0でも100でもない、その間から人間味を理解した日

愚かなことに、僕は人間の行動原理を0か100かの両極端に考えがちだ。
最近それに気付かされる出来事があった。

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頼れる友人に僕の大嫌いな(大好きな)目標設定について話していたときのこと。僕はそれまで『人は自分で目標を立てるとがんばりやすい。だから仕事する際にも各々が個人目標を立てるべきだ』という考え方をまったく理解できずにいた。
やる気がみなぎっているときは目標などなくとも頑張れると思っていたし、はたまた溢れる情熱を「何がなんでも〇〇を実現したい」と言語化したときそれが自然と目標と呼ばれるものになるのだと思っていた。逆にやる気がないのであれば無理して目標を立てたところで達成しないのだから、「目標を立てろ」と指示を受けて立てる目標は無意味だと思い込んでいた。まさしく両極端しか見ていなかった。
しかし人の人生のうちには目標があると「まぁそこまではやるか」と思う場面もあるようだし、目標を他者に宣言することで「約束してしまったしやるか」と奮起できる場面もあるようだ。人の機微は複雑だ。

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その話の延長で、僕はパーソナルコーチングの存在価値を理解できずにいた。スポーツコーチのように特定の分野に熟練しているコーチに助言をもらうことや、信頼関係のある相手に壁打ちしてもらうことはとても有益だと思う。だがそうではないパーソナルコーチに「どうなりたいか?」「そのために何をしたいか?」など聞かれることは2000%無価値だと思っていた。
上述の繰り返しだが、本気でなりたい理想像があるなら聞かれるまでもなくその姿を鮮明に思い描き、達成までの道のりを明らかにし、毎日の行動に落とし込み、寝る前には1日の行動をふりかえり明日のプランを立てるはずだ。それをしないならたいして達成したいわけでもないちょっとした憧れなのだろう。と本気で思っていた。

だが実は人間の中にはコーチという肩書のある人から問いを投げかけられることで初めて自らの理想姿について真剣に考えられる人もいるし、約束の有無に関わらず誰かに成果を報告する必要があるとサボらず行動できる人もいるようだ。お金を払ってしまったからがんばれるという人だっている。人の機微は神妙だ。

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愚かなことに、そして恐ろしいことに、これほど人間味への理解が浅い自分がエンジニアリングマネジメントを生業にしているのだから、関わる人への配慮を忘れ不幸にしないようにより一層気をつけようと決心した。

さて、最後にこんな誰の得にもならないことを書いた理由を添えておく。
最近チームメンバーから5年日記なるものを教えてもらった。5年分の自分の行動や考えを遡れて良いそうだ。たしかに僕もふと過去に書いたブログを読み返して「当時はこんなことを悩んでいたのか」と驚いて楽しめることがある。なので、今日また1歩人間味を理解できたことを書き残しておくことで、未来の自分が笑ってくれるかもしれない。そう考えたら自分の愚かさとも少しだけ気楽に向き合える。

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