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テーマパークについて...

僕はいわゆるテーマパークが苦手なタイプの人間だ。

きっと、大好きな人からすると"ありえない!!"と糾弾される話だろう。
そもそも得意とか苦手とかってあるんだろうか?と鼻で笑われる案件かコレ?!笑

成人して今になってそう思ったからではない、幼少期の頃からこの不思議な感覚があった。

幸運なことに幼少期の頃には北海道在住ながらに両親のおかげで、東京ディズニーランドやシー、USJや愛地球博に長崎ハウステンボスなどに連れて行ってもらっていた。(今思い返すと...凄く恵まれていたと強く思う。)

ただ、その頃からそれらの場所を楽しめていたか?と思うと、答えはNoであった。

コロナ禍ということで様々な遊園施設が営業を自粛、休業していたが、徐々に緩和の兆しが見られ始め笑顔に溢れた人々が足取り軽快に楽しむ姿がテレビや他の媒体越しに伝わってくる。

僕自身凄く前向きでいいことだと心底思っている。

暗い日常に光を差す、人々の心に灯をともす喜びを提供できる場が戻ってきた、人々の生産活動はすべて是として肯定されるべきだと思うし、何よりも生きる上での根源だから。

話が少しズレたね。(さて、本題へ戻ろうか)

その一般的な幸せな場所とされているテーマパークを楽しめてこられなかった自分の感情や原因をふとその光景から分析できた気がした。長年詰まっていた喉の棘が取れた気分だ。

はじめに断っておくが、disではないです。

以下のテーマで自分の感情を整理していこうと思う。まとめサイトにあるような当たり障りのないありふれた箇条書きで待ち時間やアトラクションやキャラクターについて書くつもりはない。

原体験をもとに...

1.テーマパークはリアクション

2.完成され尽くされた場所

3.疎外感


この3つが僕の中のモヤモヤの原因だと思う。

「1.テーマパークはリアクション」について...

僕は旅が好きだ。それもノープランの。ノープランというと、"行き当たりばったりの不毛な時間"と思われる。

きっとそれは半分合っていて、半分間違えている。

人は日々選択に迫られている。朝、起きるか起きないか、パンかご飯か、に始まり、また寝るまでに膨大な量の決断を下している。ノープランの旅もそうだ。行き先、徒歩か電車か自転車か車か飛行機か船か、ご飯は何にするのか、宿はどうするのか、どこにどれだけ留まるのか、もしくは離れるのか。

そんな決断を常にしている。これらの点を不毛と言われるとそれまでなんだけど...

逆に、テーマを決めスケジューリングすると、合理化に辿りつく。宿やチケット、名所やご飯や移動が無駄のない行動で、最大限のいいところ取りをできるようにプランを組む。

賢いね!そう人は賢い。過ぎるほどにね。

でも、僕の人生を振りかえると、印象に残る景色や人は、不意に現れて心を奪われたものだ。

僕のノープランの旅はいわば各駅停車の旅だ。車窓から気になった場所があれば途中下車して降りて歩いて探索することができる、飽きるまで留まることができる、そして旅を振り返ると真っ先に思い出される光景はそんなところだったりする...

なぜか?-きっと自分の意思で降りて、行動を起こしたからだと思う。でもそんな大層なことじゃないんだ。"ノープラン=アクション" 素敵な人や景色は不意に現れる。

反対に、合理的な旅は快速急行みたいのように速く、遠くへ無駄なく。途中気になった景色も指をくわえて眺めるしかない時が来る。降りられていれば出会えた景色や人と引き換えに元来の目的をそつなく遂行できる。自分の決めたプランに従う。プラン=リアクション

積極的な脱線は人生の長い旅路においては枝先を伸ばす取り留めもない地味なこと。時間はかかるし、無駄なことも多い。それでも記憶に鮮烈に残るのはそんな愛すべき無駄なことばかり。

リアクションになった瞬間に、これから起こりうるべき面白いことは、自分の想像の域を超えない。

だから、"つまらない"って感情になるんだ。

長くなった...僕にとってテーマパークはそんな合理化された完璧なプラン決めがなされた旅のようで、想像の域を超えないもの。


「2.完成され尽くされた場所」について...

