人はなぜウンコを投げるのか


どうもこんばんは。
チェコでは夕方あたりでしょうか、ドブリーヴェチェル。
プラハで暮らしている友人から「これからはnoteが熱い」という言葉を真に受け安直にはじめてみました。

特に表に出したい過激な思想や、人の心を揺さぶるような激った文章は書けませんが、その友人が「お前の書いた文章を読みたい」と言ってくれたので今日はじめての記事を書いてみます。

ちなみにその友人にURLを教えて1ヶ月近く経ちますがまだフォローは来ていません。ぼくが送ったURLは船便かなんかで運ばれているんでしょうか。


そんなことはさておき、noteを書くと決めて長らく何のテーマについて触れようかと模索していましたが、人並み以上に何かを頑張ることやひとつの物事について真剣に考え抜くみたいなことと一定の距離を保ち続けてきた人生だったので、出だしからかなりアゲインストではありました。

↑と書いたらまるで今は決まった風ですが、今も決まっていません。というよりも、"何を書くかは特に決めない"ということを決めました。その時に書きたいことを書いていくことになるので、推敲が足りずに誤字衍字があったり、文章としてまとまりが悪いことがあると思いますが、皆さんの心の広さを誇示するチャンスだと思ってぜひご容赦する準備をしてください。

今日はタイトルにある通り、皆さんも一度は疑問に思ったことがあるであろう「人はなぜウンコを投げるのか」ということについてぼくの考えを述べていければと思います。

はじめにこの話をする上でヌメっとぼくの経歴を紹介させてください。ぼくは18歳で高校を卒業して、介護の世界に飛び込みました。おじいちゃんおばあちゃんが好きだったかと言われれば新垣結衣のほうが好きでしたし、日本の介護保険制度を根幹から支えたかったかと言われれば今でもそういう気持ちは芽生えていません。何も考えていませんでした。実家も裕福ではなかったですし、奨学金をこしらえて大学に行きたいと思うほど勉強も好きではなかったので、とりあえず就職するかという安易な気持ちですでに姉夫婦が働いていた特別養護老人ホームに入職することになりました。若気が至りまくっていたぼくは履歴書の趣味の欄に「ボウリング」と書き、それを見た当時の施設長に「最高スコアはいくつですか?」と聞かれ、30分の面接のうち10分はボウリングの話に花が咲き乱れていました。その後無事に内定をもらった時には介護業界の人手不足をひしひしと痛感しました。

そんなぼくは介護なんてもちろん、認知症の人と接したこともありませんでした。はじめて配属された部署は6つあるフロアのうち、認知症が進行して他の入居者の方と共同生活を送れない方が集まる、その施設でも格別にやりがいのあるフロアでした。ぼく以外他の高校の介護コースを卒業した同期3人は一般フロアへ配属だったのであの面接でぼくに何の片鱗を感じたのか今でも疑問に思っています。

いざ仕事が始まると最初の2週間は入居者の方への直接の介護はせず、施設での研修の毎日でした。午前は食事介助や排泄介助の基本などを新人職員同士で練習をして、その日学んだことの中で疑問に思ったことや気づいたことなどをノートに書き、介護課長に提出する。午後は実際にフロアに立ち、先輩職員の仕事を近くで見て入居者の方とお話をしたりするといった流れでしたが、1週間ほど経ったある日の夕方にSさんという入居者さんからどデカい一発をかまされました。
夕食の時間に先輩職員から「Sさんは食事中たまに咽せることがあるから、近くで食事の様子を見守ってて。同じテーブルの人のことも合間で観察しててね。何かあったらSさんには触れずにすぐ知らせてね。」という指示があり、ぼくはSさんが食事を摂るテーブルのそばに椅子を持ってきて座り、テーブルで食事を摂る何人かの入居者さんの様子を見守っていました。ふと目が疲れてきたなと思い、メガネを外してテーブルに置き、指で眉間を押さえて同じテーブルに座る他の入居者さんに目をやり、もう一度メガネを掛けようと思った5秒ぐらいの間にぼくのメガネは目の前から消えていました。一瞬何が起こったかわからなかったのですが、とりあえず5秒前にあったメガネがこの場から消えた事実と、認知症の方たちがたくさんいるフロアで自分の私物から目を離した責任は自分に帰結するだろうということは介護を始めてまだ間もないぼくにも容易に想像ができたので、まずはメガネが紛失したことを周りの職員に悟られないように近くを探すことにしました。いつもよりぼんやり写る視界によく目を凝らしつつ、Sさんの食事の様子も気にかけて探しているとふと違和感を覚えました。

「Sさんのスプーン、色変わってない?」

先ほどまでは銀色のものを使っていたSさんの手元にあるスプーンが、黒色になっている。茂木先生でもアハっとならないレベルの微妙な差異です。Sさんにそーっと近づくと、Sさんはぼくのメガネを使って誤嚥防止でとろみがついた味噌汁をガブガブすくって飲んでいました。

「おっちょちょちょ、すんませんすんません(原文まま)」
とほぼ介護童貞丸出しの声かけで、しかし先輩の指示通りSさんの体には直接触れず、メガネだけをそっとSさんの手から離し、代わりにスプーンを手渡すとSさんは一瞬、生まれて初めて空に飛んでいる鳥を見た時の仔猫のように目を丸くされ、その後すぐに元通り食事を再開されました。

