京都4年目の春 〜美月ちゃんが教えてくれた、明るくも憂鬱な春を健やかに楽しむ秘訣〜
グローバル観光学科4年 剱物 真桜
みなさん、こんにちは。
新年度が始まり、1年生から活動に参加していた私もついに4年生!昨年度はALKOTTOのリーダーをさせてもらっていたのだけど、その役職ももうじき代替わりだ。今年は後輩たちのサポートをしながら、このチームをもっと進化させることができるよう活動していこうと思う。ここにも積極的に記事を書いていきたいなと思うので、見守ってくださると嬉しいです。
「花の精」につられてやってくる疫神を鎮める奇祭
桜の散る4月14日に行われた、「花鎮めの祭り」・今宮神社のやすらい祭。
「やすらい花や」の囃子と歌で、春の精にあおられて飛散する疫神を風流傘に誘い込み、今宮神社まで送って鎮め無病息災を祈る、京都三大奇祭のひとつだ。ちなみに、もうふたつは鞍馬の火祭と、太秦の牛祭が知られている。
今宮神社の名物門前菓子・あぶり餅を食べながら、この風流踊を観覧するのが、毎年新学期が始まる前の私の恒例行事となっている。今年も今宮神社の近所の、チーズケーキの美味しい小さなカフェに行ってから、大徳寺を通り今宮神社へ。陽の光が暖かくて、きらきら輝く青紅葉が眩しくて、春というかもう初夏の陽気だった。
この、笛と太鼓のゆっくりとした囃子を聞きながら、畳の上でお茶とあぶり餅を頂くのが、なんともいえない安らかな気持ちになるんだよなあ。
疫神(=つまり疫病)を鎮めるためのお祭りなのだけど、去年はこのお祭りを観た1週間後くらいに、忙殺されて発熱。完全にメンタルをやられていたのを思い出す。
春は、終わりと始まりの季節だからか、体も心も重たくなることが多い。それなのに、周りを見渡すと、花が咲き、新芽が芽吹き、虫達も動き出し、世界は嬉しそうにしている。そんな世界と自分のギャップにまた嫌気がさしてきたりもする。外の煌びやかな世界が、自分の内面の影を濃くしていくんだ。
今年から4年生で、周りは就活で忙しなくしている。けれど、わたしは進路について何も決まっていなくて、迷走してばかり。そんな時やすらいさんを観に行って、去年の落ち込みぶりを思い出したけど、あれ?不思議なことに、今年はそんなに気持ちが重くないし、春めいていく季節を素直に喜んでいられる。
不確定要素とか、これからどんな年になっていくかとか、絶対に今年の方が不安なことなんて多いと思うんだけど、どうして去年はあんなに気が病んでいたんだろう。去年と今年、いったい何が違うんだろう?
春のことを去年よりも少しだけ理解できた、とある晴れの日。
京都に来て、毎年春が待ち遠しくなる理由のひとつに、「桜」があるのは言うまでもない。毎年名所の桜を見るのを楽しみにしている。去年、用事があって仁和寺に行ったとき、御室桜が満開だったのでついでに楽しんできたのだけど、帰り際疲れてひとり仁王門の横に座り、ため息をついていた気がする。
去年の話はさておき、今年は建仁寺、醍醐寺の桜を見に行った。一緒に見に行ってくれたのは、同じALKOTTOで一緒に活動をしている美月ちゃん。
彼女との出会いは、1年生の時のオンライン授業のグループワークで偶然一緒になり、その時私が何気なく「建仁寺が好き」といったのを、美月ちゃんが覚えていてくれたことだった。それを知ったときはとても嬉しかったし、そんな美月ちゃんと今ではこんなに仲良くさせてもらっていることも本当に嬉しい。
朝早くから集合して、宮川町の路地裏に佇む『ろじうさぎ』というカフェでおばんざい朝食をいただく。湯気の立つツヤツヤな白米に、焼き鮭を乗せて頬張るのは、日本人のDNAが興奮するなんとも贅沢なあさごはん。
お腹いっぱいになった後、思い出の建仁寺の境内を散歩した。わたしと美月ちゃんのはじまりの場所である。ずっと前から一緒に来たいと言っていたから、この雲一つない快晴の日に、彼女と来られたことがとても嬉しかった。
桜はどんな時も堂々たる美しさだけど、そうは言っても桜には青空が一番よく似合う。朝のさわやかな空気と、建仁寺の凛とした雰囲気が相まって、より一層桜の華やかさが際立っている。
その後、建仁寺塔頭西来院にたまたま出店していたBlue Bottle Coffeeで食後の一休みをしたり、清水まで散歩して、三年坂の道中にあるおはぎ屋さんで3種類の大きなおはぎを堪能したりした。
そして、その日のメインは醍醐寺の桜。醍醐寺は『古都京都の文化財』のひとつとして世界遺産に登録されている古刹で、関白・豊臣秀吉もこの醍醐寺で「醍醐の花見」を催したほど、古くからの桜の名所として知られる。
枝垂れ桜が、春の陽差しをいっぱいに受けて風に揺れている。951年に完成した国宝・五重塔も、桜と新緑に彩られて華やかだ。
