たぶん、たぶんね

Quizás Quizás Quizás...と有線放送が甘く静かに歌う。
何十年もかけて壁に染み付いた紫煙が、静かにその香りを再び空中に放っている。止まり木についている客は私を入れて3人。2人は真ん中の方に座ってスマホを覗き込んで低い声で喋っている。私は右端に座って、ジャックダニエルの入ったグラスを覗いている。棚には瓶の中に模型の船を組み立てた、ボトルシップが並んでいる。

りん、と入り口のベルが響いて、その人が入ってきた。

「待ったね」と問う口がもう恋しい。
私は黙ってジャックダニエルを持ち上げる。
グラスの外側についた水滴がぽちゃっとカウンターに落ちる。
その人は私の頭に腕を回して右耳をちょっと触って。
「ジャックダニエル、ストレートでお願いします」
右耳のイヤリングが少しだけ揺れた。
もうそれからはその人は喋らなかった。真っ黒なジャケットのポケットに手を入れて眼の前に置かれたたくさんの瓶を眺めていた。

氷が溶け、グラスが響いた。

「すこし疲れたよ」
眼の前に置かれたグラスとチェイサーを見てその人が言う。
「うん」
「ねえ、」
と私はグラスを掲げる。
「うん」
静かな静かな音を立てて2つのグラスはぶつかり合う。瓶の中の船はちっとも埃をかぶらないんだなぁ。
「そうだね、でも中が見えてるってことは誰かが瓶を拭いてるん」
どこにも行ってほしくない。そう、その人に伝えねば。伝えたらうんって言ってくれるはず。でもそのうんは誰も願ってない。
「ふふ」
その人が少し笑う。
「イニシエーションって言葉知ってる?」
「グラデーションってどこで変わるか分かる?」
質問に質問で返す。いつものコミュニケーション。答えてもらうべき質問はもう聞き尽くしているはず。あとはきっと聞いてはいけない質問なんだ。答えて欲しくない質問に答えてもらいたくなくて、質問はいつも質問でかえしてしまう。

りん、とドアの鈴が鳴り、ありがとうございますとドアが閉まった。
その人は私の顔をなぞる。細く長いきれいな指。爪がすっと尖った長方形。眦から頬へ指が滑る。地面の水たまりには緑がかった街灯が反射している静かな夜。私はその人と一緒に港の片隅に置かれた灰皿の前のベンチに腰掛けた。濃い潮風が吹いて私の髪の毛をくぐり抜ける。
「今度はどこ」
知ってる質問だ。もう何回も聞いた質問。
「アンダマン海」
知ってる。知ってるのに聞いてしまう。
大東亜共栄圏を守備する、そういう任務だそうだ。
「あなたを守るんだ」
とその人はよく言う。やめて。その度に私は言いそうになる。やめて。
私はこうしてあなたと肌を重ねて一緒にいる事、それを一番望んでる。遠くに行くくらいなら、守ってもらわなくて構わない。あなたって誰。お願い。やめてほしい。

でも言えない。言ったら、その人はきっと辞める。私のために辞めてくれる。そしてきっとそばに居てくれる。
でも、本当にわがままなのは分かってるけど、分かってるけど。
私は辞めたその人を今みたいに想えるのだろうか。
私の顔をなぞる指に問う。
一緒に居れないの?きっと帰ってきてくれる?
私の喉から「明日は晴れるかな?」という質問みたいな言葉が出てきた。
「たぶん...たぶんね」その人は空を見上げて答えた。

私はたぶん、その答えを聞きたくなかった。たぶん、なの。
そう言わないといけないその人の気持ち。たぶん、というのが精一杯なの?

トクン、トクン。一分間にきっかり40回。心拍の音がその人とリンクする。
側に居ることの証明、心音。
私は恥ずかしくてその人の胸に顔を埋めて。嬉しいって面と向かって言うのは何だか恥ずかしくて。
トクン、トクン。心音は続く。続いて欲しい。

エンジンがどんどん回転数を上げていく。人と荷物を満載にした巨大な輸送機は車輪をゴロリと回した。フィーッという空気を高速で吹き出す音は徐々に低いゴォーという音に変わり、どんどん機体は速度を上げて、その巨体は宙に浮いた。そのまま真っ黒な巨体は青空に上っていく。真っ白な太陽に向かって空に上る。

黒い巨体はいつまでも見える気がしたけど、影はどんどん小さくなってついに青空になった。

風が吹いて右耳のイヤリングが揺れた。
りん、りん。

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