第12回 大村憲司

 一音だけで人を釘付けにするギタリストとして、近年ますます評価が高まる大村憲司。ギタリストや編曲家としてアーティストのバックアップを行っていた印象が強いが、1978年から83年にかけてリーダー・アルバムも制作している。そのうちの2枚、『KENJI-SHOCK』(78年)と『春がいっぱい』(81年)はアルファレコードからのリリース。同時期にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のサポートを務めるなどして、メディアにも多く登場し、充実した活動時期だった。

大村憲司『春がいっぱい』(1981年)

  1949年5月5日に兵庫県神戸市に生まれた大村憲司は、69年に山村隆男(b)、マーティン・ウィルウェーバー(ds)とギター・トリオのカウンツ・ジャズ・ロック・バンドを結成。ラリー・コリエルが参加したスティーヴ・マーカスの『Count's Rock Band』から名付けられただけあって、ラリー・コリエルの影響下にあるジャズ・ロック・スタイルのギターをプレイしていた。同年にはヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)に出場してロック部門で優勝している。70年にはサンフランシスコ大学に一年間留学して心理学を学ぶ。現地のミュージシャンの生演奏に触れると共に、デレク&ドミノスの『いとしのレイラ』を徹底的にコピーして、フィルモア・ウェストではアマチュア・ナイトのオーディションに合格してステージに立った。
 帰国後、マーティン・ウィルウェーバーからの紹介で赤い鳥にサポート・ギタリストとして『スタジオ・ライブ』(71年)に参加。72年には正式メンバーとなり『パーティー』(72年)や『美しい星』(72年)などに参加。ギター以外にも、作詞、作曲、編曲、ヴォーカルと貢献した。73年に赤い鳥を脱退して、山村隆男、村上秀一(ds)とカウンツ・ジャズ・ロック・バンドⅡを結成。高水健司(b)が参加してエントランスへと発展していき、五輪真弓のバックを担うこととなる。74年に再び渡米して、3カ月ほどロサンゼルスに滞在。帰国後に、小原礼(b)と知り合い、セッション・バンドのバンブーを結成。バンブーでは、来日中のカルロス・サンタナとセッションを繰り広げ、彼から渡米してツアー参加を請われるほどに気に入られた。同時期にスタジオ・ワークも開始して、ガロ、ハイ・ファイ・セット、オフ・コース(オフコース)などの作品に参加している。
 バンブーが消滅した後にはカミーノを結成。ギターのみならず、ヴォーカリストも兼任してエネルギッシュにライヴを展開した。同時に、深町純の21stセンチュリー・バンドでも活躍。『イントロデューシング深町純』(75年)には、大村憲司を代表するナンバーである「Bamboo Bong」が収録されている。その後も、村上秀一率いるラーフィング・ドッグスや、チャーリー・コーセーとのチャーリー&大村憲司グループなど、多くのセッション・バンドに参加。ミュージシャンの間で名を馳せていった。
 77年には、渡辺香津美、森園勝敏、山岸潤史と『ギター・ワークショップ』をリリース。ギター・フリークの間で大きな話題となり、78年には1stソロ・アルバム『ファーストステップ』を東芝EMIからリリース。ただ、オーディオ・ファン向けのプロユース・シリーズの一枚としてリリースされたため、大きな話題にはならなかった。
 続いて、同年秋にアルファレコードよりリリースされた2ndアルバム『KENJI-SHOCK』こそが、「Bamboo Bongなど楽曲も粒ぞろいで、事実上の1stアルバムとして制作されたのではないだろうか。同年にリリースされた渡辺香津美『マーメイド・ブールヴァード』がジャズからフュージョンへの回答ならば、『KENJI-SHOCK』はロックからフュージョンへの回答ともいえる作品となっている。79年には高橋幸宏からの強い要請を受けてYMOにサポート参加。『X∞増殖』(80年)やYMOの2度目のワールド・ツアー“FROM TOKIO TO TOKYO”に参加した。YMOが『夜のヒットスタジオ』に初出演時でもサポート・メンバーとして出演している。その勢いのまま、81年にアルファレコードより3rdアルバム『春がいっぱい』をリリース。それまでのフュージョン・スタイルの作品から、大村憲司のポップ・センスが発揮され、サウンドの幅を広げた。収録曲の「Maps」はYMOのワールド・ツアーでも取り上げあられた。また、アレンジャーとして手掛けた山下久美子「赤道小町ドキッ」はオリコン最高第2位のヒットを記録。アレンジャーとしての幅も広げた。
 84年にはEPICソニーより4枚目のリーダー・アルバム『外人天国』をリリースするも、自己の音楽性や人生を見直すために同年に神戸に帰郷。85年に復帰後は、大村憲司&ジューク・ジョイント・ブルース・バンド、神戸バンド、ケンポン・バンドなどのほか、沢田研二、柳ジョージ、井上陽水、山下達郎、中森明菜、とんねるず、本田美奈子など、幅広いアーティストのギターを担うも、98年11月18日に49歳の若さで急逝。
 余りにも急な死にその衝撃は大きく、大村憲司が亡くなった夜、しし座流星群が極大だったことから、高中正義は「獅子座流星群」(99年)を、Charは「The night of Leonid」(05年)を作曲した。死後改めて大村憲司のギターは再評価され、2003年にはビクターエンタテインメントより2枚の『ベスト・ライヴ・トラックス』シリーズがリリース。15年からは、ステップス・レコードが受け継ぎ、現在までに全7枚の同シリーズがリリース。22年には、大村憲司バンド『ポンタ・セッション !』がリリースされた。大村憲司が参加した作品を聴き返すたびに、彼の素晴らしいギター・プレイとトーンを再認識。まぐれもなく、日本の音楽史の最重要ギタリストのひとりだろう。

Text:ガモウユウイチ