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『東京組曲2020』深堀り企画 vol.8

【八代真央さんインタビュー】
=震災とコロナ禍を体験した今、思うこと。後悔せずにこれからも生きていきたい。=


三島有紀子監督の企画に賛同し、一緒に本作をつくった出演者の皆様たちのインタビューによる『東京組曲2020』深掘り企画。第8回目は、八代真央さんです。

―― 俳優として活動される前は、映像制作会社にいらしたんですね?

大学の頃は出版志望だったんです。大学生の時のインターンやアルバイトも全て雑誌の編集やWeb制作に繋がることをやっていましたし、就職活動も出版に絞っていたんですけれど、最終的にご縁がなく、フリーで編集の仕事を探そうかと思っていた矢先に、たまたま気になった会社が出来たんです。その会社は映像制作などをしていた会社でした。お話しだけでも聞きに行ってみようかなと軽い気持ちで訪ねたところ、そのまま面接という形でお話しさせていただいて、先方が「もし、よろしければ」と仰って下さったので、未知の仕事ではあったんですけど入社しました。

―― 映像の会社から俳優の道へ進まれたのですね。ただ、とても覚悟のいることだと思うのですが、なぜ俳優の道に進まれたのでしょうか?

遡ると、中学生の時に俳優の養成所に入ってたんです。私、福島出身なんですけど、養成所は東京にあったので、2週に一度ぐらい、父の運転する車で養成所のレッスンに通っていました。あの頃、ミーハー心でキラキラした世界に憧れていたんです。
でも、中学2年生の終わりに震災があって、夢が途切れてしまいました。現実的に養成所に通える状況ではなかったし、自分がキラキラした世界へ行けるはずはないと次第に思うようになり、いろんな意味で大人にならざるを得ない時期でもあったので、俳優の道は諦めました。
大学に通うために東京へ出てきてからも俳優に惹かれるものがありましたが、出来るわけがないと思っていましたし、あの世界へは選ばれた人たちだけが進むものと思っていたので、好きだった出版の道に行きたいと思っていました。でも、自分が俳優をやりたかったという経緯とは別軸の就職活動で映像業界へ進むことになったんです。CMやミュージックビデオを撮っていた会社だったのですが、その裏方として撮影に携わったときにスタンドインの機会もあってカメラ前に立つこともありました。感覚で表現したり、カメラマンの指示や企画の意図を理解して体現することがすごく楽しくて、かつて目指していた熱を思い出してしまいました。自分が表現することが好きだってことに気付いてしまったんですね。どうしたらいいのかなと考えた挙句、こういう半端な気持ちを抱えたまま会社にいるのはすごく失礼だと思いました。「どうせ、いつか死ぬのにこうして迷っている時間って何なんだろう」とも思った時点で「辞めよう」と決意していました。社長に俳優部になりたい気持ちを素直に伝えて退職し、それからはワークショップを探しながら進み続け、その延長で今に至ります。

―― 入江悠監督のワークショップへは縁があって行かれたのでしょうか?

いえ、オーディションでした。入江監督の作品が好きで何作も拝見していましたが、ワークショップの機会は全然縁がなかったんです。ある時、募集の広告を見て、熱量をいっぱいに手紙文を書いて送りました。当然、駆け出しの俳優でしたので、メインの役をやろうなどとは全く思ってなかったですし、それよりも入江組の現場を経験したいという気持ちでお送りし、幸いにもお声がけいただいたんです。その時が初めての現場でした。

―― 本作の企画へ参加したきっかけについて教えてください。

入江監督同様に、三島監督の作品もずっと拝見していて、雑誌のインタビューの記事を今でも大切に持ってるぐらい好きな監督でした。その監督からの企画に応募しないわけがありません(笑)。あのステイホーム時期に撮っていた記録映像がどれほどの価値を持つものなのか、何の意味を持つものなのかということは今になってわかるんですけど、当時は三島監督の企画にどうしても出たいという思いだけでした。実際にアルバイト先もお休みになるし、世間がどこへ向かっていくのか誰もわからない状況の中で、私は無謀にも俳優という仕事のために安定した職を捨ててしまった直後でしたので、なんかもう必死というか・・・。業界のこと自体、全然わからず、仕事もないなかで、俳優部として作品に出演しないといけないという思いでいっぱいだったんですね。

―― 三島監督とはどのような対話を重ねて撮影に臨まれたのでしょうか?

いざ参加が決まったものの、何を撮ったらいいのかもわからない状況でした。何か面白い映像を提出しなきゃいけないという思考でいたのですが、三島監督は日常生活の記録を切り取るということを主としてお考えでした。例えば、料理をするとか、何かを悩みながら映画を観ているとか、シンプルにこの現状に困惑してる自分の記録です。
あの撮影していた時間は、実は大切なことをしていたんだなと思います。歴史的にも、皆がそのとき、コロナ禍でそれどころじゃないという記録とか、その中でもカメラを回し、まずそれを撮ろうとしたことは、今になってとても貴重な時間だったんだなって思っています。

―― シネコンの映画館のポスターが一枚も掲示されていない風景などを撮っていらっしゃいましたが、確かに貴重な映像だと思いました。それに、ステイホーム当初の様子から日が経つにつれて表情に変化が出てきましたよね。町を彷徨ったり・・・。

