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3.北野坂半ズボンの子駆け上がる

実は、1年半ほど前に「素晴らしき哉、読書尚友」という本を出しました。今回noteで書いているのは、その続編で「続・素晴らしき哉、読書尚友」ともいうべきものです。
第一回は、『春琴抄』から始めて、鳥居信治郎の話につながり、第二回は鳥井信治郎のことが書かれている『琥珀の夢』から、居留地神戸や炭酸水の話。そして今回の第三回は、鳥井信治郎が日本郵船の一等客船に乗った神戸の港ことから書き始め『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』へと進めます。しりとりのように話を繋げるのですが、どう展開していくかはわかりません。もしよろしければ、お付き合いください。

3.  北野坂半ズボンの子駆け上がる
 
神戸の居留地では中国人も多く働いていた。日本と欧米の仲介役として中国人の存在抜きにしては欧米商館とのビジネスは成り立たなかったのである。中国人は居留地の西側に南京町を作ってそこに住居を構えた。今の中華街である。欧米人は山手の北野に住んだのだが、南京町や北野は雑居地と言われ、居留地とは違って日本人も生活をしていた。この混在が神戸の明るくてオープンマインドな気質を産んだのである。いい街である。北野と居留地を結ぶ坂道はトアロードと呼ばれ、欧米人たちの生活道路でもあった。『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』によれば1908年(明治41年)北端の山手にトア・ホテルができてからは、大型客船から上陸した外国人観光客のショッピングの場ともなっていったと言う。そして、
 「後の昭和の初期には、旧ビショップ邸(現「東天閣」)などの個人住宅、神戸ムスリムモスク(1935年築)、英国系のオール・セインツ教会や華僑の学校、外国人向けに骨董品や陶磁器、真珠やシルクを扱う店や輸入食料品店が並ぶ、神戸随一の目抜き通りへと変貌を遂げていく。」
 と、トアロードの賑やかなりし頃を書いている。トア・ホテルの跡地には、今では神戸外国倶楽部が建っているのだが、この倶楽部は外国人交流のサロンとして、1869年(明治2年)発足以来150年の歴史を有し、神戸の近代化を見つめてきた。元町通の東に大丸が1927年(昭和2年)に、西に三越が1928年(昭和3年)に相次いで開店し、さらに1933年(昭和8年)、三宮にそごうができると、神戸駅から元町通り・センター街を通って三宮駅まで続く神戸の商業中心エリアが出来上がっていったのである。それでも、トアロードはいわゆる元町・三宮の商業エリアとは少し違った華やかさを持つ通りとして存在感を持ちつづけた。北野へ続く道というのが価値を持ったのである。
 「典子が営むフランス料理店アヴィニヨンは、神戸の北野坂から山手へもう一段登ったところにあり、右隣に黄健明貿易公司の事務所、左隣に毛皮の輸入販売を営むブラウン商会が並んでいる。」
 宮本輝が『花の降る午後』に書く北野である。美しいとかお洒落なというような情緒的な言葉ではなく、「フランス料理店」「山手へもう一段登ったところ」「黄健明貿易公司」「毛皮の輸入販売」「ブラウン商会」、といった名詞や固有名詞の並びだけで北野をイメージさせる気取らない書き方がいい。

 私が神戸に住み始めたのは、静岡から神戸の高校に転校した時からである。トアロードの坂道にあるTOR ROADDERICATESSENやMAXIM、東天閣など、店名の異国感溢れる響きに心が躍ったのを憶えている。駿府城の城下町静岡は平坦な土地で今川・徳川の歴史を背負った街、神戸は南に海そして北に山がある斜面地で、センスのいいお店や中華街、洋菓子店があって港町独特の雰囲気を持つ街。違う街にきたという印象だった。諏訪山というところに住んでいた。元町駅から山手へ十五分ほど登ったところである。途中に栄光教会という教会があった。尖塔を持つ赤い煉瓦で作られた落ち着いた教会だった。街中の教会。海外の人たちが気持ちよく暮らすということは、仕事や食事・教育だけでなく宗教も含めあらゆる面が満たされていることが大切。この教会を見てそのことに気付かされた。

 行成薫の『スパイの妻』に、1941年(昭和16年)冬の六甲山山頂近く、
 「先の欧州大戦が始まる前には、各国の大使や商人たちが挙こぞって別荘を構えた地域」で「車を降り、草をかき分けて少し進むと、古い建物が見えた。古いというのも憚られる荒廃ぶりで、半ば崩れかけの廃墟である。辛うじて、元が教会であったことを示す十字架が残されている。(中略)祭壇の跡、そして長椅子がいくつか残っているが、それ以外に教会であった頃の名残はほとんどない。」
 という文章がある。欧米人が日本から出て行って使われなくなった教会の描写である。そして、主人公が自分の強い意志を妻に打ち明ける重要な場所なのである。日本の真の復活再生のために身を捧げることを示すメタファーとして荒れ果てた教会が舞台として使われている。

 私が高校生の頃に見た栄光教会は、1922年(大正11年)に現在の地に移転新築され赤煉瓦の教会として神戸の風景に馴染んでいたが、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災で全壊した。そして多くの人たちの努力の結果、2004年(平成16年)に同じデザインで再建された。神戸の明るい風景と歴史的存在感が、教会を復活再生させたのである

●『神戸とコーヒー 港から始まる物語』監修:UCCコーヒー博物館 編:神戸新
 聞総合出版センター 2017年
●宮本輝『花の降る午後 上・下』講談社 2020年・・・宮本輝はあとがきで
 「私の小説の中で、せめて一作ぐらい、登場する主要な人物が、みな幸福になっ
 てしまうものがあってもいいではないかと思い始めたのです。」と書いている。
 神戸に土地勘がある読者は、より幸福になれる本である。
●行成薫『スパイの妻』講談社 2020年・・・テレビドラマ化され、映画にな
 って、ノベライズされたものである。映画は2020年に公開され、神戸の旧グ
 ッゲンハイム邸・旧加藤海運本社ビル・神戸税関などがロケ地となり、第77回
 ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した。監督は神戸出身の黒沢
 清。主演は高橋一生と蒼井優である。

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