桜を眺めながら広くて静かな伽藍をゆっくり歩きまわると、霊宝館の前に団子の文字が。
花より団子というのは、人間の宿命なのだ。
今日は朝早かったし、素敵なあさごはんや、ボリュームたっぷりの大きなおはぎ、それに醍醐寺の桜を愛でながらいただく三色団子に焼きよもぎ餅でお腹いっぱいだったこともあって、風に揺られておだやかに咲きこぼれる桜を見ていると…なんだか力を吸い取られていく感覚。体も瞼も重くなってくる。
ああ、これが「花の精」というやつか。疫神があおられるのも合点がいく。
桜や春の陽気が喜ばせるのは、わたしたち人間だけでなく、植物も、虫も、動物も、疫神でさえ喜ばせてしまうのだ。
そして、今年の春は「卒業」という言葉が、わたしたちの頭をちらつく。果てしなく広がる「将来」という名の荒野にひとり立たされている。なにも確定しているものなんてないし、少しも安心できることなどない。明るく彩り豊かになっていく外の世界とは裏腹に、わたしの世界は真っ暗でなにも見えないのだ。そんな人間の精神状態に、つけ込んでくるのが春の疫神なのだろう。
そんなわたしの世界に降ってきた、美月ちゃんのこんな言葉。
「(就活とかは)なんにもしてない。今やってるホテルの仕事が合えばいいけど、合わなかったときはその時に考える!」
ああ、そうだな。現時点でなんにも見えてこない将来のことを考えて悩んでいたって仕方がない。せっかくわたしには、明確なやりたいことがあるのだから、どんな問題があるとかないとか考えすぎて二の足を踏むんじゃなくて、いま、この瞬間を大事に、一生懸命やることをやるので十分なんだ。
そうしたら、荒野を歩くのだって楽しめるはず。
美月ちゃんは、ふだん物静かで穏やかな子だけど、自分の軸というものをしっかり持っているし、なによりどんな世界にも飛び込んでいける逞しい一面がある。
わたしはこの春、彼女の逞しさをちょっぴり分けてもらったので、春の眩しくて明るい世界を見て素直に『綺麗だ』と喜んでいられたし、疫神にも付け入る隙を与えずに済んだ。
「これから」よりも「いまから」を楽しむことに決めた!
去年の今頃、やることは本当に多かったし、3年生は様々な団体で代表に立つ学年だったから、これから何をしないといけないのか、それを考えるのに頭がいっぱいだった。常に「これから」を考えていた。「これから」を考えながら、「いま」やらなくちゃいけないことをやっていたから、頭も心も体も満身創痍になって、ショートした。ショートした自分が情けなくて、奮い立たせるように自分を責め立てたりなんかもしていた。
京都の桜を見に行ったり、遊びに行ったりもしていたけど、一息つかせてくれるかと思いきや、逆に花の精と疫神に悪さされていたのかも。
私は、きっと考えるべき未来と、考えても仕方のない未来を混同していたのだろう。
私にも、将来こういうことをしていたい、「これから」どうなっていきたい、という漠然とした願望はある。
“I want to ~~ in the future.” 「将来、私は~~をしたい。」
という感じで、具体的ではないけど、自分の軸になるしっかりした願望だ。
しかし、私を悩ませていたのは、こんな感じ。
“I should be ~~ing in 〇month.” 「〇か月後に私は~~をしているべきだ。」
かなり具体的に、いつだれがどんな行動をしているべきか、明確にさせようとしていた。それはもちろん、先の見えない未来が不安だったから。けどいくらそれを考えようとしたって、実際に未来がどうなっていくかなんて指定することはできないし、見えなくて当然だ。見えないものを見ようとして悩んでいても、そりゃあ苦しくなるよなあ。
実現させたい未来や将来の自分の姿はあるけど、それは曖昧でぼんやりしているし、自分の行動や状況次第でいくらでも変化する。どんな過程を経て実際にどうなっていくかなんて、誰にもわからないのだ。
けど、今年は大丈夫。
先の見えない具体的な未来ばかりを考えていると、「いまから」やるべきことを見失う。
「いまから」やるべきことを全力でやっていたら、きっと「これから」の自分も見えてくる。その過程を楽しむようにしよう。そうすれば、疫神に負けず元気でいられるだろう。
そろそろ春も終わる。けど、桜が散ってしまった寂しさはない。また来年、桜を愛でるのを楽しみにして、若葉からエネルギーをもらって、今を一生懸命過ごすことにしよう。
どんな「これから」が待っているだろう。なにも見えない将来が、むしろ少し楽しみになってきた。そんなきっかけを作ってくれた、京都でのとある春の日。
春をもっと健やかに、楽しく過ごせる秘訣を教えてくれて、ありがとう!
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