第9回 吉沢典夫さん(後編)

 全3回に渡ってお送りした、スタジオAのレコーディング・エンジニアの吉沢典夫へのインタビューも今回が最終回となる。最終回は、細野晴臣『はらいそ』(78年)や、YMOのレコーディングのエピソードなどをお聞きする。

画像1

ーーーーー細野晴臣さんの『はらいそ』の印象はいかがですか。

 細野さんの望んだサウンドを作れたかなっていうことは気になっていますね。細野ちゃんは、具体的にどういう音って言ってくるわけじゃないんです。ぼくが想像する、“細野サウンド”を作っていったんだけど。特にベースは振幅を取ってしまうから難しいんですよ。本当はベースは強力に入れたかったんだけど、難しかったですね。行方(洋一。注:東芝EMIのレコーディング・エンジニア&プロデューサー。坂本九、弘田三枝子、ザ・ドリフターズなどを担当。東芝EMI以外の太田裕美、中原理恵なども担当した)さんと以前話したときに言ったんだけど、彼がやった渚ゆう子「京都の恋」(70年)の音には感激しましたね。ベースをあそこまで大胆に入れるのはできなかったもの(注:ベース=江藤勲)。だから、細野さんの求めているサウンドとぼくの求めているサウンドが一致したかどうかはわからない。だけどこだわって作りましたよ。

ーーーーー最後に収録されている「はらいそ」には“足音=ドクター吉沢”とクレジットがありますが。

 あれはぼくの靴の音なんです。みんなでいろいろなものを叩いたんだけど、細野さんの求める音が無いわけ。それで<吉さんの靴脱いでやってみてよ>っていうことになったから自分で叩いたんです。どうやったかは忘れてしまったけど。

画像3

細野晴臣『はらいそ』(1978年発表)

ーーーーー『はらいそ』に続いて、YMOも担当されていますが、最初に聴いたときはどんな印象でしたか。

 こういうデジタルとアナログの融合もあるんだって思いましたね。シンセの世界もこんな音がするんだってびっくりしました。後半は小池(光夫)君にバトンタッチして、『BGM』(81年)からは小池君だったかな。ツアーは全部小池君と一緒にイギリス、フランスと行っていますね。アメリカはエンジニアのユニオンがうるさくて仕事ができなくて。ユニオンに入っていないと仕事をしちゃダメなんです。YMOでフランスに行っている間に日本でレコーディングがあるっていうんで日本に戻ってきて。すぐまた向こうにとんぼ帰り。大変でした。

ーーーーーYMOのレコーディングで苦労した点はありますか。

 やっぱり電気的な雑音が多いんだけど、それに関して文句は言えないわけ。そこは苦労しましたね。

画像5

YMO『Solid State Survivor』 (1979年発表)

ーーーーーライブとスタジオのエンジニアリングでの違いはありますか。

 やっぱりライブはオーディエンスが入るから、全然音が違ってしまう。オーディエンスをどう処理するかっていうことが重要です。観客の雰囲気も音にまぜないといけないしね。でも内容的にはそんなに変わらないと思いますよ。

ーーーーー細野さんは、そのあと音羽のLDKスタジオを中心に使いますね。

 LDKスタジオは村井邦彦さんのお父さんのビルなんです。空いていたから細野さんのためにスタジオを作ってくれるっていう話になって。デザイン設計は奥村(靫正。注:アートディレクター、デザイナー。WORKSHOP MU!!に参加後、はっぴいえんど、細野晴臣など数々のアルバム・デザインを担当。YMOのアートディレクターも担当した)さん。豊島(政実。注:音響設計家。日本ビクター/音響技術研究所で多くのスタジオ設計に携わる。ビクタースタジオ、ワーナーミュージックスタジオ、英・アビーロードスタジオなどのスタジオ設計を担当)さんもからんでいる。機材は、細野さんと話をしたら、その当時はアメリカのサウンドからヨーロッパ(イギリス)・サウンドに移行してきた時代でもあったので、ヨーロッパと日本の機材にすることになるんだけど、当時はアメリカが主力だったから大変だった。コンソールはトライデント(注:イギリスのコンソール・メーカー)、マルチは国産のオタリ(注:テープレコーダー、ミキシング・コンソールなどを製造する国産メーカー)、マスターの2チャンネルはスウェーデンのリリック、スピーカーだけはアメリカ製だったかな。そのあと、音楽の流行もヨーロッパになったんですよ。だから細野さんは先端を行っていたんです。あと、寝泊まりできるように、寝られるようなソファを入れて。

