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8. ヒバ玉が湯船で踊る雪月夜

高倉健の映画「八甲田山」は軍の悲劇だった。青森のもう一つの山「岩木山」にも悲劇があった。

8.  ヒバ玉が湯船で踊る雪月夜

    八甲田山は、南北二群の複数の山の総称である。八甲田山という単独峰があるわけではない。八つの甲(峰)と田(湿原)という意味をもっていることからも、複数の山であることがわかる。青森にはもう一つ有名な山がある。青森県最高の単独峰、岩木山である。岩木山は津軽富士と呼ばれる円錐形の美しい山で、古くから津軽の人々の信仰の対象であり、毎年旧暦の8月1日「お山参詣」という農作祈願祭が行われていて、皆に愛されている故郷の山である。この山にも悲劇があった。『空と山のあいだに 岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間』という本を、田澤拓也が書いている。1959年(昭和34年)1月に、大館鳳鳴高校の6人が冬の岩木山に登り、吹雪の中で4人が亡くなったという遭難事故である。標高1,672メートルの岩木山への代表的なルートは、岩木山神社参道から登っていくものである。航空写真を見ても参道と岩木山神社拝殿を結ぶ直線の延長上に御神体の岩木山山頂があって、参道が登山道のメインの入り口であることがわかる。約4時間程度の道のりで登り易い山だという。しかし、津軽の冬は厳しい。山頂には至ったものの下山時に道に迷い、折からの吹雪の中で4人の若い命が消えたのである。岩木山の山頂北東には岩木山神社の奥宮があり、登山道は奥宮への参道にもなっている。大館鳳鳴高生遭難の翌年には、山頂近くに鳳鳴ヒュッテという無人の小屋が設けられたそうである。

    江戸時代のおわりころまで、岩木山は丹後の国の人が来ると天気が荒れ、丹後の国の人がいなくなると晴れるという言い伝えがあったらしい。「丹後日和」といわれていたそうである。岩木が「山椒大夫」の安寿と厨子王の故郷であり、岩木山には丹後でひどい目に会った安寿姫が祀られていて、安寿の恨みが基となって丹後の人を嫌ったというのである。福島の磐城にも安寿と厨子王の伝説は伝わっており、そちらのほうが本命ではないかというのが一般的な理解のようである。ただ、安寿が岩木山の神になったという伝承はかなり古いものという話もあり、事実かどうかも含め正確にはわからないというのが正直なところらしい。太宰治は『津軽』のなかで、

  「鴎外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いている。つまりこれは、岩城という文字を、「いわき」と読んだり「いわしろ」と読んだりして、ごちゃまぜになって、とうとう津軽の岩木山がその伝説を引き受けることになったのではないかと思われる。しかし、昔の津軽の人たちは、安寿厨子王が津軽の子供であることを堅く信じ、にっくき山椒大夫を呪うあまりに、丹後の人が入り込めば津軽の天候が悪化するとまで思いつめていたとは、私たち安寿厨子王の同情者にとっては、痛快でないこともないのである。」しかし、「へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。」

と書いて、安寿と厨子王の津軽故郷説には懐疑的である。また、奥羽山脈の支脈である梵珠(ぼんじゅ)山脈のことに触れ、

「この山脈は、全国有数の扁柏(ひば)の産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。林檎(りんご)なんかじゃないんだ。」

 とこれも強く主張する。林檎は明治になってアメリカから伝わり、フランスの剪定方法が導入されて、大正になって全国に知られた歴史の浅いもの。そこへいくとヒバは江戸時代からの産物なのである。まあ、古い伝統を誇ってよい産物という前提条件を付けているから、古い伝統を誇らなければやはり林檎も津軽の産物と言っても良いのであろう。太宰治の林檎に対する見方は、少し厳しすぎるのではないだろうか。林檎の話はさておき、

 「青森県という名もそこから起こったのではないかと思われるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませあって冬もなお青く繁っている。」

 と書いて、津軽藩祖の津軽為信の話から始まり、杉、山毛欅(ぶな)、楢(なら)、桂、橡(とち)などの樹種豊富な青森の樹木のことを語るのだが、秋田杉、木曽檜と並んで日本三大美林の一つに数えられていることもあって、青森のヒバについては、特に言葉に力がこもるのである。

 ヒバはヒノキチオールを豊富に含んで殺菌効果・消臭効果・防虫効果があり、湿気に強くしかも耐久性に富んだ優れた木で、100年、200年かけてゆっくり成長する美しい木でもある。藤原清衡がその勢力範囲だった津軽・下北からヒバを運ばせて造った中尊寺金色堂、昔の青森大営林局庁舎で現在の青森市森林博物館、岩木山神社の山門、津軽富士見湖にかかる鶴の舞橋などに青森ヒバが使われているという。ヒバの豊な香りはアロマ・リラクゼーション効果も発揮し、ヒバの湯玉としてお風呂で使って香りを楽しむこともできる。
   
    青森から届いたヒバの湯玉を浴槽に浮かべて森の香りを楽しんでいるとき、岩木山で亡くなった高校生のうち最も若い一年生の生徒が、雪の中のビバーク(緊急野営)で「風呂に入りたい」と言ったと、『空と山のあいだに』に書かれていたのを思い出した。さぞかし、さぞかし家に帰りたかったのだろう。


●田澤拓也『空と山のあいだに 岩木山遭難・大館鳳鳴高校生の五日間』TBSブリタニカ 1999年・・・・亡くなった高校生の母親は、岩木山について「息子を奪られた山だとか、迷って死んだ山だなどとは、ちっとも思いません。やっぱり津軽の人たちが毎日 “今日はいい天気だな”などと言っては見上げている山なんだもの。本当にいい山ですよね。」と、目にうっすらと涙を浮かべて言ったそうである。せつない話である。
●太宰治『津軽』KADOKAWA    2018年・・・初版は1957年

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