見出し画像

【Album Review】 Kid Milli & dress, 《Cliché》 (2021)

画像1

Artist : Kid Milli & dress
Album : Cliché
Released : 2021.04.27
Label : HIGHLINE, Indigo Music
Genre : Hip-Hop, Rock Rap


-1/起,-

韓国の伝説的なインディーロックバンド、「언니네 이발관(Sister's Barbershop)」は、彼らを代表する名盤の《가장 보통의 존재(Most Ordinary Existence)》(2008)の発売直前に、インターネットの掲示板で「1番トラックから10番トラックまで順次に流れる本のように作られたので、必ずその通りに聴いてください」と要請する。そのアルバムは、デジタル音源が盛んになってシングルが市場を支配していく中で「アルバムの価値」を守る名作として高く評価される。

そして、十の桁数字が二つも上がった2021年の四月、あるヒップホップアルバムは、そのライナーノートにて、音源で発表した曲順とは違う順番を提示する。「08 06 07 03 02 10 01 09 04 11 12 05 13 14 Narrative.」と。前例がないわけではないけど(Kendrick Lamarの《DAMN. (Collector's Edition)》とか…)、不思議な現象ではある。

まあ、思い返してみれば、大衆音楽批評家やマニア層たちが何度も「アルバム単位の価値が死んでいく!」と嘆くのを見てきた。そして正直、僕もこの「アルバム」という単位を信仰するオタクの一人だ。でも、よく考えてみると、「いや、そこまで死守すべきなのか?」と疑問に思えて来つつもあるのだ。まず僕は現代の「アルバム」単位の概念を作ったLP世代じゃない。その単位を流通し続けてきたCDの販売量も、僕が生まれた頃にはすでに落っこちた後だった。僕が初めて自分の手で音楽を選んで聴いた媒体のMP3プレイヤーも、実はもう時代遅れのガラクタだったのだ。そして、もうファイルを買う必要性すら感じないストリーミング時代に、いくら音楽が好きでも、そこまで「アルバム」死守する義務ないでしょ…、となってしまっているのだ。いや、まあ、好きですけどね、アルバム。

そんな時代だ。同時代のミュージシャンたちからも、その「アルバム」という概念を問い直す作業を見ることができる。例えば、Beyoncéの 《BEYONCÉ》(2013)、《Lemonade》(2016)などは「ビジュアルアルバム」コンセプトで、その単位に新たな価値を付与した。Kanye Westの 《The Life of Pablo》(2016)の場合、発表後にも音源を修正し続けることで、「音盤」という概念の固定されたイメージを打ち砕いた。また、彼のチームがWyomingで制作したはみな7~8曲・20分前後の分量に統一して「レギュラーアルバム」に期待される長さに不服した。それと同年度のTierra Whackはもう一歩踏み出して、1分単位で切ったファイルだけを集めてアルバムにした(《Whack World》(2018))。

一方、ヒップホップでよく使われたミックステープ(mixtape)という言葉が商業音盤にも使われるようになり、アルバムの概念をさらに曖昧にした。例えば、Chance the Rapperの代表作、 《Acid Rap》(2013)と 《Coloring Book》(2016)がみな「オフィシャル・ミックステープ」という事実は有名だ。2010年代の超ヒットスター、Drakeもまた《So Far Gone》(2009)、《If You're Reading This, It's Too Late》(2015)などの代表的な商業ミックステープを残して、さらに「プレイリスト」という言葉を《More Life》(2017)に導入した。個人的には正直、あえてその言葉を使う理由に対して疑問が先にわくのだが、とにかくPost Maloneなどのミュージシャンがイージーリスニング及びムードメーカー用のアルバムでチャートの強者に君臨するのを見ると、やはり何らかの意義があるのかなあ、と考えられる。そして何より、本作、《Cliché》の主人公の一人であるKid Milliは、自分のファーストアルバムを《AI, THE PLAYLIST》(2018)と命名した張本人である。そして本作に至っては、聴者に対し、「プレイリスト」を直接再配列するように要請する。


-2/承!-

いやだね!なんでそんな紛らわしいことを!そもそも、この順番で発表したのはお前らじゃん!

……そこまで思ってはない。けど、別にそんな義理もない、とは思っていた。僕は当然最初、提供された順番で聴き入れて……。え、何これ、めっちゃいいじゃん?!と嘆声を上げた。

提供順で最初の曲、〈V I S I O N 2021〉は、その題名のごとくアルバムに関するビジョンを提示する。強烈なバンガー(banger)の役割をするベースと、電子音楽の色が現るドラムパターン、ロッキングなギターなど。Kid Milliと、本作の助演とも言えるronのパフォーマンスまで、一番多彩な曲だ。連なる〈Bittersweet〉、〈Challenge〉も優れたバンガーで、前者は強烈なトラップビートにキャッチなフローで自慢を見せ、後者はニュー・ディスコ、ハウスミュージック影響のビートの上でシニカルに挑発を掛ける。