とにかく外に出たいと思ってました。今までの生活ならば全然当たり前だったことなのに、夜一人で家にいるという状態が、何だか一層不安でした。住んでいる場所も一日中、音が絶えないような町なのですが、人の声がほとんどしなくなって、日中もそうですが、夜一人でいることが苦しかった。夜になると、居ても立っても居られない気持ちのままに外に出てしまう・・・そんなことが多かったので、夜に散歩することがあの頃は常でした。誰でもいいから人に会いたいという無意識な気持ちもあったのでしょうね。コンビニの店員さんとしか話さない日もあったので、自分一人じゃないことがわかっていながらも、人がいることを確認したいと思っていたんだと思います。

普段は賑やかなのに、人一人いなかった町の様子

―― 夜の町を彷徨い歩くシーンは、観ている側が心配しちゃうような気持ちになりました。確かに、隣近所の声で安心するということってありますよね。
三島監督からのシチュエーションポイント「明け方(朝4時)に女の泣き声がどこからか聞こえてくる」シチュエーションですね。その泣き声を聞いた時、どのように感じましたか?

初めに泣き声を聞いて撮ってくださいと指示があったときは、冷静に芝居ができるのかということがすごく不安でした。自分がその声を聞いてどうリアクションするのかが全く想像ができなくて、予測も立てられないまま芝居をしなくてはならないし、しかも取り直しをせずに一発撮りでという指示でしたので、どうしよう・・・っていうのが本音でした。
本編には使われてはいないのですが、実際に早朝の薄暗い中でベランダに出て、声を聞いて撮ってときに、自分の中で「大丈夫だよ」って声をかけてしまったんですね。自分も困窮してて、人に会いたいとかいたたまれない気持ちの中で日々を過ごしていたけれど、あの状況で人が泣いているっていうことがわかったときに、何だかすごく気にかけてあげたい、「大丈夫だよ」って言ってあげたいという気持ちになりました。
それに、思わず声が出てしまったときになんだか自分のことを好きになれたんです。こんな状況でも人に対して自分よりも誰かを思ってあげることが出来て良かったなと思いました。

―― 自分のなかに優しさを見つけることが出来たというのはいいですね。。

今振り返ってみると、誰かに言っているようで、自分に言っていたのではないかと思います。ずっと一人だったので、誰かの泣き声で人がいるという安心感もありつつ、自分に向けて「大丈夫だよ」と。

―― コロナが落ち着いてきた今、コロナ禍前と違って変わったなと思うことはありますか?

実家に帰りたいなと思うようになりました。去年の5月に一度、帰った時に、それまで決して家族のことを忘れていたり、地元のことを忘れていたわけじゃないのですが、なんだかすごく感動しました。今までは、自分の都合さえあればいつでも帰れると思っていましたしね。仕事が落ち着いたので帰ったんですけど、ワクワクして早く帰りたいという気持ちでした。
コロナ禍の苦しみは長い期間でもあり、あっという間にも思える年月でしたけど、みんなこうして生きている。監督が仰るように、会いたい人と会うことに対して億劫にならずに、また後悔せずにこれからも生きていこう。そう自分自身の心にとどめておきたいと思っています。

―― 3.11の震災の時の体験も、このコロナ禍での気づきに繋がっているのではないでしょうか?

震災にあった中学生の時、道路にひびが入っていたり、電気や水道も止まって日々の生活は大変でしたが、それ以上に原発による風評被害が自分の中では大きくて、大学に通うために東京へ来た時もなるべく福島出身だと言いたくはありませんでした。
コロナで毎日マスクをしている生活は、皆さん初めての方も多いと思うのですが、震災直後、私の周囲は皆、放射線を防ぐためマスク生活でした。でも実は・・・そのことを忘れていたんです(苦笑)。今回の宣伝でいろいろとお話ししているうちに記憶が蘇ってきました。人って、忘れる生き物なんだ・・・と改めて感じてしまいました。震災のこと、また今回体験したこととどう向き合っていくのか、これからも考えていきたいと思います。

―― 今後、チャレンジしてみたいことについて、お伺いできますか?

コロナ期間を経て思ったことは、エンタメが少なかったということなんです。私自身、震災の後に助けられたのはテレビドラマでした。その当時は、不謹慎だとういう声もありましたが、でも私は物語の世界に救われたのをよく覚えています。それにコロナ禍もずっと映画を観ていました。
今まで、俳優になりたい気持ちの根幹にあるのは、「芝居が好き」ということだと思っていましたが、世間の情勢とか、地方の町の様子を目にしたときに、人を支えたい、人の生活の楽しみの一つに自分が関わりたいという思いがあることに気付きました。機会をたくさん見つけて、地方にも届くような作品に出演することが夢です。

―― 映画を観てくださる方々に向けて、メッセージをお願いします。

この映画をご覧になりながら、皆さんきっと自分自身のことを振り返ることでしょう。そして、苦しかった気持ちすらすごく大切だったと感じて頂けるのではないでしょうか。
もちろん、まだそう思えない方もいらっしゃると思いますが、映画を観てくださった時間も、皆さんの記録になるはずです。またこれから生活をしていく中で、きっと忘れてしまうこと、逆に心に残していくことについて出会えるかもしれません。自分と向き合うという意味でも、ぜひ観ていただきたい作品だと思います。

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