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まだまだプロフィール?

<注> このページは私の回顧録ですが、前記の内容とは全く違った側面についての独りよがりな記述です。

長い人生を紡いでくると人には言えないような恥部の一つや二つはあるだろう。一度ついた沁みは消えることはない。私の場合は恥部だらけ。死ぬまで口に出すこともない秘話や今では笑って涙するドタバタ劇、喜劇も悲劇もいろいろ。シミもここまでつけば水玉模様のように可愛くなるか、、、否。

私は可愛いという表現の対極にあるような人間だ。ゲイの大親友がいるのだが、巷では夫婦だと思われていた。自称詩人にある時、『岡山で一番女に近い男と一番男に近い女の珍カップル』と笑われたことがあるほど男よりな人間だ。することも考えることも男より。が、感性のどこかに繊細なものと爽やか寄りの陰湿なものが共存していて、ゲイ友達が多い。⇦ここ笑ってくださいね。

今でも何を血迷ったのだろうと自分で理解できないことがある。それはクラブ遊びとサルサ。もともと運動音痴なのに学生の頃から15年くらい踊り続けて私の体は燃え尽きた。中年期を迎えてからはアシュタンガヨガに身を任せて日々の自分に向き合うのがいい。

だが、学生の頃は夜な夜なカッコいい黒人達がやってくるクラブで踊りまくっていた。知り合いにシカゴ出身の寡黙なイケメン黒人がいた。彼はクラブの一角に静かに立ってあまり踊ることはなかった。薄暗いクラブの中で黒人は神秘的に美しく見える。彼の仲間はスマイリーと呼んでいた。恋人が何人いるのか分からない怪しい人だった。あまり話をしたこともなく遠目に見るだけだったが、彼が踊っているのは本当にカッコよかった。そんな彼が私に話しかけてきたことがあった。

"Yo, girl, お前みたいな子はシカゴだと2、3日で死んでしまうよ、go home, girl, please go home." と真顔で忠告されたことがある。私、大丈夫だよ、って答えるとcoolな苦笑いをしていた。深夜過ぎまで踊り、夜明け前に帰るという週末。R&BとかSoulとか、よく分からないが、体が自然に動き出した。そして、最高に気持ちよかった。

音楽に入れ込むほどではなかったし、好きなアーティストも別に、、って感じだったが、prince やmaddona, michael jackson, whitney houston, 数えきれないアーティストがアルバムを競って世に出し、そのショート映画のような美しいPVも私たちを魅了した。その当時のbabyfaceは全盛期だった。彼の作る楽曲は全部ヒットを飛ばした。ちょっとシャイな表情がなんとも言えない、で好きだった。karyn white, boysⅡmen... 私の脳内再生でも一位に輝くのはこの曲。今でもたまに聴きたくなる。

MTVから流れていた当時の音楽は今でも懐かしい。そして、その頃から私のラテンの血がフツフツと音を立てていた。勉強も生活もボロボロな自分に嫌気がさしていた。人と会うのも辛かった頃、店でも道を歩いていても流れるグロリア エステファンの音楽は私を違う次元へと誘っていった。彼女のハスキーボイスが好きだったし、ポップではあるが他と違う何かを持っていた。

そして、突如フル・ラテンで完成されたアルバムに息を飲んだ、とにかく新鮮で、ああ、自分はラテン音楽や文化が好きなのだと目から鱗が落ちたような衝撃だった。

やさぐれた心に染み入るバラード。歌詞は全く分からなかったが、悲哀と懐かしさがこみ上げてくるような彼女の音楽に魅了された。当時の記録では1993年から1994年にかけてこのアルバムは60週間以上もビルボードチャートのラテン部門の頂点にいたらしい。あとで知ったのだが、彼女はキューバ革命で家族とアメリカへ亡命しマイアミで育った。そして、自らのルーツに立ち返るといういう長年の夢を実現させた。このアルバムが望郷のアルバムだから、当時ホームシックでおかしくなりそうな私の心に心地よかったのかもしれない。この頃、私は日本へ帰国することを決心した。

帰国して数年間、私は真面目に仕事をこなし、実家で大人しく暮らした。そして、サルサ。今から考えても何がきっかけになってあんなにハマってしまったのか覚えていない。が、この映画で私の心に火がついた。サルサってなんて楽しそうなんだろう、、と多くの人がサルサを始めた。日本でもサルサブームが起きたのだ。そして、このリズムを体で刻めるラティーノと踊ってしまうと、もう中毒症にかかってしまう。厚い胸板でリズムをとる彼らにリードされたら、半分男な私だって依存症になってしまうのだ!モントゥーノというリズム、これを作ったキューバ人は凄い!

この頃、付き合っていた人がラテン系のアメリカ人で、彼の作る料理や彼の聴くラテン音楽など、私の世界が広がって行くのを感じた。そして、このjLoのライブのエンディングのシーン。その頃、ガルシア・マルケスに心酔していた私はラテンの音楽や白の衣装、彼女たちのダンスに心が躍った。毎晩のように一人でサルサを聴きながら踊っていた。サルサを踊れる場があまりなく、一人サルサである。そして、年に二度、海外旅行でサルサクラブを満喫した。映画のような楽しさだった。学生時代に危ないクラブを渡り歩いていた経験が活かされ、ラテンのクラブも躊躇なく一人で行けた!昔取った杵柄とはこのことではないか!

ジェニファーはプエルトリコ人だ。彼女は初めてのライブコンサートをプエルトリコで行った。この映像はその時のものである。キューバ革命が起こり、多くのキューバ人が帰国したニューヨークで、プエルトリコ人たちがクラブで演奏し、そこから生まれたのがニューヨークサルサの元祖らしい。プエルトリコ人は容姿もカッコいい人が多くニューヨークサルサは洗練されている。サルサは知れば知るほど奥が深い。これについては別の場で記した方が良さそうだ。私はニューヨークサルサも大好きだが、キューバのルンバやソンに傾倒していった。数年前からキューバが開かれた国となり、知人が何人も訪れている。私もいつか、、、きっと。生演奏で。

スペインで活躍するBuikaとキューバ人ピアニストのChucho Valdes

踊るのを辞めてからもずっと彼のピアノは聴き続けている。


最後まで読んで頂いてありがとうございます。なんだか動画の多いものになってしまいました。あの時代の音楽や映画を、youtubeで共有できたのは凄く嬉しいです。私の思い出の1ページたち。懐かしいものばかりです。




もし無人島で一人で暮らすとしたら、この本があれば正気を保てる。

新潮社の装丁が素晴らしい。一生繰り返して読むことができる彼の小説は美しいものを。1982年ノーベル文学賞受賞

結局、サルサに狂った私の30代を語らずに話題は軌道を逸してしまった。


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