ぼくの記憶のいちばん最初に残っている認知症の方へのケアです。

そんなこんなで介護という仕事にも、認知症というものにも徐々に慣れてきた頃、朝出勤してワーカー室(病院でいうナースステーションのような部屋)に入ろうとすると、ドアの前でNさんという入居者さんにエンカウントしました。
「おはようございます」と挨拶をするとNさんも「おはよう!」と元気よく挨拶をされ、それと同時にモルックのようなモーションでぼくに何かを投げてきました。

そうです。ウンコです。

本来オムツ交換などをする際に利用者のオムツを開けて何かリアクションをすることは、利用者の羞恥心を煽ることから不適切な介護とされています。当たり前ですよね。あなたが人にオムツ交換をしてもらう時を想像してみてください。ウンコが出てるからといって介護者が「うわぁ」なんて言ったら悲しいでしょう?研修でももちろん習いました。不慣れながらも何度もオムツ交換をしてきました。しかしウンコを人に投げたことも投げられたこともなかったぼくは肛門から右手を経由した場合は例外ですか!?と言わんばかりの声量で「ドゥワァ!ウンコ!」と体を捻って避けることしかできませんでした。

Nさんはぼくが避けたことによって床に着弾したウンコとぼくを、交互に見てニコニコしています。ぼくは一旦荷物をワーカー室に置いてウンコの後始末をします。

ー敗れた者たちは床のウンコを拾い、勝者はその者たちの思いを胸に勝ち上がる。ウンコ甲子園、ここに開幕ー (ナレーター 長嶋美奈)

などと考えながら床を拭き、その日の仕事が始まります。しかしその日から2〜3週間に一度、まるで佐々木朗希の登板間隔と同じくらいの頻度でウンコを投げられることがありました。プロが登板するローテーションで2週間に一度は少ないですが、ウンコを投げられるローテーションで2週間に一度は十分多いです。救いなのは160kmも出ないことでしょうか。

こうして10年以上前の出来事を書いている今でも、Nさんがどうしてウンコを投げたのか、その理由はわからないままです。ただ一つ、最近この出来事についてもう一度考えるに至ったきっかけがありました。

ぼくは2年半前に件の老人ホームを退職し、訪問介護の事業所に身を移しました。その中でわりとすぐにうちの事業所と契約をしたAさんという方がいます。Aさんは独居で、身体の不自由はありますが部屋の中の移動や階段の昇り降りなどはできる方で、いつもタバコを吸ってYouTubeでゆっくり系の動画を見ている男性の方です。
つい一ヶ月前に、金曜日の仕事を終えて夜更かしをしていたぼくの携帯にAさんから着信がありました。時刻は午前の2:59です。土日が連休だったこともあり一瞬悩みましたが、もし万が一のことがあってはいけないと思い直し電話を取ると

「あー、もしもし。すんませんけどタバコを買ってきてくれへんかな?あと来週の火曜日までお金ないから立て替えといてほしいんですわー」

とあっけらかんと話すAさん。突然の無茶な要求に呆気に取られましたが、アンガーマネジメントの心得を思い出しながら電話中努めて冷静に振る舞い、介護保険外サービスでならタバコも購入は出来るが時間が時間であること、個人間でお金の立て替えはトラブルに繋がることも考えられるため出来ないことを伝えて電話を切り、ベランダに出てタバコに火をつけ息を吐きます。その日吐いた息は

「ヘルパーはお前の使いっ走りちゃうぞボケェダボコラァッッッ!!!!」

という音がして、夜空に吸い込まれていきました。

訪問介護を始めて確かにADL(日常生活を送る上での身体機能のレベル)は老人ホームに比べて高い人たちばかりだし、認知症もそこまで進行していない方が多いけれども、こういった人間のある種グロテスクな部分を目の当たりにするのは辛いところです。
同時にあの日ぼくにウンコを投げていたNさんのことを思い出しました。登板日も休養日もずっとニコニコしていたNさん。

十字架を担いでゴルゴダの丘を登るイエスに石を投げた人々はきっと上手投げで石に憎しみを込めていたでしょう。
警戒した野良猫に餌を与える子どもはきっと下手投げで優しく地面に食事を差し出すでしょう。

Nさんの投げるウンコはいつも下手投げから放物線を描き、優しく地面に落ちていました。そしてAさんはたぶんウンコを上手投げで投げるな、なんて考えながらタバコの灰はどんどん床に落ちていきました。

Nさんがウンコを投げる理由はわかりませんが、そのウンコに込められた気持ちは憎しみではなく慈しみであることはハッキリわかります。

自分の親が認知症になってほしい人も自分が認知症になってもいいという人もいないと思いますが、認知症ケアを学ぶと必ず「パーソン・センタードケア」という言葉を耳にします。イギリスの心理学者であるトム・キットウッド氏によって提唱されたもので、認知症のある方が地域社会や人々との関わりを持つ「個人」として尊重され、それをご本人が実感できるようなケアの実践を目指すという理念です。
ぼくは先の二人を思い出し、認知症になることが怖いことではない、ウンコを上手投げで投げるような人間になることが怖いのだと思いました。
自分が歳を重ねて認知症になったとしても、それまでに出会った人には慈しみを持って接し、自分の大切な人のことを忘れてしまったとしても、人にウンコを投げる時は下手投げで投げる、そういうものに自分はなりたい。Nさんを思い浮かべてそう思いタバコの火を消しました。

と、はじめての記事でだいぶ長々とした話になりましたが、「おぉ、なんかいい話やん」と思った方は気をつけてください。お金配りのストーリーとかシェアするタイプの人ですか?ウンコは投げないほうがいいですよ。では。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?