わたし何も知らないよ本当はね?

アイドルが「理想像」と「自己像」の乖離を埋めることの不可能性について。


2021/5/26 21:00 更新 
異担侍日報 矢花黎 vol.006

ブログみて思ったことがあればブログでも書いちゃったりなんかしちゃって

と圧力かけられたので(笑)ブログ書いてます。というのは言い訳です。
そして自己防衛のための前置きします。この文章は決して矢花さんの思想に対する同調でも共感でもないのだけれど、かといって矢花さんや矢花さんの思想に対する批判でも中傷でもないし、矢花さんや矢花さんのオタクの喧嘩がしたいわけでもなくて、純粋に、思ったことがあったから書いている、というか、アイドルオタクとして秘めていた個人的な思想に触れるところがあったから、せっかくだから書いたりなんかしちゃって、というだけで、別に何が正しいとかそういう話じゃないんでアレなんですけど。
という感じですのでよろしくお願いします。本当に、オタクと喧嘩したくないです。矢花さんのオタクって担タレそうだし、思想でぶつかったらこちらが負けるのはわかってるのでお手柔らかに。

あと、私の担当も推しも矢花さんではないのだけど(ごめんなさい)、矢花さんの話を受けて書いていることなので便宜上全ての具体例を「矢花黎」で話を進めます。ご了承ください。


ちなみに、テーマとして「自分の面」を何面使い分けているか?という問いに対する答えでは全然ないです。
(せっかくなので自分の面が何面かの問いに触れるならば、死ぬほど強気で勝気で他人の意見も考え方もどうでもいいしあたしはあたし、と、それとは真逆に位置するセンシティブなわたし、の二面だと思ってます。)

このブログテーマに一言でタイトルをつけるならば
【アイドル論私観】
というところかな。「自分の面」の話からだいぶ脱線してます。

今回も例外なく長い長いブログだったし、内容が濃いので乱暴に切り取ることも出来ないのだけれど、十回くらい咀嚼した上で要約するならば

「いろんな媒体を通して形成された「矢花黎」という存在、世間の描く「矢花黎」の「理想像」と現実世界の「矢花黎」の「自己像」の乖離に苦しむことがあるから、「理想像」と「自己像」を近づけられるように活動したい」

という内容が非常にザックリとした今回の主張、と解釈しました、私はね。あくまで、私は、です。恐らくこの時点で「解釈の違い」というものが生まれているであろうことは一旦おいておいてください話が進まないので。


で。このブログを読んで、アイドルオタクをしている私は思ったわけです。

矢花黎さんがどんなに「理想像」と「自己像」の乖離を埋めようと活動してくれても、きっと私には一生矢花さんの「自己像」と私の矢花黎の「理想像」が近づく日は来ない。

これは矢花黎さんだから、彼個人の問題というわけでは決して無くて、私が出会った「矢花黎」が「アイドル」だから。

「アイドル」というは存在は、職業でありながら概念でしか無く、所詮虚像だ。「ファン」という存在で成り立つ偶像であり虚像でしかない。

【idol】偶像、聖像、偶像神、邪神、偶像視される人。崇拝物、アイドル、誤った認識
【偶像】あこがれや崇拝の対象となるもの


全て個人の意見だけれど、少なくとも私は、アイドルという肩書きを持った「矢花黎」に出会った以上、生身の「矢花黎」に近づくことはできなくて、偶像の、理想像のフィルターを通した「矢花黎」以外を見ることは決してないと思う。というのも、もし「矢花黎」がアイドルをしていなかったら出会うことすらなくて、逆に言えばもうアイドル「矢花黎」に出会ってしまった以上アイドルではない「矢花黎」に出会う可能性はこの先1mmもないのだ。

同じ生身の人間でありながら、私にとって「矢花黎」は現実には存在していない、実在しない、虚像の存在なのだ。

過去に、大好きだったアイドルが、ジャニーズを、アイドルを辞めた時に、泣いて泣いて失恋してもこんなに泣きたことがないというくらいに泣き続けていた時、友人から
「別に死んじゃった訳じゃないじゃん」
って言われたことがある。「だから、元気だしなよ、まだ会えるわけだし」という友人なりの励ましの言葉だったのだけれど、逆にそれが私にはグサリときた。

