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Sweet sweet days in '90s.

 正直に言うと、ここのところ、女性ウケがまったくしない。
「面白くない」との感想が飛んでくる。特にある人から。ひどい。
 このNoteもいつからか「武闘派」になってしまっていた。男の子向きだよね。
 そういうわけで、志向を変える。

「夢をかなえる」という言葉に何も感じなくなったのはいつからだろうか。
「成功する」という言葉に違和感を覚えるようになったのはいつからだろうか。

  僕らがまだ青年だった頃、夢は決して金とイコールではなかった。
 当時のホットドックプレスやポパイや、メンズノンノにはそんなことは書いていなかった。
 僕らが憧れていた「お洒落であること」は決して「お金持ちであること」ではなかった。夢を叶えなければならないとは言われなかったし、成功しなければならないとも言われなかった。あらゆる意味で、そのまま生きていれば誰もが幸福になれるという前提があった。憧れの職業は、美容師とかショップ店員とか、バンドマンとかバーテンダーとか、後はフリーター。とにかくファッショナブルであれば良い、というメッセージが僕らを覆っていた。

 当時流行だったフェミニンな洋服は特に高価ではなかったが、大阪だとアメ村のBIGSTEP、東京だと原宿ラフォーレ辺りで武田真治やいしだ壱成と同じ服を買ってクラブに通えば、それこそが幸福な日々だった。金持ちになりたい、とか、成功したい、などとは誰も考えてなかった。毎日が気持ちよければそれでいい、みたいな感じが強くあった。

 あの時代、僕らの世代は何を見ていたのだろう。
 1990年くらいは僕は大阪で暮らしていて、周りには小説家を目指したり、ミュージシャンを目指したり、お笑い芸人を目指したり、演劇俳優を目指したりしながら、基本的には無職、みたいなやつしかいなかった。金がない、金がない、と言いながら、みんな楽しそうだった。

 程なくして、バブルが崩壊、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件がほぼ同時期に起こって、4万円を超えていた日経平均株価は半分になり、ホリエモンの逮捕や山一證券の倒産などがあって、浮かれていた僕らは冷水を頭から被せられた。アイス・バケツ・チャレンジ。

 急カーブを曲がるように価値観の変容を迫られ、夢をかなえるとは金持ちになることで、成功とは金持ちになることで、それ以外は頭数にさえ入らない、と言われた。サラリーマンとしてコツコツ頑張るか、そうじゃなければ自分の才能でなんとかしろ、と怒鳴られて、日々の快楽など後回しにされた。

 このままではまずいぞ、と遠くからサイレンが鳴らされた。
 僕らは身体を締め付けていた派手な色のTシャツと、ヴィンデージジーンズを脱ぎ、傷だらけのZIPPOライターを捨てて、髪を立てることもせず、街へ繰り出すことをやめた。

 地味なスーツを着てブランド物のネクタイを締め、ビジネスバックを抱えて、僕らは満員電車に乗り込んだ。毎朝、急き立てれるように。

「いつまで夢を見ているんだ?」と大人が言った。
 でも、あれは夢じゃなかった。僕らにとってはあれは日常だった。

 僕らが経験したあの歴史的大転換より後は、平成不況とかデフレとか、緊縮経済とか、GDP低下とか、賃金横ばいとか、少子高齢化とか、日本後進国入りとか、色々な名前で呼ばれて、今もあの日々が戻ってくることはない。近代化を終えて人口減少が続く国では、経済が成長することはないのだろう。

 経済成長を支えた最後の世代であった僕らは、後に団塊Jr.や就職氷河期世代、置き去りにされた世代であったり、ロストジェネレーションなどと呼ばれ、いずれにしろ割を食うことになった。

「あの日々」を鮮明に覚えている僕らは、何かしら思い出の染み付いた物を大事にしている。それは履き古したリーバイス501かも知れないし、紐が切れたオシュコシュビゴッシュのサンダルかも知れないし、動かないagnès b.の腕時計かも知れないし、 擦り切れたBOOWYのビデオテープかも知れないし、中身のないマンダムのヘアディップかも知れないし、変色した河合奈保子のプロマイドかも知れないし、組み立てることのなかったマンハッタンのツインタワーの模型かも知れないし、送られることのなかったゴッホのひまわりのポストカードかも知れないし、あるいは当時の「自分のポラロイド写真」かも知れない。

 僕らはサイレンにしたがって、今は非日常を生きているけれど、いつかまたあの綺羅びやかな日々に戻れると、ずっと信じて生きてきた。

 きっとあの頃に戻れるはずだ。

 僕らはこの30年、夢も成功も必要としなかった。ただあの頃に戻りたいと思っていただけだった。

 クラブ帰りにバーに立ち寄ってたくさんの酒を飲み、タバコを吹かしながらみんなで肩を組み、外車のボンネットで寝転んで撮影した、あの一枚。
 当時のポラロイド写真は、今も色褪せることはない。
 そこには僕らが生きた時代が写っている。

 現在の自撮り画像が、どんなにひどい写りであったとしても。

 あれが、僕らの生きた時代だった。

 もう戻りたくても戻れない。

 それを理解した者から順に、夢の実現と成功を目指す。

 まだ死ぬには早すぎる。今日は死ぬには相応しい日ではない。

 逆説的になるが、僕らは「諦めること」でもう一度、夢を持つことができる。

 僕らが過去に経験した、あの興奮、息吹、バイブレーションを街や人や自分から感じることができた最高の日々。喧騒と酒と金とタバコと性欲が街中に溢れていた日々。

 あれを諦めるのだ。このまま歩き続けても、もうあの日々は戻らない。

 ここからだ、と僕は思う。あの奇跡はもう二度と起こらない。戦争復興と経済成長と人口増加が同時に起こることはこの国にはもうない。

 チェロキーを吹かしながら、フォアローゼスを注いだグラスをテーブルに置き、黒いサングラスをして、バーカウンターに座っている三十年前の自分のポラロイド写真を眺める。
 そして、スマホで撮った自撮り写真をじっと見つめる。
 すると、消えてしまったものが分かる。
 思い出の上に建つ楼閣、現在の深い沼、霧に煙った将来。

 どれを選ぶかはあなた次第だ。どれを選んでも、そんなに変わりはない。
「夢はかなうのか?」、「成功できるのか?」などという疑問はそもそも思い浮かば無いだろう。

 まだ生き続けていくために、何をしないといけないのか。

 我々には夢や成功など必要ない。

 胸いっぱいの思い出とともに生きるだけでいい。

 もうあのカーブを曲がることはない。ただなだらかな下り坂が続いていく。

 このままではまずいぞ、とあのサイレンは聞こえ続けている。

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