見出し画像

ごはんがおいしいだけでいい理由

食べ物の味がしなかった頃の話をする。

高校に上がった矢先、新しい環境に馴染めず転学を決断し、心療内科に通いながら人生全てがどうでもよくなった。
大仰な診断こそ下されなかったものの、ここが人生のどん詰まりかくらいのことは考えていたと思う。目が覚めて、絵を描くかゲームをするかして、気づいたら日が暮れているので、また何か腹に入れて、携帯を眺めて、気づいたら寝ている。知らぬ間に1日が終わり、1週間が終わり、1ヶ月が終わる。生活と呼ぶにはあまりにも内容のない日々が流れていた。
それは生きているというよりまだ死んでいないくらいのもので、当然のように食事をまともに摂る気が起きなかった。思うような味がしないと思っていたし、おいしいかどうかも判別していなかったかもしれない。満腹の基準も分からなくなって、毎日何かしらを残していた。今でもあの時ラップをかけて冷蔵庫にしまった食べ残しのことを思い出す。

何もしていない日はとくにそうだった。何もできない人間が何かを食べるべきでないと、食べるなら何かを成してからだと信じていた、と思う。
リソースが足らなかったのか、ちょっとした自己防衛なのか、それともたまたまなのかは知らないけれどその時期の記憶は全体にあんまり無い。この話も、この前母親に聞いてようやく知った。「ご飯がおいしい」と話すたびにその頃の話をされる。

生命維持に必要不可欠な行為すら忘れてしまうほどになった過去を経た今でこそ分かる。ご飯がおいしいことは、当たり前のことではないのだ。そしてそれは、心身の健康をもってしてはじめて成立する。
おかげさまで、最近はお腹が空いたら夜中でも何か食べたくなるし、白ごはんをおかわりする回数は増えたし、ラップをかけるのだってほとんど無くなった。
おいしいものを人に話したくなった。
だからこの制作を始めた。

食事をおいしいと思えることは、生きていることの肯定だと思う。
きっと本当は、それだけでいいはずなのだ。高い買い物をしなくても、希少価値を自慢しなくても、バズらなくても、人間ただ生きていてご飯がおいしければそれで充分なのだ。
今でも朝ごはんはよく抜くし、食べるのが面倒な時もあるし、毎日絶対に三食食べようとする家族のことはいまだに理解できないけど。
それでもようやく知った。
ごはんがおいしいだけでいい。

私が、これを読んでいるあなたが、生きている人間全てが、そうあれることをずっと祈っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?