ああ、そうか、私が好きだったひとは「死んじゃった」んだなって、だからこんなに悲しいんだなって、腑に落ちた。

私にとって、「アイドルがアイドルをやめる」ということは死んでしまうのと同義なのだ。「アイドル」が「アイドル」の肩書きを外した瞬間、それは自分が見てきた一人のアイドルが「死ぬ」ことを意味するくらい、アイドルに「生身の人間性」ではなく「虚像」の姿に夢を描いていたのだ。

これは矢花さんのオタクに限った話では全くないけれど、「好きになった矢花黎がたまたまアイドルだった」タイプと「アイドル(ジャニーズ)の矢花黎を好きになった」の二パターンがあると思う。

前者にとってタレント側から我々の見ている「理想像」と現実世界を生きるタレントの「自己像」の乖離を減らそうとしてくれることは非常に魅力的なことに感じると思う。「アイドル」というフィルターを取り除いた生身を感じられるのだから。

しかし、私はどちらかといえば後者だ。アイドルが「アイドルをしている」という行為そのものが好きで、そこへのこだわりが強い。だから、あくまでアイドル矢花黎にしか興味がないというか、私が見ている「矢花黎」は矢花黎という一人の人間でありながらあくまで”アイドル”という鎧をまとった虚像の姿でしかないので、この乖離を埋めようとしている「矢花黎」もまた「虚像」であり、そういうアイドルスタンスなんだな、と思ってしまう、というジレンマが発生することになる。

逆に、もし現実世界の「自己像」を生きる「矢花黎」に触れた瞬間、それは私が見ていた「矢花黎」は死ぬ時だ。

ファンとアイドルってあくまでも「消費側」と「生産側」という関係性で成り立っていて(松村北斗くんの言葉を借りてます)一生フラットな関係はなれない。お金を払って貴方に会いにいく。お金を払ってその思想に触れているわけだし、そのお金で貴方は生計を立ている。悲しいことにこちらは貴方を消費することしかできなくて、こうして「矢花黎」のブログを通して生産された「矢花黎」の思想すら今この瞬間も一方的に消費することしかできない。
そう、しかも消費する上で、何かしらの媒体を通してしか触れることはできないのだ。
私は多分いわゆる「インターネット」文化に触れずに育ったので矢花さんが言う「インターネット」がよくわからないのだけど(※)、SNSでもマスメディアでも、表世界に出た瞬間「アイドル」の「矢花黎」としてしか世界には捉えられないし、等身大の人間ではいられなくなる。

だから、私はアイドルが、好きな本とか映画とか音楽とか、そういう話をしてくれるのが大好きだ。媒体を通しても歪むことなく伝わってくる事実であり、そういうものはその人物を構成している要素で繕えない部分だから、その生身の人物に少しでも触れられた気がして。

矢花さんが提供するブログやアイランドTVはその際たるものだと思っている。福利厚生が手厚すぎる。こんなに自分自身を構成する要素をふんだんに披露してくれるなんて、もし矢花黎さんが自担ならしんどいって何万回思ったからわからない。
そして、だからこそ矢花さんはそういう場で自己を表現して少しでも実物を伝えたいという気持ちでいることもわかっている。

しかし、好きなアイドルの好きな本とか映画とか音楽とか、そういうものを知ったとして、あくまで「アイドル」と「ファン」という関係性は何も変わらない。

SNSが発達して、事務所内でもツールが発達して、私服も素顔みたいな部分も文章も触れられる機会が増えて、昔よりずっとその人の生身を知ることができるようになったかもしれないし、知った気持ちになれるかもしれないけれど、ファンがアイドルを「知った」と思い込むのが一番怖いと思う。
そもそも、相手は私の存在すら知らないのに。
自分が他人に興味がないから、というのもあるかもしれないけれど、下手したら友人より、家族より、彼氏よりアイドルのことを知っているかもしれないけれど、一生自分以外の他人を「知る」ことなんてできっこないのに、知った、と錯覚を起こしそうになるのが怖い。自分が怖い。

「知る」ってことは「諸刃の剣」でしょ?

