、二人のメイン・ソングライターに二人のフロントマンを擁し、リード・シンガーを二人で割り振った。ビートルズ同様バズコックスも非常に魅力的なヴィジュアル・イメージを持っていたが、バズコックスには洗練され古びることのないレコード・スリーヴ・デザインがあった。ビートルズにはその点古拙なものが若干あった(ビートルズの時代にはこの種のモノが非常に多かった)。ビートルズ同様バズコックスも多くの若き大志を持つミュージシャンやソングライターを啓発したが、バズコックスは「自分でやってみるdo it yourself」姿勢を示した。そのキャリアのスタート時点からすでに、自分たちの最初の作品を独力で世に出したのであって、彼らこそポピュラー・ミュージック最初の「民主主義者」といえるだろう。
ビートルズがそうであるように、バズコックスの楽曲は思わず口ずさんでしまうフック、美しいハーモニーと忘れられないリフ、しばしばドライな北部人のジョークを惜しみなく投入した完璧な三分間ポップスとして機能している。リバプールのファブ・フォーがそうであったように、パンクのファブ・フォーはいち時代を画し、同時にその作品は不滅のものとなった。実際ある者はバズコックスの作品を、ビートルズのそれよりも普遍性がある、何故ならビートルズのようなその時代の制約を受けた安易なノスタルジー性がないし、シタールやタンブーラといった今の耳には突飛な、違和感のある楽器も使っていないからだ、と述べている。さらに、バズコックスの楽曲ではジェンダーやセクシュアリティが明確でない、あるいはジェンダーやセクシュアリティについてあえて不特定な描かれ方がなされている。これが、常にヘテロセクシャルかつ男性的視点から描かれたビートルズの楽曲よりもバズコックスのそれがより一層普遍的かつ包括的である理由である。
さて、それではバズコックスの遺産とは?
彼らが創り出した最上の楽曲群は幾多の人に喜びと慰めをもたらし、一つの文化を永遠に、人々のために、変革したのである。
完
[1] この地味なB面曲は、21世紀最初の十年間、様々なメディアの音楽関係者達の間で根強い人気を得てきた。
[2] 30秒間、そのサウンドは明らかに「バズコックス以上にバズコックス的」であった。いつの日かYouTube上で現代版ブートレッグとして登場することが期待される。
[3] アメリカや海外のパンクスの間でのバズコックス人気をみるにつけ、ディアントが「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」や「オーガズム・アディクト」を聴いたことがないというのは、にわかに信じ難い。おそらくは積極的にバズコックス(・・・・)の(・)レコード(・・・・)に(・)耳(・・)を(・)傾けて(・・・・)は(・)いなかったと言いたかったのだろう。
[4] 「初期のバズコックスとクラッシュのレコードは全部好きだったよ。周りは誰も持ってなかったから、買い集めなきゃいけなくてさ」と、スプリングスティーンは2009年のTV番組『Spectacle』でエルヴィス・コステロに語っている。
[5] スプリングスティーンはニュージャージー州の土地持ちブルーカラーの出身であった。かの地の商工業は19世紀には繁栄を続けたが、スプリングスティーンの幼少期には急速に衰退をきたした。ニュージャージー州のアフリカンーアメリカン的市民権の保持という伝統と政治への積極性は1970年代中期から末期にかけてのイギリス労働者階級、とりわけイギリスを代表する織物工業地帯として工業の街から脱工業の街へと苦悩に満ちた転換を味わうことになった当時のマンチェスターと、共通する部分は多い。
[6] ピート自身シークレット・パブリックの連絡欄をよく「覗き見」し、ファンからのメッセージにはすべて目を通していたが、寄付するという文言には殆んど出くわしたことがなかった。ファンサイトのために思いきって名のりをあげる方はおられないだろうか?
[7] バズコックスは、はたから思われているよりもはるかに収入は少なかった、というのは、おそらく真実だろう。後年一部のファンがライヴ会場で売り子に、タダでTシャツがもらえないか聞いていたけれども、きっとファン達は、ピート・シェリーがヴァージン社の社長リチャード・ブランソンのようにカリブの島を所有し、スティーヴ・ディグルがアイアン・メイデンのメンバーであるブルース・ディキンソンのように自家用ジェットにバンド・メンバーやスタッフ達を乗せてやっているのだと思っていたのだろう。しかし実際のバンド関係者らが、会場に向かう高速道路のパーキング・エリアでギンスターズGinsters’(訳注:イギリス大手のファストフード・チェーン店)のパイを買い、控室では終焉後に余った軽食用のマーメイトとかピーナッツ・ジャムのビンを荷物にしまい込んでいるのを見て驚くことだろう。
[8] あの九歳のレコーディング・アーティスト兼プロデューサーの子は成人して芸能関係の職に就いたが、彼の本当の夢はバズコックスと仕事をすることであった。しかし彼はピートに、自分がスケアード・スティッフスのメンバーだと話すことはついになかった。
[9] マルコム・ギャレットの回想:「この部屋をマーティン・ラシェントと間借りしていたんだ(私は製図版をその部屋に置きっ放しにしていた)。スティッフ・レコーズのお抱えグラフィック・デザイナーだったバーニー・バブルスのスタジオがずいぶん早くから入っていた。60号室の勝手口はブリッツの非常口と隣り合わせで、表玄関グレート・グリーン・ストリートの反対側にあった」
[10] これは実際にはトニー・ウィルソンのアイデアであり、世界的規模のオークション・サイトとして有名になったEベイに取って代わられるまで繫栄した事業であった。