見出し画像

28. 蛙の子お揃いでかぶる山高帽

 映画『007 ゴールドフィンガー』でオッドジョブを演じたハロルド坂田にはセリフはなかった。しかし、その姿は目を引き、特に彼がかぶる山高帽は印象的だった。

28.蛙の子お揃いでかぶる山高帽

 中学・高校の頃、本屋へ行くと海外ミステリーやSF小説などがずらりと並ぶ書棚の前を離れられなかった。創元推理文庫やHAYAKAWA MYSTERYがお馴染みだった。映画『007ゴールドフィンガー』の原作はイギリスのイアン・フレミングの同名小説で、翻訳はHAYAKAWA MYSTERYから出ていた。映画のストーリーや登場人物は、ほぼ原作通りである。登場人物の中で印象深いのはやはりオッドジョブである。原作では、ボンドが初めてオッドジョブを見た時の記述を、

「黒ずくめのずんぐりした姿。山高帽子をしっかりとまっすぐかぶっている。」

 と簡潔に記している。映画でオッドジョブを演じたハロルド坂田はイメージ通りの役柄を演じていた。黒の上着に黒とグレーの縞模様のコールパンツと山高帽子である。オッドジョブは怪力の持ち主で、山高帽子には鋭利な刃物が仕込まれていて彼の秘密兵器になっていた。原作では飛行機の窓から外へ飛び出して死んでいくのだが、映画では山高帽子に仕込まれた刃物が災いして、電流を流されてボンドにやられてしまう。バタンと床に倒れる捨て身の演技が評判になった。ハロルド坂田は、1948年のロンドンオリンピック重量挙げの銀メダリストで、その後プロレス入りし『007 ゴールドフィンガー』は映画初出演だった。このオッドジョブ役の怪演が目に止まって、山高帽子は彼のトレードマークになっていった。その後、来日してプロレスのリングに上がったときにも山高帽子をかぶっていたそうである。 

 彼よりも前に山高帽子をトレードマークにした映画俳優は、チャールズ・チャップリンだった。大野裕之の『チャップリン 作品とその生涯』には、格式を重んじるイギリスから自由なアメリカに渡ったチャップリンが、ある映画の撮影の時に映画監督から、なんでもいいから喜劇的な扮装を考えろと言われて、

 「衣装部屋に行く途中、わたしはふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という組み合わせを思いついた。だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかく全てチグハグな対照というのが狙いだった。」

 と考えたと記されている。チャップリンのあのトレードマークがこの時出来上がった。1914年のことである。よく考えてみると、オッドジョブのタキシードと山高帽子は彼の顔つきやプロレスラーというイメージとは異なるし、悪役ではあるがコミカルな感じすら観客に与えるというチグハグな対照が、オッドジョブの印象を強くしていたのである。映画『007 ゴールドフィンガー』が、イギリスとアメリカで公開されたのが、1964年であり、チャップリンが山高帽子をかぶってから丁度50年が経っていた。図らずも50年の年月を経て、ハロルド坂田は映画の中でチャップリンが演じたチグハグを再現したのである。山高帽子は、1850年ごろにイギリスで作られ1800年代後半から1900年代前半にイギリスで流行をしたものなので、1889年にロンドンで生まれたチャップリンからすれば、街中でよく見かけた馴染みの帽子だったのである。チャップリンの頭の中で、すぐにイメージが沸いたのはそのせいなのだろう。チャップリンにとってチグハグは喜劇的要素だったが、イアン・フレミングがオッドジョブに黒ずくめの服と山高帽を身に付けさせたのは、風貌と衣装とのチグハグによる不気味さを狙ってのことだったのではないかと思う。

 山高帽子がイギリスから日本に入ってきたのは明治維新のころで、おりしも1871年(明治4年)に断髪令が布告され、1873年(明治6年)に明治天皇が断髪してから、山高帽は政府高官や財界人から始まって、徐々に一般市民にも広まっていった。文明開化の波によって、服装を含めた生活ぶりが大きく変化し、山高帽子が近代男子の嗜みとしてもて囃され流行したのである。和装に山高帽と革靴というような和洋折衷も多く見られたというから、チグハグ感は否めないものの山高帽は先端をいくスタイルの象徴としていち早く取り入れられたようである。山高帽の輸出国イギリスにとって日本は重要な輸入国であったから、さぞかし「よく似合う」などと煽てたのではなかろうか。明治10年から20年には山高帽だけではなく中折、鳥打などの種類も増え地方でも帽子を被る人が増えた。そして大学の制服制帽、看護婦の制服制帽、軍隊や警察など、帽子のニーズは増大していった。なんとか国産で帽子を作ろうと渋沢栄一らが出資をして1889年(明治22年)にイギリスの技師を招聘して「有限責任日本製帽会社」が設立されたのだが、日本の製造技術はまだ低く、工場の火災もあって日本製帽は1892年(明治25年)に解散してしまう。しかし渋沢栄一は帽子事業をあきらめず、同年「東京帽子株式会社」を設立して事業を引き継いだ。『東京帽子八十五年史』によれば、この頃には製造技術も向上し、

 「従業員一同は渋沢栄一の期待にもとらぬよう努力した結果、製品は一般当業者(原文のまま)の好評を博し販売高も増加し、経常利益は売上高の一〇・七%をえ、株主に対し年八分の利益を配当することができた。」

 とあり、機を見るに敏な渋沢栄一の面目躍如といったところとなったのである。

●「ゴールドフィンガー」 イアン・フレミング 訳:井上一夫 早川書房 1976年
●「チャップリン 作品とその生涯」 大野裕之 中央公論新社 2017年
●「東京帽子八十五年史」 編:平野力 東京帽子株式会社 1978年 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?