アイドルのオタクをしている上で、アイドルに対して、アイドルと生身の境界線がなくなることが一番怖いと思ってきた。

しかし、逆に言えば、SNSの発達で、アイドル側も遠い遠い偶像として生きるだけではいられなくなったのだろうことも頭では理解し始めた。このご時世、「エゴサ能力」も自己プロデュースの一環かもしれないし、SNSとは切っても切り離せない時代に生きてるアイドルたちなので、直接的にこちら側の声を聞き取り、寄り添い、リアコという言葉が生まれるくらい、身近で生身を感じさせる存在が今のアイドルに求められるものなのかもしれない、とも思う。

そんなことを思いながら何回も咀嚼したあのブログ。
「ファンの見ている自分は別物だ」という認識を持って自己を客観視できるアイドルはそう多くないとだろうし、語彙力がないのだけれどその観点を持つ矢花さんはすごいなと思った。
そして、このSNSと共存しなくてはならないアイドル側のことを私自身は考えたことはなかったので、生身の人間を、職業が「アイドル」であるという理由に全てを言い訳にして「アイドル」を押し付け、そこに生じるギャップが生身の人間を苦しめているかもしれないことに初めて気づかされたのも事実だ。

けど、けど。

きっと、私には「矢花黎」の“自己像”を捉えることは一生できない。矢花さんがどんなに「理想像」と「自己像」の乖離を埋めようと近づいてくれても、きっと私は一生矢花さんの「自己像」には辿り着けないどころか近づくことが出来ないと思う。

それが結論だ。

これは私が平成を生きたジャニオタで、平成にジャニオタ感性も培われていて、年齢の割に(これでも嶺亜さんと同い年です)感性が古いせいで飲み込めないのかもしれない。SNSが発達してもそのツールが「アイドル」を構築する手段となっても、アイドルを遠い存在としてアイドルを神聖化して生身ではない「アイドル」を求める時代から進んでない時代錯誤な生き方をしているから、怖いな、受け入れられないな、と思うだけかもしれない。

だから、そういう考え方のオタクもいるんだな。くらいで良いのですが。


理想像と自己像を近づける、ことが唯一の正解でもないとおもうんですよ。

もっと言えばオタクが求める「理想像」ではない矢花黎自信の「自己像」がどんなものかもわからない。

けれど、私は、それこそ、そこの乖離こそがアイドルの醍醐味だともおもうのね。

「I Know.」だってそうでしょう?オタクがどんなに深読みしたって、議論したって、正解はわからない。答えは生身の矢花にしかわからない。いくらご本人から解説があったとして、もうその時点で偶像の鎧をまとった「矢花黎」の言葉でしかないのですよ。
ステージに立つと、音楽してると憑依する、と形容されることが多いと思うし私自身矢花黎のパフォーマンスを見ていると音楽の神様?というより魔物に乗っ取られてるように見える、まるでファントムにとり憑かれたクリスティーヌのように見える。けれどその姿もまぎれもない矢花黎で、憑りつかれたと解釈するこちら側が矢花さんの「自己像」と乖離しているだけかもしれない。
けれど、そこの深読みをできるのは、「矢花黎」がアイドルで、生身を知らないからこそ、乖離があるからこそ、そこに深読みする、解釈の余地があると思うわけです。

私にとっては、こうやって思考回路を支配することまで計算しているのだとしたら「矢花黎」というアイドルはめちゃくちゃにしたたかで魅力的で恐ろしくて大好きなアイドル像だな、とか捻くれてる捉え方すらしてしまうわけです。ジャニーズにも一定数「思想強め」系アイドルはいるけれど、それにしても抜きん出た感性をもった「矢花黎」さん好きだなぁ〜と。
どんなに「理想像」との乖離を埋めようと、それを言葉にしたり映像にして届けてくれても、そういうことをしてくれる『アイドル』にしか思えないんですよ。

