東日本大震災の被災地を歩く―あり観 宮城・海色(みいろ)に染まる街編
はじめに
前回、『あり観!』宮城編では仙台市を中心にお送りしましたが、今回は後半に当たる部分、名取市・岩沼市・多賀城市・松島町の4都市をご紹介します。
なお、タイトルにもありますように、今回は東日本大震災の被災地となった場所の、2024年4月現在の写真が掲載されております。
基本的には災害発生時の写真は載せておりませんが、もし当時の記憶が蘇り、気分が悪くなってしまいそうな場合には、この記事を読むことを控えて頂きますようお願い申し上げます。
仙台空港から名取海岸・岩沼市相野釜公園へ
前回の記事でも触れましたが、『あり観!』宮城編は仙台空港から始まりました。
当時のことを知っている人も覚えているかもしれませんし、知らない方もYouTubeで現在も多数の動画がアップロードされているので、そちらをご参照頂ければと思いますが、この仙台空港にも津波が襲来し、ターミナルビル1階部分と滑走路の殆どが海に浸かってしまいました。
また、2階部分に位置する仙台空港鉄道線も、すぐ先の所で滑走路の下を潜るため、当然津波によって浸水し、長期にわたり運行ができなくなりました。
そして、現在は何事もなかったかのように運用が続いておりますが、ターミナルビル内の柱には、『ここまで津波が到達しました』という注意書きがあり、その津波の恐ろしさを実感できるかもしれません。
私はこの時、すぐには電車で仙台市内に移動はせず、まずは海岸部分に向けて歩いていくことにしました。
仙台空港から東へ向かって歩いて数分程にある南貞山運河を渡ると、この時点で異質な雰囲気が姿を現します。
運河を隔てた山側は建物が多いものの、海側にはほぼ建物らしい建物はほぼなくなり、更地が広がっています。
運河を渡って比較的すぐの場所には、北釜観音寺と下増田神社があります。
下記の写真を見ての通り、どことなく真新しい雰囲気が漂っていますが、これは東日本大震災による津波で建物が押し流されて大破したため、後に再建されたものとなっています。
そこから更に海側へと進んでいくと、いよいよ建物がなくなってしまい、草木が生い茂る更地のみが残されています。
ただ、道路だけ不自然にカーブしているのは、かつての生活道路の名残だったことが窺えます。
既に、この地区で住んでいた人々は、より内陸へと集団移転していますが、わずかに残された防災林に群がる鳥達の鳴き声だけが、ただ響いていました。
そうして、ようやく防波堤まで到着。
見た目からでも結構高いですが、津波はこれ以上の高さで襲い、防波堤すら破壊してしまう程でした。
防波堤の上まで登ると、ようやく砂浜が見えてきて、奥には太平洋を眺めることができます。
当日はやや波が高かった印象ですが、それでも穏やかな雰囲気がありました。
仙台空港からここまで歩いてみてきましたが、本当に何も言えなくなります。かつてあった営みが、たった1回の津波で全てを飲み込み、何もかもが失われる。
震災から13年も経過していますが、未だに当時のまま時間が止まったままのように感じてしまいます。
海岸から離れ、今度は千年希望の丘相野釜公園へとやって来ました。
こちらには、万が一津波が発生した時のための避難丘や地震や津波でお亡くなりになられた慰霊モニュメントがあります。
避難丘は海抜11mの円墳状になっており、万が一津波が来た場合は、こちらへ垂直避難するようになっています。
東日本大震災の津波の高さは、この地点では海抜8m程あったと言われており、それを示す看板も立てられています。
そして、避難丘の目の前には広場があり、そこには慰霊碑が建てられています。
この慰霊碑は津波がこの地に遡上した高さと人と人が支え合うイメージをして作られました。
慰霊碑の左側には犠牲者の氏名が、右側には後世へと伝える碑文があります。特に、前者の方には同じ苗字の方が何名も記されており、一家全滅された世帯もあるかもしれません。
この慰霊碑がある岩沼市では約180名、名取市では約920名の方がお亡くなりになりました。