ーーーーースタジオAではいつから24チャンネルになったんですか。

 A&Mスタジオで録音したハイ・ファイ・セット『ダイアリー』(77年)の時です。A&Mスタジオは24チャンネルの仕様になっているんだけど、村井さんから<吉さん、今から24チャンネルのテープ送るから機械調達して>って国際電話が入ってきて。うちは16チャンネルだったから、業者を全部さがしたわけ。そうしたら一社だけ在庫があるっていうところがあって。それがMCI(注:アメリカのコンソール・メーカーで、正式名称はミュージック・センター・インコーポレイテッド)で、レコーダーを急遽納品してもらいました。

ーーーーースタジオがオープンしたときは16チャンネル・レコーダーだったんですね。

 当時は、ビクターが8チャンネル・レコーダーで、ほかは全部4チャンネル・レコーダーだったんですよ。それで、うちは16チャンネル・レコーダー導入でいこうと思ってオーダーしたら、24チャンネル・レコーダーのフル装備が入ってきちゃった。代理店の住友3M社も知らなくて、お金も16チャンネル分しかもらってないから、8チャンネル返してくれって。8枚のチャンネル・カードを返して。だからボードは24チャンネル仕様になっているわけ。だから、ユーミンなんかは16チャンネル・レコーダー録音ですね。

ーーーーー機材に関しては、吉沢さんに一任されていたんですか。

 アルファがすごく信頼してくれていて助かりました。コンソールを買い替えるときとかに稟議書を書くんだけど、全部通してくれた。ダメっていわれたものは無かったね。

ーーーーー最近は高価な機材でなくともパソコンのDTMで簡単に録音ができるようになっていますが、どうお感じでしょう。

 最初はうらやましいと思いましたよ。トラックなんか使い放題でしょう。昔は、どこに何を入れてとか、そういうことも計算しないといけなかった。ビブラートも機械で作るのは大変だったんですよ。アナログのテープレコーダーを巻いて作ったんだけども、それも今だと一発でできちゃうでしょう。でも、今の録音はちょっとハートが欠けている気もしないでもないけどね。きれいにできるんだけど、ムラが無いっていうか。そういうムラも個性ですからね。

ーーーーー村井さんのサウンドの好みっていうのはどういうものだったんですか。

 具体的に言うのは難しいんだけれど、こだわりはすごくありました。編成会議で、マスタリングも全部終わっているのに、「ダメこれ。もう一回やりなおしってくれる」ってこともあったし。素晴らしいと思ったのは、村井さんの会社だから村井さんのサウンドじゃないとだめなわけ。村井さんの直感でダメだと感じたらダメ。カシオペアも最初は、ぼくの担当じゃなかった。村井さんが、「吉さん、これ気にいらないから吉さん担当して」っていわれて。その当時ぼくも3つくらいかかえていたから大変なことになっていた(笑)

画像4

ーーーーーやっぱり、アルファといえば吉沢さんというサウンドになっていますね。

 いいか悪いかは別としてぼくのサウンドになっていますね。アルファでは邦楽録音物はすべてカッティングも立ち合っていますよ。入口から出口まで全部責任を持ってやるよっていう気持ちですね。

ーーーーーアルファの作品には、そういった作品への責任感や愛情が伝わってきますね。

 本当は、ミュージシャンは譜面に書いてある通りやればいいだけだけど、でもそれじゃつまらないっていう村井さんの趣旨だから。そこに、プラスしてアルファのハートがほしいということですね。村井さんのそういう思いを汲んで、みんなでそれに向かって行っていた。ぼくは、稟議書をバンバン切っていたけれど、村井さんはそれを落としてくれたでしょう。いいもの作るには金を惜しまないという思い。それはうれしかったね。それに応えてあげないと、そう思いましたよ。アルファは、最後は大人数になっちゃったけれど、スタート当時は、みんな村井さんに惚れて来たんです。村井さんについていくっていう思いでね。村井さんがアルファを辞めるときはみんな泣いていましたよ。もっと一緒に働きたかったって。ぼくもビクターで仕事をしているより、村井さんについて行ったのは、すごく自分自身でも良かったと思いますよ。

画像2

 3回に渡るインタビューで感じたのは、吉沢典夫の録音への愛情だ。歌手やミュージシャンの演奏を充分に引き出した録音は、第2回目で語られたミュージシャンたちとのコミュニケーション力というものが大きい。そして、譜面上の音楽ではなく、暖かく空気感を感じさせてくれる音響は、それまでの日本の音響界にはあまりなかったサウンドだ。そして、それがアルファの作品群の大きな魅力となり、近年ではDJや海外のコレクターにもアルファのレコードは人気となっている。吉沢典夫が登場していなければ、洋楽ナイズされた音響が日本に根づくにはもう少し時間がかかったことだろう。彼の洗練されたセンスのエンジニアリングを今一度聴きなおして感じていただきたい。

Text:ガモウユウイチ