モンゴル旅行記その6
長田くんのアクアに乗り込んで、つい疲れから眠り込んでしまいました。娘も同じで2人でうとうとしていたら、長田くんの声でハッとしました。多分モンゴル語で「着いたよ」みたいに言ったのだと思います。
外を見てギョッとしました。
なーにんもない大平原にいきなり巨大な像が!
え?
なになに?
どうしたの、こんなところに?
という感じ。
とにかくデカいです。
ネットでは30メートルとも40メートルとも紹介されています。
初めはただただ呆然としていましたがよーーく見ると馬のたてがみ部分に人影が!
あ、そうか。
アメリカの自由の女神像を見に行った時のことを思い出した。あれも中に階段があって頭の部分に出ることができた。おそらく同じ構造なのだろう。
と思って中に入ると
大きな吹き抜けのホールにはブーツやガーゴイルの像、そしてチンギス・ハーンの家系図。
系図の中にはあれ、日本人にもこういう顔の人いるよね?という顔も。
このホールの両側に螺旋階段があり、登るとエレベーター発見!
良かった!
楽して登れるんだ!
と喜んだのも束の間。ボタンを押してもどこも光らないし反応がない。どうやら階段を歩いて登るしかないようです。とほほ…😢
まあまあ疲れていたので落胆はしたけど、ここまで来たら登るしかない!と腹を決めて階段登りました。
はあはあ、だいぶ登ったぞと思って窓の外を見ると、
まだ馬の足!
がんばれがんばれと登り続けてついに外に出ました!
出て見上げたらこんな感じで
どうやら我々はチンギス・ハーンの股間から外に出たらしいです😆
馬のたてがみのところに階段があって頭の部分が頂上のようでした。
で、景色は。
360度大平原です(知ってた😅)
駐車場の車が豆粒のようです。パリの凱旋門のようなカッコいい門も見えました。
さてここでチンギス・ハーンの生涯を少し。Wikipediaによれば(すみません、千円寄付したので参考にさせてもらいます)1162年に生まれ。初めはテムジンと名付けられたそうです。この当時は遊牧民族のグループがお互い対立して襲ったり襲われたりしていて、テムジンのお父さんも酒に毒を入れられて命を落としてしまいます。
成長すると寛大な性格で人望を集めた、とありますがきっとカリスマ性のある人物だったのでしょう。次々に周辺部族を撃ち破りモンゴル帝国の初代皇帝に即位しますが、この時シャーマンが「チンギス・ハーン」という名前に変えた方がいいとすすめたそうです。
チンギス・ハーンは破竹の勢いで周辺国を次々に破り、当時の中国にあった西夏という国は30万人もの兵を集めて防衛しましたが、チンギス・ハーンの猛攻の前に敗れてしまいます。1227年65歳の生涯を閉じましたが、モンゴル帝国は東ヨーロッパ、イラン、中央アジアなどとんでもなく広い領土を持つ国でした。世界の半分を手に入れた、とも言われています。1227年に65歳で亡くなりますが、その後も帝国が完全に解体されるまで数百年かかったそうです。鎌倉時代の元寇の時は孫に当たるフビライ・ハーンが皇帝でした。
とにかく戦が好きだったんだろうなあと思います。またその方面の才能もあったんでしょう。中国を攻めた時も最初は城の攻略がうまくいかなかったようですが、失敗から学び2度目にはもう攻め落としています。ただあまりにも多くの領土を手に入れたために自分1人では統治できず、部下や子どもたちに統治をさせましたが、それもなかなか難しかったんじゃないかな、と思います。いくら血を分けた子どもといえども国を治めるというのは大変な仕事ですから。ましてや侵略によって手に入れた国では元の国民の反発や恨みもあったでしょうしね。
それでもやはりモンゴル帝国の建国と領土の拡大を成し遂げたことは偉業だと思います。モンゴル統一までは日本の戦国時代も似ていますが、その後がすごいです。全然スケール違います💦 モンゴルでは今も「英雄」「神」と崇められているそうです。
さて景色を堪能して階段を降りていくと入り口近くの巨大なブーツの端に何かが見えました。
よく見るとお札の山です。びっくりしました。日本だとこういう時、小銭を入れたりしますがモンゴルはお札なんですねえ。
この像のまわりは「13世紀村」と呼ばれ、チンギス・ハーンが活躍した頃の文化などが学べるそうです。乗馬やラクダにも乗れるようでした。
いやしかし、こんなにすごいものを作れるというのはモンゴルという国は豊かなんだなあと思いました。
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