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鬼怒川温泉の思い出

こんなtogetterがあった。
鬼怒川温泉の寂れ方がひどく、もう来ることはないだろう。鬼怒川はどうしてこんなに寂れてしまったのか等のツイートがまとめられている。

そういえば数年前、自分も鬼怒川温泉に行ったことがあった。
だけど、そんなにひどかったかというとそんな記憶はあまりなくて、確かに街は廃れていて鬼怒川そのもの以外見る所はなかったけど、それなりに心に残った旅だったと思う。

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その時の写真を引っ張りだしたらおそろしくガビガビな写真が出てきた。
確かこの時、なぜかデジカメを持っていかなくて、手持ちのカメラがiphoneかkindle fireしかなく、タブレットのカメラでトイカメラみたいな味わいが出るかと思ったら全くそんなことはなかった。

右端の建築物がすごいことになっているけど、確か川の増水があったせいだったと思う。今はどうなっているのだろうか。さすがに撤去されているとは思うけど、当時も自然災害によるダメージは散見されて、荒んだ雰囲気はあった。

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泊まったのは川べりにあるB&Bの質素な部屋で、ベッドとテレビとテーブルしかない部屋にぽつんとスーパーリアリズム風ポスターが飾られていた。ベッド&ブレックファーストのアメリカ風スタイルとはいうものの、なんとも中途半端なアメリカナイズトさではある。でも温泉は本館のものを使えたので、特に不満もなかった。

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すごい雑な写真である。

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もっと撮り様はなかったのか。

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自分の写真のセンスに自信がなくなってきた。

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そういえばちょうど熊本地震が起きたころだったのか。

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鬼怒川旅行フォルダを漁っていたら、やたら縦位置ばかりのフィルム写真のデータが出てきた。そういえばトイカメラでハーフ版のものを持っていた記憶がある。フィルムはこんな風に記憶にいい感じの味付けをしてくれる。

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鬼怒川の思い出といえば、宿についたものの遊ぶところもなく、ただ街の中をふらついて川の写真を撮ったりしたくらいで、特に何かをしたという記憶はない。

だけど、自分は旅に行楽気分とか華やかな雰囲気とかを求めていなくて、ただ一人知らない街を歩いて一人の時間を味わって、それが記憶のスナップショットとして頭の中に刻まれて、時折それを思い出しては気持ちが満たされるのだ。

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この時は家族がまだ家族の体を保っていたころだろうか。それでも家に対する鬱屈を抱え、何かある度に旅行に出かけ、一人の時間を貪るように味わっていた。だけどこの数年後に家の中が無茶苦茶になり、そんな時間もしばらくなくなってしまった。

あの時に行った鬼怒川の風景はそれは寂しくて退屈だったけれど、自分にとっては貴重な時間で、本当に何もすることのなかった不思議な時間だった。

寂れた雰囲気の温泉街なんてそれは廃れていくだろうし、客足が途絶えれば宿も成り立たないだろう。でも宿の良さとか観光地としての満足度とか、そういう基準から外れたところにだって旅の良さはあるだろう。いや、良さですらなく、後に微かな感覚を呼び起こさせるような、ほんの些細なフレーバーのようなものだ。そしてそういったものをわざわざ味わいに行く人は少なく、お金としては微々たるものしか発生させないし、故にこの世の中で見向きもされず、気づかれもしないままあっという間に失われてしまう。

観光気分が失われたとかコストに見合わない旅だとか、そんなに騒ぎ立てることなのだろうか、とも思う。コストに見合わない娯楽なんて世の中にはごまんとあるし、そうした期待外れで動いた金の積み重ねで世の中は動いているのではないだろうか。そして引いたハズレくじにだって記憶は宿るのだ。

旅行や観光がもはやそんな風に費用対効果で測定可能な対象でしかないのなら、そんな言葉を使うのをやめて、ただ移動と宿泊をしましたと言いかえてやろうかと思う。そんな価値観では測れない、ごくごく個人的なこの行動に対して名付けられる名称はまだない。

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