視線

   

 一

 

 帰宅途中の電車の中で、また冷たい視線を感じた。どんな視線かと問われても困るが、兎に角、妙に冷めた視線なのである。季節は寒風が吹き荒れる冬の真っ只中の十二月だと云うのに、その視線を感じると、冷汗が滝のように流れ、心臓がドキドキと早鐘を打つ。

 周囲の人達が、私の顔を見て不審そうな表情をする。どんな表情なのだろう。恐らくは、蒼ざめた顔に違いない。

 それらの視線及び症状が出だしたのは、先月の十一月からであった。なんの前触れもなく、ある日突然やってきた。最初は道を歩いている時、誰かに見られていると感じたことが始まりだった。当初はストーカーかと思ったが、如何せん私は学生時代からモテる容姿をしていなかったし、継ぎ足すなら、女ウケする話術もない。そのため、友達と呼べる者も一人としていなかった。

 社会人になって数年。恋人も居なければ、会社に友人もいない。そんな私に付き纏う者などいやしない。

 これはいよいよ錯覚に違いないと感じたが、そんな精神疾患の兆しもない。睡眠はもちろん快調。人間関係だって、会社、プライベートともに特に問題はないのである。考えられることは何一つとしてない。私は視線や先に述べた症状を無視してみることにした。すると、視線は一つでなくなってきたのである。二つ、三つと視線が増えてきた。それと共に、冷汗や動悸が始まり、仕事はもちろんのこと、休日すら誰かに見られている気がし出したのである。

 時に気持ち悪い視線、時にねちっこい視線、時に暗い視線。ロクなものではない。私は一人暮らしのため、本来であれば、家には私ひとりしかいないのである。

 ある日、試しにトイレに篭ってみることにした。そうすることで、死角を少なくする作戦を取ってみたのである。すると、あろうことか、視線は無くならず、増えてしまった。困ったことになった。その日よりまたも視線が多くなってしまったのである。

 私は段々と身の置き所がなくなり、会社の友人に相談をした。

「なぁ、鍵山君」

「なんだい?江田君」

「君は人の視線に悩まされたことはあるかい?」

「視線?いいや、視線なんて気にしたこともないよ」

「それは羨ましい限りだな」

「どうかしたのかい?」

「いやね、僕は最近、視線に悩まされているんだよ」

「誰の視線だい?」

「それが解れば苦労はないよ」

「どんな視線なんだい?」

「それが上手く伝えられないんだけれど、兎に角、恐ろしいんだよ」

 鍵山君は私の一言に少し考える仕草をして、疲れているのではないかと提言してくれた。

「ところで、江田君。今の日常生活に不満や不安はあるのかい?」

「不満はないけど、不安はあるさ」

 私は応えた。

「どんな不安だい?」

「誰かに見られていると云う言いようのない不安さ」

「嗚呼、その不安か。人間関係とか仕事には何もないんだね?」

 私はまたしても少し考えざるを得なかった。もしかして、私の深層意識の中では、表面に浮かばぬ不安があるかもしれないからである。

 私は何分、そうしていたか分からない。ただ、黙って考え込むしかなかった。

 

 二

 

 鍵山に相談してから、何かが変わったわけではない。相も変わらず視線を感じる。結局は鍵山に相談しても、明確な答えが出たわけではなかった。しかし、幾分、人に話すと云うのは気が楽になるものだと云うのは感じた。

 私はこれまで、人に何かを相談することが皆無であった。要因として、友人が少ないことや気を許せる者がいなかったと云うのが主な理由である。

 さらに言わせてもらえば、実家の家族や兄妹にも相談など米の粒ほどもしたことがない。

 休日、私は唯一の楽しみでもあり、趣味でもある風俗に行くことにした。その種類も色々であり、手で抜いてもらうだけの物やら、口でしてもらえる物、果ては本番行為まで可能な物があるが、私は取り分けて、本番行為が大好きであった。人によっては、それらは汚らしい、不潔などと批判する者もいるだろうが、風俗が「遊郭」なる言葉と共に存在している大昔より、需要が一定層あるのだろう。

 さて、私は休日にその本番行為アリのソープランドたるものにいそいそと足を向けたのであるが、私の場合、これらの行動は行為が楽しいのではなく、そこに行くまでが一種の遠足気分に似た感覚で浮き出す開放感が堪らないのであった。