なんだろう。最近てさ、どこの街や都市に降りても、似たようなチェーン店やコンビニばかりだよね?これもきっと合理化の弊害かな。

話は少し変わって...モノマネって雑であればあるほど、似たところを似ていないところから探す作業になるんだよね。

(神無月さんやコッロケさんや古賀シュウさんのような誇張のようなアソビの中に共通項を見出す作業のような、※個人的に古賀シュウさんの中村紀洋さんのモノマネがものすごく好きでたまらない)

それに対して、YouTubeなりTVでそっくりさんや歌モノマネで完璧に近くなるほど、あれ...?って似ていないところを似ているところからから探す作業になるんだよね。

不思議だよ!そう。人って賢いんだよ。

僕にとって、テーマパークはアソビがない。いわば完成された場所なんだ。アラを探すわけではないけれど、ツッコミどころがない(良くも悪くも...)先の最近の合理化された街のようにね。

それが気持ち悪いまではいかないんだけど、面白く感じられない原因。

北海道の田舎で小さい頃に物が少ない中で工夫して遊びを作ったりして、遊ぶことの本質を間接的に知っていたからなのかもしれない。

自分の思い通りにならない団体スポーツのサッカーや、ウィンタースポーツやキャンプ。この思い通りにならない不確定要素がアソビなのかもしれない。自分のアクションにおいての相手のリアクションは想像の遥か上をいったり、相手のアクションにおいて、自分がリアクションする、インタラクティブが遊びの本質なんだ。

これが一方で通行になっているもの、僕にとってはそれがテーマパークだった。全てがリアクションゲームで自分の想像を超える事象が発生しないから、つまらないんだ。

人は賢い!(再三再四言うね。)だから、アソビ=不確定要素 を排除してしまう。僕はそんな社会や町に生きづらさを最近覚える。もちろん、その合理化の恩恵を僕も最大限享受して今まで生きてきたのは重々承知して、些かこのような生意気な文章を綴っている。

いまを生きる Dead Poets Society (1989) において、ロビンウィリアムズのセリフより...

"We don't read and write poetry because it's cute. We read and write poetry because we are members of the human race. And the human race is filled with passion. And medicine, law, business, engineering, these are noble pursuits and necessary to sustain life. But poetry, beauty, romance, love, these are what we stay alive for."

「3.疎外感」について...

演出された楽しい空間に、大勢の楽しんでいる人々...僕は上記より長々と自分の感情を理論立ててしまう偏屈野郎だ、自分の想像の域を超えない楽しみに自分の感情を合理化させて同化させることは、目の前の楽しみを受け入れるよりも、この先この人格を持つ自分の生き方を自らが否定するようで、何か大切なものが壊れて失われる感覚が共存してひしめきあっている。

そこで気づくのは、無理に自分を繕って周りに合わせることで、現状を楽しめていない自分を自分で否定することになる。


結論...

ここではっきりと伝えたいことは、僕は何もテーマパークを楽しんでいる人を揶揄したり卑下したりしたいわけではないし、ましてや自分の側の人間を高尚だと1mmも思っていない。

ただ、僕と同じ悩みに近い自己嫌悪や同調主義に自分を合わせて磨り減っているかもしれない人へ、こんなひねくれた奴が自分の感情を言語化しようと努めたドキュメントだと思ってこの文章を読んで咀嚼して欲しい。楽しんでいる人は世の中僕のような偏屈クソ野郎もいるんだなと笑って欲しい。もし、同じ悩みを抱えている人は少しでも喉の棘がこの稚拙な文章によって楽になるといいなと思っている。

改めて、目の前のことを楽しめる人はそれは素晴らしい。

きっと僕のようにテーマパークを楽しめない人は、他に楽しめる"何か"=人生のアソビ をすでに見つけているんだと思う。

そこは胸を張って欲しい。

またそれと同時に、現状を"つまらない"と一刀両断せずに、現状を楽しめる仲間を作って欲しい。自分の想像の域を超えないかもしれないが、その仲間を通じてインタラクティブに新たな楽しみを見出してワクワクできる何かに出会えるかもしれない。

人生長い。生き急いで快速急行に乗り続けることばかりが旅じゃない。時には立ち止まって、各駅に降りてみるのも悪くない。


昨今の話題の世界の差別は、このわかりあえないであろう二者間の壁を無理やり合理化した社会に当てはめるから生じているのかもしれない。

僕としては、差別はなくならないと思っている。概念が存在し続けるからね。だから、排除できないものとした前提で、相手の違いを尊重できるように努めるべきである意味混ぜない壁をしっかり作ってあげる、住み分けも大切なんだと思う。

宗教や文化や人種が異なると生存に直結するシビアな問題だ。よそ者が世界平和を訴えることほど、稚拙なことはないと思っている。だから理解するために勉強して、背景を知って踏み込まない距離感も大切だ。

色々なものを合理化しようと努めるほどに、何か目に見えない何かを壊すことになる。

"アソビ" や "インタラクティブ" は日本語の"粋" だと見えてきた。


大それたテーマに帰着させてしまった気がしなくもないけれど、無駄なものが許される社会は言い換えれば文化の厚みとも言える。


そんなことが許される社会が保たれるといい。

各停、快速急行の話で例えたのは、小田急ユーザーだったからだ。
下北から快速急行の絶望は忘れられないんだ。笑笑

もう少し見出しや目次や太字など工夫した書き方を学んでいきたいと思ってます。
懐かしい感じがして楽しかった。

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