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私の発言は”優しい”のか?…否。

最近言語化できないモヤモヤを感じたのでメモ。
書いてもまとまらないかもしれないけど。

まず、「優しい」という言葉。
単語としてはプラスなものとして分類されると思うけど、
この言葉は必ずしも誉め言葉にはならないと思う。

むしろ無難な言葉として使われたり、少し皮肉を込めた使い方をされていると思う。
よくある例として、異性のことを聞いたときに「うーん、優しい人?」と答えたとき。
その人に対して特に言うことがないとか、恋愛的に脈なしの時に使われるような感じ。
(優しい人には優しいと言いたいけど、こういう通説が回るようになっているので”優しい”という言葉が軽いと思うようになってしまった、つらい。)


「優しい」という言葉は、
優しくない人がその人が言ったことに対して感想を言うとき、
自分を防御するために使うときが多いな、と思ってしまった。

この間、友人とある議題について自分の意見を言い合った。
その中で私の意見を求められたので発言したところ、
それに対して「やっぱりもちみは優しいよね」とか「優しいからそう思うんだろうな」と言われてしまった。
嫌味も悪気もない言葉だったけど、そのあと空気が詰まるような感じがした。

多分私の意見に対して、共感出来ない部分があったんだと思う。
何か違うな~と感じたけど、相手の意見を否定するのは良くないし、
”優しいと言われる世間の一般論”として私の意見を捉えたんだと感じてしまった。

そのとき「あ、ちょっと防御された(壁作られた)」と感じてしまった。
(好きな友人だからこそ、つらかった)
人と人は100%分かり合えないということは重々承知している。
そのうえでモヤモヤの本質は”優しい”という一言にあると思った。


今回のnoteでは、
「なぜ”優しい”と言われてモヤモヤと感じたのか」
前置きが長くなってしまったが、そこを今回書いていきたい。

多分私は自分のことを”優しい”と思っていないから。


私は感情に寄り添って話すか、理論的に話すかのどちらかといえば
感情に寄り添って話す方だと思う。

私が話すときに一番気にかけていることは、
私の発言で、その人の考えを変えてしまわないこと。
誰しもその意見には、そう思った背景とか、経緯とか、過去とか、
その人自身の色々な理由があると思っているから。

本人が明確に理由が伝えられなかったとしても、
その意見にはその人が現れていると思っているので、
基本的にその考えは変えなくていいというスタンス。
私と考えが全く異なる場合でも、その考えを理解して尊重することは出来る。

ただ倫理的・道徳的にちょっと…とか、考え自体は素敵でも、
公にするときには少しオブラートにした方がいい場合とか、
そういった点で私的に気になったことがあれば、
その人の気づきになるような発言をすることがある。

だから人と話をしているときは、聞き役に徹することが多い。

でも人によってはお互いの考えを言い合って、議論するのが面白いと思う人もいるから、
そういうときは、やんわりと言葉を選びながら発言するようにしている。

特に記憶力がいい人は、私が言ったことを一言一句覚えていることもあるし、
中には残念なことに違うニュアンスで捉えられてしまうこともある。

一度自分の口から発してしまった場合、
それは形として永遠にどこかに残るわけだ…と考えてしまうので、
話すときはすごく慎重になってしまう…。(これは一種の悩み)


そういったこともあって、私が口に出す言葉とか、考えというのは
理想論だったり、綺麗ごとに聞こえることが多い。

だから最終的に”優しい”という印象を持たれるのだと思うのだが…
自分としてはその発言をまとめるまでに、いろんなことを考えているわけで。
心の中では発言と矛盾する意見もたくさん出ているわけで…。

結果として、感情に寄り添ったような内容とか、話し方にはなっているけど、
その結果が出るまでには、頭の中で理論的な意見も飛び交っている。

自分的には全く綺麗でもないし、優しさを全面的に押し付けたいわけでもない。
でもうまく伝えられていないのか、ふんわりと”優しい”で着地してしまう。

これがもどかしい。
確かに人によっては優しいと思われるかもしれないけど、
私にとってこの考え方は優しいとは1ミリも思わない。
優しい・優しくないという話ではなくないかい???


話は変わって、これを書いていて少し気づいたのだけれど、
私の考えで誰かが変わってしまうことが怖いのかもしれない。
自分の考えには根拠のない自信があるのだが、
その反面、その考えと同じ人ばかりが集まって、偏った意見になるのが怖い。
独裁政治のような感じになるのが?こわい?(←うまく言えない)

だから人と話すときは、家族でも近しい友人でも、
心の中にある考えをさらけ出すことが出来ない。
私の考えで、大切な人が変わってしまう、ということが怖いから。

でもnoteには書くことが出来る。
一応自分自身の考えをまとめるために書いているので、
他の人に読まれるということは…一応…考えていない。
(もし目に留まってしまった場合、嫌な気持ちにはなってほしくない。
少し共感したり、共感できるような部分があったら嬉しいとは思う。)

SNSとかブログは、それを読む人がいるけど、
その読む人は、選択権があり、自由だと思う。
うまく言えないけど、対面や電話で直接言われるより、
文字で書かれているものは、一線を引いて考える時間がある。
そこで自分に合う・合わないを判断してもらえると思っているから、
私が考えとか思いを残す場所として、助かっているのかもしれない。
(私の場合はnoteでいろいろな方の記事を読んで癒されている)

ただこれが影響力がある人が書いているものだったり、
読む人が置かれている状況・環境によってはマイナスになることもあるので、
具体的だったり、過激な考えとかは控えた方がいいとも思うんだけどね。
難しいね。


こう考えているうちに
私の頭の中はぐちゃぐちゃだな~とか、捻くれてるのかな~とか思ってしまう。
だからこそ、普段の生活には癒しを求めているのかな、と思う。

心が温まる話とか、嬉しかったこととかの話を聞くと、
そちらに気持ちが引っ張られるので、おのずと自分の暗い部分を忘れられる。

まぁ今ではこういうのを自分の性格だと受け止められているので、
暗いところもいいよね!と思えている。はず。そうよね!!?
後日、このnoteを読み返している自分へ。
アリーヴェデルチ!!

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