見出し画像

テクニックではなく気持ちのあり方から考える「傾聴」と「承認」

マネジメントに関する情報を集めていると「傾聴」や「承認」といった言葉がよく出てくる。それらのテクニックを駆使することでチームメンバーとの関係性を深められると聞き、僕も実践を試みたことがある。
結局奢りのようなぎこちなさを感じてしまって、ほどなくして実践をやめた。

当時はテクニックとしてしか認識できていなかったそれらだが、しかし今の自分をふりかえってみると人間関係を築くときの根底には似たものがあると感じる。

というのも理屈は簡単で、傾聴や承認は敬意の体現手段のひとつなのだから、尊敬を基にした関係性を築こうとすれば自然と行動に現れるわけだ。

言い換えると、傾聴や承認について考えるときは「行為」ではなく「関係」に注目するといいということだ。

その実体験として、僕が抱く「尊敬」という気持ちがどんなものかを再定義することで人付き合いにおいて大事にしていたものとの接点が見えてきたときのことを掘り返してみようと思う。

* * *

かつて僕は、「尊敬」は自分とはかけ離れた高尚で理想的な人物を指す言葉だと思っていた。「尊敬する人は?」という質問があるように、唯一無二の特別な存在を連想させる言葉だった。

一方で、親しい人との「関係」については、互いを完全に理解したり相容れたりすることはできないものの、理解しようと努力することによって距離を縮めていきたいと考えていた。相手の見聞きしたものを同じように見聞きしようとし、相手が抱く思いを同じように感じ取ろうとしていた。ありのままの相手と共に生きていきたいと思っていた。

ある心理学者はこれを共同体感覚と呼び、主観的な存在である我々人間が「もしわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と他者の関心事に関心を寄せる行為こそが「尊敬」の具体的な第一歩だと表現していた。

と、いうことはだ。「尊敬」という言葉に対する特別感や先入観を度外視すれば、私は一部の親しい人に対して尊敬のある関係性を築こうとしていたということになる。
この前提に立つならば、僕はチームメンバーにだって同じように敬意を持って接していきたいと自信を持って言える。彼らが感じたことを同じように感じたいし、ありのままの彼らと共にプロダクトをつくっていきたい。

それはつまり、相手の見聞きし感じたことを傾聴し、相手の存在をありのまま承認していると言えるのではないか。

* * *

ここまで考えてようやく僕の中で「傾聴」や「承認」という行為が、自分の求める関係性の体現手段であると腹落ちした。
今にして思えばなんだそんなことかと思う。そんな当たり前のことをすら、これほど頭でっかちに考えないと自然と行動に移せないのかと思う。でも仕方ない、こうして行動と思考の不一致を少しずつ理屈で紡いでいかないと僕は僕をうまくコントロールできない。それが分かっているから、今はこれでいいのだ。

* * *

最後に、今回も考えるきっかけを得た本を紹介する。

実は20代前半の頃に一度読んでいて、そのときは「こんな当たり前のことつらつらと…つまらん」とがっかりした。
最近改めて読んでみて「当たり前」と感じる部分は変わらなかったが、その当たり前をこれほど腑に落ちる言葉で言語化していることに凄さを感じ、その言葉の端々から考えるヒントを得た。今になっては掛け替えのない一冊だ。

ついでに僕が感じた物語としての妙味についても触れておく。
登場人物の1人でアドラー心理学を説明する役の「哲人」は、アドラー心理学を疑ってかかる「青年」のことを友人と呼び敬意を示していて、青年の論理矛盾を指摘して論破したりせず、アドラーの論理を多角的に伝えようとしている。あくまで共に考えるために議論をしてるのであって青年を打ち負かすためではない、真に敬意を持っていて友人だと考えている、ということを行動で示していることに気付くと面白さが増す。

興味が合えば手にとってみてほしい。

ここまで読んでくれてどうもありがとう。 記事を読んでくれて、応援してくれるあなたのおかげで、これからも書き続けることができます😌