 電車に揺られて、風俗界隈のある街へ出かける。だが、その道中すらも大勢の視線を感じるのである。その視線は最初に違和感を感じた日より遥かに大勢の視線に変化していた。それでも、楽しさが勝ったのであろうか、いつもより冷汗や動悸が少なく街へ出ることが出来た。

 風俗店と云うのは、固まって存在している。これはどうやら、その昔から続く習慣のモノのようである。そうして、これらの店が点在している地域は極端にラブホテルなるものが多い。これも風俗があるからラブホテルが活性化されていると云えよう。往々にして、風俗店とラブホテルは提携をしていて、割引でホテルが使える。これは言ってみればウィンウィンの関係なのだ。

 私はいつも利用しているソープランドに入りて、女の子をその場で指名した。ソープランドはラブホテルに行かずにその店の中に風呂や何やらが全て整っている。

 そのため、一度店に入ると誰に見られる心配もなく楽しめると云うもの。

 適当な嬢を選びて、プレイに及んだのだが、やはり行為の最中も何もかもに視線を感じる。これでは勃つモノも勃たぬ有様で、女は冷たい顔をしていた。

 この時の視線は覗きの視線であり、薄気味悪いったりゃありゃしない。

「お兄さん抜いてきたの?」

「いや、ここに来るのに抜く意味がないじゃないか」

「でもさ、その割には元気ないじゃん。ムスコも死んだ魚だよ」

「すまないね。どうやら、今日は調子が悪いみたいだ」

「そんなんなら、素人に嫌われるよ。お兄さん彼女は?」

「これが、からっきし駄目なんだよ」

「やっぱりね」

 こんな会話で呆気なく百二十分は終了となった。結果、視線が気になりて、イクことは出来なかった。

 呆気なく、無駄金を使い切ったような腰の重い気分で帰る。帰宅途中も帰宅後も視線が私を貫いていた。

 どうやら、気が狂ってしまったようだ。

 

 三

 

 いよいよ精神の方がおかしくなりて、眠ることさえ出来なくなってきた。目を瞑れば無数の視線を内部からも外部からも感じる。こうなっては、仕事に支障をきたすことになるのは明白だ。

 朝は身体が重く、起き上がるのさえ精一杯。通勤途中は満員電車で座ることも出来ない。仕事場に着いて、デスクに向かうも何も手につかず、刺すような冷たい視線だけが気になる。

「江田君。江田君。江田君!」

 そう耳元で呼ばれて始めて部長き呼ばれたことに気がついた。

「はい、なんでしょうか」

「この書類どうなっているんだね」

「はあ…ちゃんと確認して提出したはずですけど…」

 私は精一杯の言葉を返した。すると、部長の方は怒り心頭の顔色に変化していき、怒鳴りつけてきた。

「何処が確認だ!先方の言ってることと全然違うじゃないか!このプロジェクトは我が社の明暗が掛かった一世一代のプロジェクトなんだぞ!それを…君に任せたのが間違いだった。もういい」

 部長はカンカン照りの太陽よりも沸騰したヤカンよりも怒り心頭な顔をして立ち去って行った。

 周囲からの視線が向けられた。現実の視線の方が何故か気分が楽である。

 そして、そう云う時に限っていつもの嫌な視線は全く感じない。これはもしや、周囲の注目を浴びれば妄想の視線はやって来ないのではないかと思われた。私はそれを実行に移してみようと、昼休み社員食堂で盛大に皿に盛られたカレーライスを落としてみた。ガチャンとした音が社員食堂に響き渡る。周囲の視線が一斉に私に注がれる。やはり、それまであった妄想の視線は消えていた。言い忘れたのだが、この時点で私は既に四六時中感じる視線が妄想であると云う見当はつけていた。

 だが、問題が生じた。と云うのも、いちいち周囲の視線を集める何かをしなければ妄想の視線は消えない。つまり、どちらにしても視線は消えないと云うことである。いくら、妄想の視線より現実の視線の方が良いとはいえ、そうそう周囲の視線を集めるのも気が引けてくる。それに、そんな視線を向けられることを容易く出来るわけもない。迷惑もかかる。現に今、カレーライスを皿ごと落として拭いている食堂のおばちゃんの心が痛い。この方法は諦めるより他にないのであった。

