勝手に表現を変えるな

           


北杜夫の角川文庫版「どくとるマンボウ航海記」に奥野健男は解説を寄せて、次のように記している。

のっけから「あろうことがあるまいことが」とか・・・とか・・・とかいうふざけたような大げさな表現にあうとこれは文学ではないと抵抗を感じる人も少くないだろう。

ところが、眼を皿のようにして、この最初の表現を探しても、本文に見当たらない。なぜか。文庫から削除されてしまったからである。

中央公論社の原版を開くと、確かに第2ページ目に、濁点のない、この副詞句が印刷されている。

筆者の手元にある角川文庫は、昭和59年9月発行の51版、昭和40年の初版から、およそ20年もたつというのに、「あろうことかあるまいことか」と原文のとおり印刷し直すことも、解説文の誤植を訂正することもない。

新潮文庫と中公文庫はどうかと調べてみると、同じように、この「大げさな表現」は抜き取られていた。

筆者をはじめ読者は、こんな「ふざけたような大げさな表現」を楽しみにしているのを文庫の編集者は知らないのだろうか。

ほかにも削除された表現はないかと原版と文庫3冊を比較したところ、最後の1行「我信ず、荒唐無稽なるがゆえに」の直前の文章から「度しがたい」「アホらしき」の語句が消えている。

中公文庫の「ゴマンとある名画のことなど」の章を覗くと、イタリアの港街は、ジェノヴァと記している。原版と他の文庫はゼノア。

この異なる表記は、同じ都市を指しているのか。フロマーの「北イタリア案内」は、次のように記している。

新旧、清濁併せ呑むゼノア(ジェノヴァ)は、港から拡がる丘のように層が厚い。ここは、昔も今も、何よりも港町である。ゼノアは英語、ジェノヴァはイタリア語と判明した。

新潮文庫と中公文庫は、漢字の書き変えもしている。「銓衡」を「選考」に、また「智慧」を「知恵」に改悪している。

キーボードを使って文章を綴る機会が、この国にもかなり普及している以上、「悖徳」を「背徳」へ、「義捐金」を「義援金」へと漢字を書き換えるのは、この際やめようではないか。

ほかにも、「假」を「仮」へ、「藝」を「芸」と無惨にも変形するのはやめて、手書きなら構わないが、印刷では正字を使おうではないか。

学校の習字の時間はこれまでどおり、あっても構わないが、漢字の書き取りテストは、即刻やめたほうがいい。

鉛筆やボールペンなどの筆記具を握るよりも、キーボードやスマートフォンに向かう機会が、圧倒的に多いと思うからである。

戦前には、まだコンピュータゲームもなく、新聞や雑誌はすべて総ルビだったので、小学生さえも何でも読みこなすことができた。

勉強の基本は独学であり、その手段は圧倒的に読書である。また、記憶は若いほど身につきやすい。

とすれば、学校で教える漢字の数に制限を設けることは、こどもの脳を甘やかしていることにならないか。

筆者は無制限の漢字を読めるように指導するのは賛成だが、小学生のうちから英語を教えるのは反対である。

英語は中学生からでも、遅くはない。小学生のうちに漱石や鷗外の文章を味わえるようになるほうが、ずっと大切だと思う。

それに、読書を小学生のうちに習慣にしてしまえば、大人になって、充実した人生を自ら切り開くことが可能になるのではないか。少なくとも、生涯学習を楽しめるようになる。

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