もし、この地を訪れた際には、モニュメント中央に鐘がありますので、鎮魂の意味を込めて鳴らしましょう。
仙台市内観光から多賀城市へ
相野釜公園を離れ、仙台市内を観光してからは、多賀城市を訪れました。
史跡が多い国府多賀城駅周辺は、仙台駅からJR東北本線で15分程の距離にあります。
折しも、2024年に多賀城は創建1300年を迎える記念すべき年であり、駅構内にもそれを祝うポスターも掲示されています。
多賀城跡がある駅の北側に出ると、ロータリーには多賀城のモニュメントがあり、それに相応しい玄関口のようになっています。
国府多賀城駅から歩いて5分程の距離には浮島神社があり、その名の通り、遠くから見るとまるで浮いているような感じの岩盤の上に社殿があります。
鳥居を潜り階段を上ると、木々に覆われた境内にこぢんまりとした社殿があります。
こちらでは奥塩老翁神と奥塩老女神を祀っており、平安時代には歌枕として詠まれた『浮島』の地と伝えられており、小野小町の私家集にもこの地を詠った和歌があるほか、江戸時代には松尾芭蕉が奥の細道で訪れた場所ともなっています。
多賀城に行く際には、まずこちらから参拝してみてはどうでしょうか?
浮島神社から西へと進んでいくと、多賀城跡が見えてきます。
724年に大野東人により創建され、陸奥国府と鎮守府が置かれた多賀城跡は、先述の通り創建1300年を迎えます。
その記念事業の一貫で復元工事が進められており、2024年4月時点では南門等、まだ見学できない施設がいくつかありました。
南門から道路を一本挟んだ先には、南北大路が続いており、坂道や階段を登った先に政庁跡があります。
政庁跡は、かつて重要な政務や儀式を行う場所で、約900メートル四方という広大な城内にあり、現在では建物があった土台が残るのみですが、復元模型もありますので、大まかな建物の配置を知ることができます。
また、南北大路の途中には一部の施設の復元工事が行われており、こちらについては立ち入ることが可能でした。
ただ、まだ真新しい案内板にはカバーに覆われており、まだ正式にオープンしている訳ではないことが分かります。
復元工事が終わった時には、その姿も分かることでしょう。
多賀城創建1300年祭は2024年11月1日に執り行われます。
当日、行くことができる方は、ぜひ訪れてみてはどうでしょうか?
また、そうでなくても、非常にのどかな場所なので、歴史を感じながらのんびり散策するのも良いかもしれませんね。
続いて、国府多賀城駅のすぐ南側にある東北歴史博物館。
こちらでは、旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示しています。
また、敷地内には石巻市から移築された今野家住宅があり、自由に中を見学することができ、昔ながらの住居の雰囲気を肌で感じることができます。
東北歴史博物館からの遊歩道、または南側の道路から東へ進むと多賀城神社や多賀城廃寺跡もありますので、お時間があれば、ぜひこちらにも足を伸ばしてみましょう。
松島町周辺
日本三景で有名な松島は、この宮城県にあり、仙台駅からJR仙石線で1本で向かうことができます。
松島海岸駅から歩いて5分もかからず、海を望むことができ、有名な多島海を眺めることが可能です。
また、その多島海を巡る遊覧船も発着していますが、概ね16時頃には最終便が出てしまうので、お時間には十分ご注意下さい。
早速あちこち回っても良いのですが、現地に何があるのか分からない場合、まずは松島海岸レストハウスにある観光案内所に行ってみましょう。
見所のスポットや飲食店等の案内もある他、温泉むすめの松島名月の全身パネルの展示も行われています。なお、こちらは16時頃になると片付けられるのでご注意下さい。
松島海岸レストハウスを過ぎて進むと、瑞巌寺五大堂があり、こちらは橋を渡って行くことができます。
五大堂は松島のシンボルの一つで、坂上田村麻呂が東征の時、毘沙門堂を建立し、後に慈覚大師 円仁が五大明王像を安置したことから、五大堂と言われるようになりました。