 

 四

 

 私は消えることのない妄想の視線を消すために、最善の努力をしてみることにした。簡単なことである。大学病院の精神科を受診した。

 大学病院など、滅多に行くところではないため、要領を得ない。いや、大学病院だけでなく、私は病院と云うものを極度に毛嫌いしている気配があった。そんな私が病院に行こうと云うのだから、周囲は奇妙な眼で見ていたであろう。

 大学病院なるものは、かなりの患者がひしめき合っている。精神科なぞ特にそうである。悠に三時間は待ったであろうか、漸く呼ばれた。

 診察室に入ると、若い医者が私を出迎えてくれた。幼い顔つきをして、どう考えても医者になりたてであることは、すぐにわかった。

「江田さんですね」

「はい。そうです」

「今日はどういった症状でお越しになられたんですか?」

「いえね、視線が気になるんですよ」

「視線?」

「ええ、視線です」

「もう少し詳しく教えてください」

「はい。あれは先月の十一月の話なのですが、突然道を歩いている時に視線を感じて周囲を見たのですが、誰もいませんでした。それから、毎日視線を感じています」

「なるほど、何か仕事や私生活で悩みなどありませんか?」

「悩みですか…」

「はい。それがストレスの原因となって視線を感じると云うことはありますから」

「ほう、でも、残念ながら特に思い当たることはないんですよ」

「人間関係なんてどうですか?」

「そちらの方も考えたのですが、思い当たる節がないのです」

「お酒は召し上がりますか?」

「いいえ、全く」

「そうですか…」

 若い医者は初めて腕を組んで思案し始めた。よく見ると、眉間に渓谷が出来ている。この医者の方が私より遥かに精神を病んでいるように思えた。

「恐らく、神経が過敏になっているんでしょう」

 思案の結果はそうであった。そう言われるからには、そうであろうと私も反論はしなかった。精神安定剤の薬を出され、大学病院を後にした。病院を出てから、睡眠に関することや視線が増えること、その他言い忘れたことが山の如く存在することに気づいた。

 若い医者はまた、症状が酷くなるようなら来ることを薦めた。私の症状はそれほど珍しくないのだろうか。帰りの電車の中で考えていた。

 視線は絶えず存在していた。

 

 五

 

 数日が経過した。あれ以来、視線は相変わらず消えることなく私を捉え続けている。病院で処方された薬を飲んでみたのだが、あまり効果は見られなかった。今や四六時中、三百六十〇度から視線を感じるようになっていた。生物とは環境に適応して、順応する能力を秘めていると、とある文献で読んだことがあるが、全然順応しない。むしろ気持ち悪くなる一方である。

 鍵山はことあるごとに、体調の方はどうかと心配してくれる。私は嘘でも少し良くなったと答えるようにしていた。何故なら、もう誰にもこの要因は解けようにないからである。

 

 ある平日の午前中、仕事をしている時のことである。女子社員に確認書類を手渡した時に、鋭い視線が私を貫いた。それは文字通り、刃物で身体を貫かれたような痛みを伴った。

「江田さん。大丈夫ですか?」

 私は咄嗟のことに、声もなく女子社員の机に手をついていた。

「ああ、大丈夫だ」

 私は努めて明るい声を出した。

「凄い汗ですよ。それに手も震えてるし…」

 女子社員は、心配顔で私を見ていた。

「いや、心配はないよ。ありがとう」

 そう声をかけて、私はその場を後にして、トイレに駆け込んだ。息は荒く昂り、視界が歪んで見える。今の視線はなんだったのだろう。しかし、考える能力さえ失っているようだ。頭が上手く回らない。本当はもう帰りたいのだが、午後から会議がある。帰るわけにはいかない。

 どれくらいそうしていただろうか、私はやっとの思いでトイレから出て、自分の席へと戻った。

 ふと、窓の外に眼を向けると、女の人が笑ってこちらを見ている。それはどう考えても、窓の外だ。ここは十二回建てのビルの十階だぞ。おかしな現象である。私は眼を擦り、何度も確認をした。数回それを繰り返すと、女は姿を消していた。