〈Blow〉で急にエモラップに変わるところは不自然だったけど、次の曲〈Citrus〉で繰り広げる純度の高い(?)インディーロックの音色を聴くと、その架け橋としての役割を理解できなくもない。そして、ある程度雰囲気が落ち着いてから出会う〈Face & Mask〉では、「芸術家の生存」というテーマを、コロナ禍の環境と繋げ、アルバムの中心で重たく座して質問する。それで、題名とは無関係に途中に配置されて機械で加工したフックと散らばるドラムで感情を再び高める〈Intro〉は、新たな基準(new normal)以降の芸術家の同僚に向けたある種の宣言のように聞こえる。

〈Leave My Studio〉のメロウなトラックに淡々として寂しそうなラップはまたしも不自然な落差を作るが、それに比べて彼の本音を代わりに語るようなソヌ・ジョンア(Sunwoojunga)のソウルフルなパフォーマンスが輝いた。そこからつながる〈Cliché〉では、Kid Milliのほぼ最高と言えるくらい華やかなラップスキルを聴ける。そして、その中で彼が取り出す多くの情報は、虚無な感情を基に人間関係の傷を色々と捻じ曲げて表現することで、「bring it back my fuckin checks」みたいに、逆説的な自慢(swag)に至る。その中で冷たくて攻撃的なビートは、ビンテージなキーボードがトップラインを刻み始めて雰囲気を転換し、そうやって次の曲〈Bankroll〉に入っては、金属な音のするギターと共にまたバンガーを作り出し、Okasianが転調したビートで酔ったようにラップしたのち、サイケデリックなラストまで印象深く残る。

そうやって嵐が去った後、ポストロックバンドの「끝없는잔향속에서우리는(In the endless zanhyang we are)」が繰り広げる広大なスケールの演奏は、本作が借りてきたロックの色彩が本格的に爆発することで、必然的に感情の高ぶりが頂点に至る。もう一度の嵐が去った後、〈Outro〉の親とファンへの手紙を聴くと、ついに「お約束(cliché)」なジ・エンドだ。

***

彼らが提示した「Narrative」順で聴くと、いくつか新たな話が見えてきた。例えば、〈V I S I O N 2021〉で「god bless me」と告げて終わった後、次に〈Cliché〉が来て「恵みを。」と始まる仕掛けは、この順番じゃないと見れないもので、ちゃんと「ナラティブ」として機能する証拠になる。そして、既存の曲順だと急な落差で弱点に残った〈Blow〉が、〈Cliché〉と〈Midnight Blue〉の間に挟まって、ちゃんとストーリーをつなげる大事な役割を果たすことになる。「(彼女と)別れて、俺に合う相手を探そうとした / […] / 俺に借りある奴から一人選ばなきゃ」(〈Cliché〉)というシニカルで問題的な歌詞の後で、「元々借りてたのに今は貸してる」、「初対面から君はうちに来た」などと歌う〈Blow〉の描写はさらに問題的だ。そして迎える〈Midnight Blue〉では、「俺を気に入ったと言ってよ」と要求するKid Milliのパートと、「私が愛をあげれば、君は何を売るの」、「手を差し伸べると、君は子犬になる」とシニカルに答えるアン・ダヨンのパートの間での緊張感が明確に捉えられて、クールそうで危うい話者の新たな関係は、高まっていく演奏と共に微妙で複雑になっていく。ロックな編曲で割と反響を起こした〈Citrus〉は、なんと〈Outro〉の後に来て、恋愛の後日談と同時に、もう一つのファン・ソングにも聞こえる。


-3/轉…-

僕は本作についてこう要約する:音節を異質に断ち切って呼吸を極端に調節することで成す独特なグルーブのKid Milliのラップスキルと、ヒップホップとロックそして適量のエレクトロニックサウンドを各ジャンル文法を混用して積極的に融合したdressのプロダクション、その優れた両方の要素がアルバム全般にかけて表現される。

dressの前作、《Not my fault》(with. sogumm)で見せた幻想的でメロウなムードが多少粗めに変わったのは惜しいところだが、2010年代のインディーロック・リバイバルのサウンドを適度に借りて、デジタルとアナログの境界を曖昧にする作法はもっと深く溶け込んだ。日本で活動するラッパーのKID FRESINOが代表作《ai qing》(2018)と最新作《20,Stop it》(2021)などで見せたサウンドや作法も思い出させるのだけど、彼がヒップホップの文法を貫きつつも他ジャンルの音を積極的に浸透させる方法で、だんだん「ポップ」に活動範囲を広める姿が本作と重なって見えて、その要素だけでも本作は僕にとって相当重要に感じられた。

