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心配していないふり

息子が一歳数ヶ月を過ぎるようになってから、心配事が増えました。外出をしてもあぶないことばかりに見えて、景色も買い物もたのしめない。あっちもそっちも行っちゃだめ、あ、それ触らないで!のような声がけばかりしていることに気がつきました。

そんなとき読んだ、江國香織さんのエッセイ集にこんなことが書かれていて、ウーン、と唸った私。それはこんな文章でした。

「叱ったらいかんよ」
そのとき、舵をとっていた船の持ち主である作家が、ふいに言った。前を向いたまま、私の方は見ずに、ぶっきらぼうな小声で。「心配するのが嫌だからって、叱ったらいかんよ。見てたらいいんだから。ちゃんと見ていて、落ちたら助ければいいんだから」

江國香織『物語のなかとそと』朝日文庫(2021年),p170

これを読んで、口出しするのも仕方ないでしょ、と反発すると同時に、でもこの人のいうことはものすごく正しいんだよなぁ、と反省して、ウーン、これからどうしよう。と内心唸ったわけです。

これは、江國香織さんが、知り合いの作家さんの船で行われたパーティーに参加したときのことで、参加者の子どもたちが船の上を縦横無尽に走り回っていていまにも海に落ちてしまうんじゃないかと心配する江國香織さんに、主催の作家さんがかけた言葉です。

べつに、江國さんが「なにか言ってやった方がいいでしょうか?」などと話しかけたわけでもないのに、その作家さんは、ただ江國さんの様子に気づいてこう言ったんです。ということは、当の作家さんも、実は横目で見ながら心配していたんでしょうね。

心配するって、エネルギーを使います。小さい子どもと一歩外に出たら、いまにもなにか起こるんじゃないかとハラハラして、親の心はいっときも休まらない。だからいちいち口を出したくなるけれど、本当に子どもがあぶない目に遭うかといったら必ずしもそうではなく、当の本人は、急なすべり台も笑いながら上手に降りていったり、高いところのしかも端っこに立って踊りはじめたかと思ったら、あぶないの手前でちゃんと座ったりもします。

もちろん、本当に失敗して怪我をすることもありますが、また同じ失敗をすることはあまりありません。転んで確かめて、落ちて確かめて、触ってみて確かめる。痛いのかたのしいのか、おいしいのか苦いのか。子どもの成長はそうやって日々なされていくんだと思います。つまり、行動のすべてがその子の人生になっていく。

そう考えたら、大事に至らないように、ぎりぎりのところで手を貸す準備だけしておこうと思うようになりました。目はしっかり子どもに向けておいて、助けを求められたら行ってあげる。心配だよ、という様子を見せて子どもを不安にさせないように、子どもの経験のひとつひとつをただ見守ってあげる。

とはいっても、いつも心配して口を出していた癖はなかなか抜けないので、私は最近お散歩のときに毎回、よし、心配しないぞ、と自分のなかで小さく決意しています。

よし、心配していないふりをするぞ。

あぶないよ、と言う代わりに、こうしたら?と声をかけたり、こっちはどう?とやさしく導いたりして、心穏やかに育児をする。そんな美しい日がくるのを信じて、今日もあぶないことをぞんぶんにしてもらおう。でも、まずあぶなくない場所を選ぼう。ここが船の上じゃなくてよかった。


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