 どうなっているのだろう。今のはなんだ。次の瞬間、猛烈な腹痛に襲われ、再びトイレに駆け込んだ。

 下痢である。

 それもドス黒く変色した色をしていた。こんな便をしたことは一度もない。ドス黒くなった便は、先ほど見た女の顔に見えた。それも不気味な笑顔を携えているような…。

 

 午後からの会議は、まるで集中出来なかった。あの女は誰だ。そればかりが頭にこびりついた。

 身に覚えもない。

 ふと、外を眺めてみると、窓の外にまたしても女がいた。

「わっ!何だあれは…」

 私は自然に声が出ていた。

「どうした?」

 一同が私の見た窓の方を眺める。私は自然と椅子から転げ落ちていた。

「江田君。何を馬鹿げたことを言っている。何もないではないか」

「お、女がいます」

「何処にいるんだね?」

「窓の外に…ほら…」

 一同は私の指差した方向を見たが、苦笑いを浮かべた。

「何を言っているんだね。何もいないじゃないか」

「いや、ほら…こちらを見て笑っているじゃないですか」

「江田君!いい加減にしたまえ!何もいないじゃないか」

 私は無理矢理、周囲に立たされて椅子に座らされ、他の人達も椅子に座り会議が再開された。

 しかし、私には確かに見える。あの女が…。

 ニッコリと笑みを浮かべながら、私を包み込むように見つめ続けている。

 私は窓の外を見ないようにしながら、なんとか会議を終えた。だが、全身はビッショリと冷汗で濡れ、思考は完全に止まっていた。

 

 六

 

 その日以来、私の周囲では今までと違う視線が私を刺すようになったのである。幾つもの視線が私を見続ける。女は現れる。仕事中に叫び出すこともしばしばあり、私は会社で孤立した。

 危険人物のレッテルが貼られたのである。

 私はもう一度、大学病院に行くことに決めた。その頃になると、もう朝から全身が怠く、食欲もなく、夜も眠れなくなっていた。

『藁にもすがる思い』とはこのことであろう。

 精神科で待っている間も、絶え間なく視線を感じた。

 軽く二時間は待ったであろうが、漸く呼ばれて診察室に入ると、以前診察してくれた若い医者が、不審なる顔で私を凝視しているではないか。

「先生!あれから視線が益々酷くなって、女の人が窓の外にいたりするんです!」

「まぁまぁ、落ち着いてください」

「これが落ち着いていられますか!」

「あなたは入院した方がいいみたいですね」

 

 私は何故か、即入院の手続きが取られた。しかし、これで視線がなくなるのなら安いものだ。

 会社に入院の旨を伝えると、後日『休職手当』なるものの申請書を出すと言われた。部長は言葉だけの「お大事に」を言うと、簡単に電話を切った。

 これで、私は兼ねて入院の運びとなったのである。

 

 七

 

 精神病棟の閉鎖病棟に入院した私は、入院初日を検査ばかりで過ごした。血液検査、レントゲン、MRIなどエトセトラ…。

 夕方にはヘロヘロになって、病室に戻った。

 その日の晩は、眠れなかった。叫び声や暴れる患者が多く、まるで動物園である。

 私はこんなところでは、より精神がおかしくなると思い、翌日に無断で逃げる計画を立てたが、厚い壁で覆われた病棟は逃げることが出来なかった。

 視線は相変わらず、私を虐め抜かす。窓の外には女が頻繁に現れるようになり、精神は壊れていく思い。朝、昼、晩と決まって薬と点滴が打たれたが、何の作用があるのかはまるで分からない。薬や点滴を打たれると、途端に睡魔が襲ってきて、眠りにつくのだが、夢の中でも視線は止まらない。いや、むしろ、夢の中の方が視線が多い気がする。

 食欲は湧かず、たまに診察に来る医者は外来の時の若い医者である。

「江田さん。どうですか?」

「どうも、こうもありません。眠ると、余計に視線を感じます」

 こっちの必死な訴えにも、笑顔を見せて「大丈夫ですよ。〇〇を何錠増やして」と看護師に指示するばかり。

 教授らしき逞しい髭を蓄えた初老の男が週に一度必ず来る。ここでも薬や点滴の話ばかりで、私には何も分からない。

 教授らしき男は、私に何も話しかけることはなかった

 

