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オークランドへの旅

小中学生に、英語を使って英語を教える講師の職に限界を感じて、外国にしばらく滞在したいと考えた。1988年4月のことである。年齢はもう三十路に達していたので、ワーキングホリデイを利用することはできない。

滞在先に英語の通じる小さな国、ニュージーランドを選ぶと、東京の大使館へ出かけて、1年滞在できる観光ヴィザを取得した。往復航空券と1年間の生活費にあてる預金の残高証明書を持って。観光ヴィザでは、当然、仕事はできない。

オークランド空港からバスを使って、市街に入ると、日曜日だというのに、人通りが少ない。この日は、イースター・サンデーにあたり、商店街はすべて閉まっていた。何人も仕事をしてはいけないのであろう。労働者の権利がよく守られていると感じた。

200人を超える教え子たちに送るため、カフェで絵葉書に近況を記しながら、数日をすごしているうちに、店頭においてある無料の新聞を手にすることがあった。ようこそ、ヨットの街、オークランドへ、一般の家庭に入って、紅茶をともに楽しみませんかと記事は伝えている。

観光には興味がないので、この記事に飛びついた。しかるべき団体に電話をすると、ある人が滞在先まで車で迎えに来ると言われた。迎えに来たのは、まだ20歳前後と思われる女性であった。

海岸近くの女性の自宅まで30分ほど走ると、80歳ぐらいの老女がわたしを迎え入れ、運転手の女性はどこかへ消えた。居間で紅茶を飲みながら、世間話をしていると、老女の娘、迎えに来てくれた女性の母と思われる女性が帰ってきた。近所で子どもたちに絵画を教えているという。

自身も日曜画家と思われる、このマッキンタイア夫人が、わたしを近くの海岸へ散歩に誘ってくれた。足元をみると、素足に運動靴を履いている。これまで、靴を履くときは、必ず靴下を履くものと決めつけていたので、これはわたしにとって、新鮮な発見であった。

散歩から帰って、しばらくすると、マッキンタイア氏が仕事から帰ってきた。定年退職を迎え、いまは観光バスの臨時運転手をしているという。せっかくだから、紅茶だけでなく夕飯も食べていきませんかと言われ、もちろん、遠慮する理由はなにもない。

いったい、どんな料理が出されて、食事中どんな話をしたのか全然覚えていない。食事が終わって、わたしの滞在先まで誰が車で送ってくれたのかも、忘れてしまった。住所と氏名を紙に書いてもらい、翌日、御礼状をしたためたのは記憶している。

これは、生涯忘れられない思い出である。さて、ニュージーランドで1年間、どうやって過ごそうかと考えて、中学か高校で日本語教育を手伝うのは、日本の外から新しい目で母語を見つめ直すいい機会だと思った。そこで、日本大使館へ出かけて、ボランティアを引き受ける日本語教師を紹介してもらった。

こうして、温泉の街、ロトルアのポリテクニック、つまり専門学校の日本語教育を手伝うことになった。しばらくすると、木材の街、カウェラウで日本語教師をしている女性が夫の仕事の都合で、オークランドへ引っ越す必要があり、正式の教員が見つかるまで、日本語を中高生に教えてくれないかと頼まれた。

ただし、大学卒の学士号を持ってるならば、と条件つきであったが。大学中退のわたしは、それでも、なんとか観光ヴィザから就労ヴィザに切り替えて、カウェラウ・カレッジで仕事についた。教える生徒の年齢は、12歳ぐらいから17歳ぐらい。5人から10人ほどの小さな、ふたつのクラスであった。

前任者がよほど優秀な教師であったのか、生徒は、ひらがなが全部読めるようになっている。だから、板書もできるだけ、ひらがなだけを使うようにした。英語を使って、英語を教える仕事をしていた経験が、日本語を教えるときにも、役立った。

このあと、ロトルアの女子高でも日本語を教えることになり、帰国したのは、1989年12月であった。南半球にある島国の学校は、12月に学期末を迎え、2ヶ月の夏休みにはいる。サンタクロースは、サーフィンをしながらやって来るのではないか。

日本はまだ、バブル景気に浮かれていたので、翌年の2月には、テクニカル・ライターの仕事につき、4月には放送大学でもう一度、勉強をはじめることにした。当初は、学士号を取ってから、ニュージーランドの教員養成大学へ入る計画を立てていた。

懐の深いマッキンタイア夫妻には、帰国してから、再度、御礼状を送った。この家庭訪問があったので、ニュージーランドの思い出は、いまも、セピア色に輝いている。また、日本語を学習しているキーウィの青少年たちとの出会いは、かけがえのないものである。

70歳ぐらいの婆さん宅に下宿していたときのこと。この人は、何かと用事をつくって、車で外出する。また、友達も多い。ある日、若い医者と看護師のカップルを夕食に招いたことがあった。

このときは、わたしも夕食作りを手伝ったのではないか。驚いたのは、食事が済んで、しばらくすると、4人ともキッチンに集まったことである。つまり、食事中から続く会話を続けたいのであろう。皿を洗う係、布巾で拭く係、食器棚にしまう係に分かれて、おしゃべりを続ける。

英語を話す国では、どこでも同じだと思うが、人を招く第一の目的は、おしゃべりを楽しむためである。料理には、そんなに手間暇をかけない。そのために、普段から、面白い話やジョークを仕込んでいるのではあるまいか。

英国で尊敬される人は、何よりも、ユーモアのある人だと耳にしたことがある。おそらく、オーストラリアとニュージーランドでも、事情は同じであろう。

1988年当時のニュージーランド首相は、デイヴィッド・ロンギであった。わたしの記憶に間違いがなければ、既婚者のロンギはスピーチ・ライターの女性と深い関係になり、首相を辞職してから、この女性と結婚し、赤ん坊の父親となった。

人としての道を踏み外したロンギであるが、ニュージーランドでの評判は悪くない。抜群のユーモア感覚を身に着けていたからではないのか。長いあいだ自宅を留守にしていれば、そばにいる有能な女性になびくのも無理はないと、首相を擁護する人にも会ったことがある。

羊の数8000万頭の国に滞在して、感心したのは、原子力発電所がひとつもないことである。火山の多い地勢を利用して、地熱発電で電力の大部分を賄っている。大地震による原発の大事故に怯える必要はない。

反核政策も徹底していて、原子力を使う戦艦や潜水艦は、どの国であっても自国への寄港を決して認めない。米国のいいなりになっている、どこかの国とは明らかに異なる。広島の原爆資料館へ生徒たちを引率した先生によると、反核政策にひどく感銘を受けたせいなのか、ニュージーランド人なら入場無料である。

米英豪加乳(ニュージーランド)、この5カ国は、深い信頼で結ばれているから、米国に楯突いたとしても平気なものである。むしろ、小国ながら、あっぱれだと感心されるのではないか。

民主主義の基本は、次の文章に要約される。わたしは、あなたの意見には反対だ。けれど、あなたが意見を述べる権利は、わたしが命を賭して守ってあげる。現代は、この基本理念を忘れてしまっている。





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