他人は他人で一生理解しえない、とわかりながらその葛藤抱えて生きるのしんどいだろうけど、もっと「アイドル」という職業に甘えてもいいんじゃないかな。

こういう捉え方が、矢花さんのいう「理想像」なのかもしれない。私が見ている矢花黎の虚像の姿なのだと思う。
そこまでわかる、理解できる。理解できるけれど、アイドルをアイドルとしか見られない人種…人種と括るのはよくないね、わたし個人は、きっとそれを変えることはできないです。

そして、それが出来ない人は、私以外にもどこかにはいるはずです。

だから、そういう存在もあるから、乖離をゼロにはできない、ということだけはわかっていて欲しい。そこの乖離を近づけすぎることに尽力して破滅して欲しくないです。

そこに近づけようと頑張りすぎたら、アイドルの矢花黎が壊れてしまいそうで怖い。近づけようとする優しさがエスカレートしたら、アイドルではなく生身の「矢花黎」を、ファンが壊してしまうかもしれなくて、怖い。

支離滅裂に長くなりましたが、要するに、オタクの描く理想像を矢花さん本人の自己像に一致させたくて、そのためにいろんな矢花を提供していくよ、というスタンスでやっていくことは理解したし楽しみに思うけれど、きっと一生そこが交わることはないから、破滅しないで欲しいな、ということです。


長くなったね!!本当に!何文字だろう!まぁ!記録ってことで!!!

上記の通りエゴサ文化に免疫ないので、これを矢花黎さんが読んでるかもしれないことが恐怖ではあるのだけど、読んでるのならば、語り合いたいテーマあげとくのでいつかブログのテーマにお願いします。


・死生観について
・時間の流れ、について
・「美」とはなにか
・矢花黎が考える「アイドル」とは。


以上。またいつか。

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※「インターネット」文化がわからない話

ここで自分語りをするつもりもないですが、私は生粋のドルオタというか、ジャニーズと女子ドルで育って、まぁミーハーなので冷やかし程度にKポと地下ドル齧って、ちょっと文化的な方面で言えばオペラとかミュージカルとかクラシックな舞台を見て生きてきて。そんな感じなのでロックとか全然わからないしアニメ漫画ボカロ二次元方面は全くの無知だし、何より「インターネット」という文化に触れて来てない。SNSではなく「インターネット」という言葉をあえて使う意図がよくわからないし、「インターネット」すらイマイチ理解してない。
まず、ブログに現れる「ほんへ」からよくわからなくて「ぴえん」を使う我々を宇宙人だなと思うおじさんみたいな気持ちになるし、ググってもちょっと理解出来なかった。悲しい。
日常生活人並みにインスタしてドルオタする上でTwitterしてジャニーズが進出したからYouTubeも見るようになった(あ、無断転載ドラマがゴロゴロしてた十数年前はつべでドラマあさったりしてた)という感じなので、島TVで一生懸命喋ってくれてることとか、多分理解出来たら面白いんだろうなというネタっぽいことも、面白いんだけど、理解できる人の数百分の一以下も楽しめてないんだろうなと思う、とかいうバックグラウンド込みで一生矢花黎が掲げる「自己像」も理解出来ないと思う。ちょっとさみしい。

あと、オタクが作る誕生日動画とか諸々見てると思うけど、侍のオタクってその「インターネット」の文化を堪能してきたっぽいオタク多くて、それを共有しあっててなんかいいな!!って思うし、わからないから入っていけないし、ちょっと寂しいし、一生友達出来なさそう。

これでも侍担の友達欲しいなと思って生きてるんだけど、こんな「思想強め」な文章書いたらもっと友達なんてできなさそうで、ウケる。
まぁ友達にならなくてもいいから刺さないで欲しい。解釈違いはブロックしてください。