 気づけば一ヶ月が経っていた。この頃になると、私は特に何も考えることなく、感じることもなくなっていた。日がな一日ベッドの上で眠るだけの生活。

 天気と空を泳ぐ太陽と月だけを観察する毎日。視線は何処へやら女も何処へやら姿を消してしまった。本来であれば、喜ぶことであろうが、点滴と薬のせいか、喜ぶことすら私には感じる力がなかった。

 食事は徐々に取れるようになったが、味などしない。まるで機械のスイッチを押すが如く義務的に食べて寝るのである。

 

 どれくらい経ったのであろうか。私は閉鎖病棟から開放病棟に移された。ここでは、閉鎖病棟と違い、外出が出来る様になった。しかし、夜七時には病棟が閉まる故、それまでには戻らねばならない。これとて決まりである。閉鎖病棟と開放病棟の一番の違いは、叫び声が少ないことであり、暴れる人も少ないことであった。

 ただ、毎日ぼんやりと歩く患者が多いのが開放病棟である。

 私も最初はあまり歩かなかったものの、いつしか開放病棟の中を魚の群れが同じ方向に向かって進むように歩き始めた。だが、患者の眼は皆、死んだ魚のように「生」がまるでない。格ゆう私も例外ではなかろう。

 入院と云うものは、三ヶ月しかできないらしい。私も三ヶ月が経つと、自然に退院させられた。だが、通院は強制的にすることが決まっている。私は職場に戻った。

 久々の職場は新鮮な空気を放つはずであるが、私には何も感じることが出来ない。部長は退院を喜んでくれ、周囲も喜んでくれたが、そんなことはどうでもよかった。私はいつしか視線を恋しく想うようになっていた。

 しかし、どんなに頑張ろうと視線は来ない。仕事にも身が入らない。誰かが何かを頼みに来ても、何を言っているのか分からないのである。感じる力を失った私は死人のように会社に行き、帰る。これの繰り返しであった。

 だが、仕事は問題なくこなすことが出来た。それも、今までより何倍も…。

 

 八

 

「いかがですかな、彼の調子は?」

「いや、先生のお陰ですよ。今までの何倍も仕事をこなすようになりました」

「それはよかった」

「以前の江田君は、仕事がまるで出来なかったのですが、今では立派な社員となりました」

「彼の視線を感じる能力は長けていて、苦労させられましたが、部長の役に立てたのなら私どもと致しましてもよかったです」

「ところで、江田君にいつ例の薬を入れたのですか?」

「申し訳ございませんが、それは守秘義務なのでお応えできません」

「そうですか、それでは私は仕事がありますので失礼します」

 部長は頭を下げて出て行った。

 

 プルルル…。プルルル…。

「はい。こちら労働省」

「あ、私だが森熊君はいるかい?」

「あ、先生ですか。少々お待ちください」

 愉快なる音楽が耳元で鳴り響く。

「森熊ですが、先生ですか?」

「うん。またひとつ仕事が完了したよ」

「ありがとうございます」

「〇〇株式会社の人間は全員、仕事人間になり得たよ」

「ははは、しかし先生にお願いしてから成果が著しく上がっております」

「そうかね。昨今では、仕事を真面目にしない若者が増えているからね。例の金頼むよ」

「はい。承知しております。国と致しましても困っていたので、先生には感謝しております。ところで先生は一体、どうやって例の薬を打っているんですか?」

「ははは、それはお答えできないよ」

「そうでしたね。では、次は〇〇株式会社をお願いします」

「また、大手だね。大手ばかりがターゲットかい?」

「いえ、そういうわけではないのですが、まずは大手からが基本ですので…」

「わかった」

 そう言って、髭を蓄えた初老の男は電話を切った。

 その時、ドアがノックされた。

「はい。どうぞ」

「失礼致します」

「ああ、君かね。どうだい薬は」

「はっ!出来上がっております」

「そうか、では次は〇〇株式会社の社長に接近して、飲み物に薬を入れたまえ」

「わかりました」

「しかし、我が大学も段々と力を大きくして寄付金が増えるばかりだな」

「そうですね。国を牛耳る作戦は成功しましたね」

「そうだろう。そうだろう。国を制するものは、世界を制するんだ」

 髭を撫でながら、初老の男は高笑いをした。

 初老の男は高笑いの中で、何処かに視線を感じて寒気を覚えた。           

             

             完

            

 

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