なお、五大堂は瑞巌寺に属していますが、飛び地のように建物がありり、無料で17時まで拝観が可能なので、ぜひ訪れてみましょう。
更に先へと進んでいくと、島に架かる一際目立つ赤い橋があり、これが福浦橋です。
こちらは福浦島を結ぶ唯一のルートで、維持費の名目もあり、入島代200円が必要となります。なお、島への立ち入り17時までとなっていますが、ライトアップされることあり、昼間とは違う景色を見ることができるそうです。
そして、福浦島の中へと進んでいくと、木々に囲まれた静かな場所で、自然公園として約300種以上の植物が自生しています。また、石畳の道からウッドチップの道まで、起伏に富んだ遊歩道があります。
福浦島には弁天財や貝塚跡もありますが、皆さんは海に浮かぶ島の方が興味津々かなと思いながら、私は忘れずにお参りを…。
島内は1時間程で1周できますが、ゆっくり散策するともっと時間がかかると思いますので、お時間にはゆとりを持って巡ってみましょう。
最後に瑞巌寺へ向かいましたが、この時点で16時半ぐらいになっており、本堂の拝観は諦め、境内だけでも散策することにしました。
瑞巌寺は臨済宗妙心寺派の仏教寺院で、伊達政宗が創建しましたが、元々は慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺が前身とされています。
正面の門をくぐると、境内には1本の長い参道が続いています。
かつてはその両側にシンボルとも言える杉並木がありました。しかし、東日本大震災の津波による塩害で立ち枯れが目立つようになったため、約300本が伐採されてしまい、少し物悲しい雰囲気となってしまいました。
また、瑞巌寺境内には洞窟遺跡群があり、その洞窟内には供養塔等が安置され、少し不思議な空間でした。
これらの参道の先に瑞巌寺本堂へ入るための受付がありますが、残念ながら、既に受付は終了していました。そりゃ、ここまで来るのに大分あちこち巡っていたので、こうなることは想定済みでしたが、また機会があれば訪れてみたいと思います。
そして、東日本大震災の津波はこの瑞巌寺の境内にまで押し寄せ、それを示す看板も設置されています。
松島町は多島海だったこともあり、それが防波堤となる形で幾分津波の威力は抑えられましたが、それでも最大浸水高2.8mを記録し、16名の方がお亡くなりになりました。
こうした景勝地でさえ、大規模災害に遭うということも知っておかなければならないと思いました。
終わりに
今回の宮城県の旅について、一つのテーマとして『東日本大震災の被災地を歩く』こと目的としました。
本来であれば、もっと早く行くべきだったのかもしれませんが、そうこうしているうちに、発生から13年も経過する結果となってしまいました。
けれども、実際に被災地を歩いてみて、復興とは何か?と改めて考えさせられるものだと感じました。
建物やインフラが戻れば、それで大丈夫なのか?
しかし、失ったものは決して還ってはきません。
2024年元日に発生した能登半島地震や南海トラフ地震注意情報も発令された今、常日頃から災害に備えなければならないと思わざるを得ませんでした。
おまけの話
今回の題名『海色に染まる街』について、海色はアニメ『艦これ』の主題歌から取ったものです。
その中の歌詞に『世界の全てが海色に消えても あなたを忘れない』『世界の全てが海色に溶けても 私が探し出す』という所があります。
当初はこちらのどちらかから取ろうと思っていました。しかし、いずれの表現も津波で亡くなった人々がもう還ることはないというネガティブなイメージになってしまいます。
なので、ここでは津波に襲われても(=海色に染まっても)また復興するんだという、私の強い願いが込められています。
あれから13年が経過しても、未だに爪痕が残る街。
だけど、亡くなってしまった人達のためにできること、それは私達が精一杯生きなければならない、そう感じた今回の旅でした。