でも、ふと思う。もし僕がアルバム最初の曲として、最初から強烈にバンイング(banging)させられる〈V I S I O N 2021〉の代わりに、落ち着いて始まる〈Leave My Studio〉を聴いたのなら、やっぱり全体的な感想は変わったのではないだろうか?実際、本作の優れたところの間には惜しみも散在する。例えば、〈Intro〉の場合は詰めが甘いし、〈Blow〉と〈Outro〉の密度の低さも惜しい。「Narrative」順で新たに配置された〈Challenge〉 - 〈Bittersweet〉 - 〈Bankroll〉 - 〈V I S I O N 2021〉ラインは、ダンサーブルなエネルギーとは別に、やはり個々のメッセージが希薄化する。クライマックスの〈Midnight Blue〉も、演奏とストーリーで扱う圧倒的な感情を根拠に素晴らしい曲と言えるけど、Kid Milliのパフォーマンスがほかの曲に比べてやや平凡になるのを指摘できる。― 僕はそれらの短所を、最初に再生したときの〈V I S I O N 2021〉 - 〈Bittersweet〉 - 〈Challenge〉につながる「爆撃」で、全部なかったことにしてしまったのかもしれない。

「発表順」だと、序盤にはさっき言ったとおりの〈V I S I O N 2021〉 - 〈Bittersweet〉 - 〈Challenge〉の爆撃、後半にはバンガーの〈Bankroll〉と〈Midnight Blue〉という大曲が援護する中、中盤に〈Citrus〉、〈Face & Mask〉、〈Cliché〉などの印象深い曲を挟み込む。「Narrative順」で聴くと、「発表順」で破片化された感情の流れを掴めて面白い。この違う順番はそれぞれ異なる長所と短所があるが、逆に各順番を知ってから再び乾燥したときに感じるものが違ってくる点で、むしろ両順が互いに補完するとも見れるだろうか?ここまでくると、レビュー対象との最小限の距離までも無視した事態かもしれないが、新譜を聴いてこんなに連鎖的に感嘆した経験は久しぶりだった。


-4/結?-

本作は初め、〈Face & Mask〉などを中心に、「パンデミック時代の芸術」のような主題意識を語るように見えるが、その視線はいかにも個人的(そして冷笑的)だ。例えば〈Bittersweet〉、〈Bankroll〉などで繰り広げる金自慢(money swag)はヒップホップジャンルでの「お約束(cliché)」だが、本作で強く提示するパンデミック背景を考えると、そこから意図的な乖離を感じられる。〈V I S I O N 2021〉の場合はさらにひどくて、「ラッパーたちの通帳には冬が来る / Dimonds dimonds 俺は氷も凍らせるぜ」と、その背景を個人の自慢の道具に変えて挑発する様子を見れる(※ヒップホップで「ice」はよく「宝石」の意味で使われる)。だから、話者はただ「talkin' bout life」しているだけなのだ。「時給で生きる生活は扱われない」社会で、「Brand new car」について論じることのできる芸術家として生きていく現在について(〈Face & Mask〉)。

それでも、この物語はただ話者個人の経験以上に見つめる価値がある。〈Leave My Studio〉で話者の燃え尽き症候群のような様子が、「パンデミック・ブルー(pandemic blue depression)」という言葉が流行っている中、単純に話者個人の脱力と見づらいように、だ。パンデミックという背景は必然的に「現在」という感覚を共有する。したがって僕らは本作を通して「現在の芸術家」「芸術家の現在」などを巨視的に論じられるわけで、これは先、Drakeなどの例を並べたように、大のストリーミング時代に向けて活発化した「プレイリスト」形式に、ある種の正当性を与えると考えてもいいだろう。

ナ・ウォニョン評論家のコラムによると、一番最初に言及した「언니네 이발관(Sister's Barbershop)」の《가장 보통의 존재(Most Ordinary Existence)》について、批評家たちはアーティストが提示した「①順番通りに、②良い音質で」という指示にしたがって、それがそのまま「アルバムの価値を守る」という談論に拡大再生産されたと批判する。そして現在、僕らが本作を聴く際に、Kid Milliとdressが提示する「08 06 07 03 02 10 01 09 04 11 12 05 13 14 Narrative.」という指示に、必ず従う理由はない。どちらにせよ彼らはストーリーを破片化する方法を選んだのだし、音源サービスで提供された順番がよくなかったら、それはそれで批判に値するだろう。ただ、僕は今まで音楽評論が成してきた「音盤」についての論議を、逆手に取ってみたいと思う。《가장 보통의 존재(Most Ordinary Existence)》がアルバムの鑑賞法を一つに固定したのに比べて、本作はそこにもう一種類の選択肢を増やしたのだ。僕より先立った評論家の先輩たちが「音盤」の概念を守護するために、その「簡単な鑑賞法」を拡大再生産してきたのなら、少なくとも本作を聴くにあたってもアーティストが指示した「もう一つの鑑賞法」を容認し、遂行する苦労くらいはするべきではないだろうか。そうやって作られた「プレイリスト」は、結果的にアルバムの有機性を擁護するし。


おすすめ度:★★★★



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?