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「信念を貫く」、ということ。

 私は基本的に「Roen」しか身に着けない。服、靴、アクセサリーのすべて。時折、KMRII、IF SIX WAS NINE、14th addictionなどのブランドを加えるが、私を知っている人には既知の通り、外出着、部屋着、ハンドタオル、枕カバーに至るまで「Roen」である。なので、私が身にまとう物はどうしても黒と赤。たまに白い日があるという日常である。
 私の全身は、どの服、どのアクセリーを見ても必ず「ロエン骸骨」が施されている。

 この「Roen」というブランドは、偏ったジャンルの日本人ミュージシャンに好まれている。L'Arc~en~CielのHYDEが最も知名度が高く、X JapanのYOSHIKI、LUNA SEAのINORAN,黒夢の清春も愛用している。
「90年代ビジュアル系アーティスト」。要するに、あの当時に流行ったバンドメンバーがみんな好んで着ている。もちろん、私はその世代のビジュアル系バンドが大好きである。

「ファッション」とは「流行り」という意味なので、私が着ている服は全く持ってファッショナブルとは言い難い。

 ただ、私は「服」というものは自分の信念(ポリシー)を表現するものだと考えている。安い服なら何でもいい、などと言っている奴がいると、「私には信念などありません」と言っているのと同じなので、習字とプログラミングと天気予報士とギターとサッカーと4tトラックの運転技術と遺伝子組み換え食品の作り方と痴漢に襲われた時の迎撃方法を同時に教えてやろうかとさえ思ってしまう。

 カンフーを教えているとよく「型(中国武術では套路と呼ぶ)なんて、意味あるんっすか?」と訊かれる。表演のこと。「俺は強くなりたいので、型なんてやりません。殴り合いだけを教えてください」という血気盛んなやつもたまにいる。仕方ないな、と思って殴り合いだけを教えると、この血猛々しい野郎は、完全にキックボクシングを修得することになる。
 左ジャブ、右ストレート、左ミドルキックのコンビネーションを出したりするようになる。

 カンフー教室でキックボクシング。あなたは、英語教室でフランス語を修得したいのか。武術、武道というものは、「ルール」ではなく、「信念(ポリシー)」に貫かれている。ルールのない状態で、相手をいかに仕留めるか。ルールに適応するのがスポーツで、己の信念に適応するのが武術である。

 中国武術には様々な流派がある。酔拳、螳螂拳、蛇拳、八極拳、形意拳、太極拳、心意拳、八卦掌、無影拳……。数え上げればキリがない。
 どれが一番強いのか? ではなく、「自分自身が一番強くなれるのはどれか?」が、どの流派の鍛錬を積むかの選択要素である。
 とんでもなく足が早いのに、水泳を選んだりはしない。ボールを剛速球で投げられるのに、サッカーを選んだりはしない。同じことだ。

 私自身は北派流無影拳の鍛錬を積んできたので、一つのパンチ、一発のキックを出すだけでも、他の人とはまったく違ったものになる。パンチやキックなんて、誰が打っても同じフォームでしょう? とは決してならない。私の信念によって練り上げられた拳の打ち方がある、蹴り方がある。

 つまり、「己の信念により流派を選び」、それを「実践」するのが「型(套路)」であり、一つ一つの「技」は套路で練られた動きによって繰り出されるものなのである。
「己の信念によりブランドを選び」、それを「着る」のが「お洒落」であり、一つ一つの「仕草」は身につけた装飾品に支えられながら、自分自身を魅せていくものなのである。

 1970年代に流行ったヒッピーファッションなんて、今から見ればただのむさい親父だったり、ジュリアナ・ボディコン・ワンレン・肩パッドももはや歴史の教科書に掲載されてもおかしくないほど、ダサい。

 スポーツにしても、今のボクシングは50年前のボクシングとはまったく違うし、サッカーも野球も技術体系は相当に変化している。昔の技術では、今は歯が立たない。

「流行」はいずれ廃れる。しかし「信念」は決して廃れることはない。
 ファッションに流されることなく、ポリシーを貫く。

 そして、その「信念」は「表現」された時に、初めて価値が生まれる。

 考えているだけではダメ、行動しなくちゃダメだぞ、とかそういうことを言っているのではない。

「信念」を持たなければ、一体、自分が何をやっているのか、どうするべきなのか、素より自分が一体何者なのか、それが分からなくなってしまう。
 どんな服を着て街へ出ればいいのか分からない。どんなパンチで相手を倒せばいいのか分からない。

「お前は何者だ?」、そう訊かれたとき。
 あなたはなんと答えるのか。

 それが、あなたの「信念」である。

野良犬募金よりは有効に使わせて頂きます。