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第十九回「いろいろなことがあったのさ」

このコラムも十九回目を迎える。
売れないバンドマンがただただ隔週でこのnoteに駄文を書き続けて10ヶ月になろうとしている。

今、俺は壁が薄い埼玉の部屋を抜け出し、神奈川の作業部屋にて
このコラムを書いている。

要するに引越しをしたのだ。

2年間住み続けたあの部屋からの”脱出”もしくは”解放”と
この鉄筋コンクリートガッシガシのこの作業部屋は雲泥の差で
全く物音が聞こえない。

仕事部屋がある暮らしは憧れだったが自分は6畳一間のおじさんで
そんなおじさんが一気に仕事部屋を得たのには理由が勿論ある。

俺が埼玉に住み始めた頃に始めたバンド
アルマが死んだ

秋葉原のルノアールから発足されたこのプロジェクトは
今、大きな変化と進化を遂げようとしている。

以前、とあるプロジェクトでご一緒させていただいた
YUJIさんが運営されている事務所RISEに所属させていただいたのだ。

俺は今、音楽でご飯を食べようとしている。

夢って叶うのだ。
YUJIさんは俺たちに「人生をかけて売る」と仰ってくれた。

そんな有難い言葉を自分の人生の中で聴けるなんて俺は思っていなかったのだ。
手を差し伸べてくれる人はいる。
そう本気で実感できた。

それは勿論YUJIさんだけではない。
一緒にここまで戦ってくれた大塚伸寛、綿衣、そして今は別の道に行ったけれど夢をその道で掴んだ元オバケレコードの動画クリエーター六日。
音源をリリースする度に一緒になって悩み考えてくれた和明。
今までアルマが死んだで演奏してくれた仲間。

そして、アルマが死んだを応援してくださっているすべての”あなた”

数え切れないほどの手が俺の前に「ほらいくぞー」と差し伸べられていて
俺はやっとその手を握り返したのだ。

今まで愚かな行動ばかりを行なってきた馬鹿な俺は
自分の馬鹿さ加減にやっと気づき今に至るのだ。

「いつまでバンドやってるの?」の答えに悩んだ時期もあった。
世間体や自分の未来が全く見えないこともいくらでもあった。

けれど、今。その問いに対して俺は
「いつまでもやってるよバンド」と返せる”自信”に繋がったのだ。

何かを始めることはとても怖い。
馬鹿にされるかもしれない。嫌われるかもしれない。
笑いのネタにされるかもしれない。叱られるかもしれない。

けれど、32歳の北海道から状況した馬鹿で無謀な男は今。
20年全くの成果がない中、後ろ指刺されながら、
馬鹿にされながら、もがきながら、死のうしながら、それでも生きようと泣きながら、笑いながら怒りながら、叫びながら。

そんな中でもやってきたことが”成長”できることとイコールにできたことを
誇りに思う。

それでも俺はまだ所属させていただいただけで、実績はまるでないので
この文章を自分の”新たな十字架、もしくは人生の指標”として
ここに記すことにしようと思うのだ。

俺はまだ歌える。
俺はまだ音楽ができる。

腐っても俺はバンドマンとしてライブハウスでもがいていきたい。
そして、そんな男のまま大袈裟ながらこの人生を全うし、終わりにしたいと思ったのだ。

だから、俺にはまだ生きてやらなければいけないことが
”死ぬほど”ある。

嗚呼。今、何かが変わった。
(俺やあなたの)エンドロールはまだ先だ。
死んでたまるか。

改めまして。
音楽芸能プロダクションRISE所属
アルマが死んだ の KOHEI SATOです。

これからも”変わらず変わっていきたい”と思いますので
よろしくお願いします。

今日もありがとうございました。

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