ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所

第七回「滝沢洋一を探して③」

Text:松永良平

 1978年、アルファミュージック所属の作曲家で、東芝EMIに唯一のソロ・アルバム『レオニズの彼方に』を残した滝沢洋一。その足跡を追って、アルファレコードの音楽ディレクター、有賀恒夫氏に話をうかがったのは、21年の夏のことだった。(→前回記事参照https://note.com/alfamusic1969/n/n20daf30c5815

 それから約一年。長く続くコロナ禍の第六波と第七波の合間に、以前から熱望していた『レオニズの彼方に』の担当ディレクター、粟野敏和氏のインタビューがようやく対面形式で実現した。このインタビューの眼目は2つあった。『レオニズの彼方に』前後の滝沢さんとの関係性や、佐藤博が全面的に関わった制作の経緯。また、アルファ退社後、ゲームメーカーであるコーエーテクモに転職した粟野さんが、のちに滝沢さんがゲーム音楽を手がけた経緯にも関わっているのではないか、つまり、滝沢さんがレコーディング・アーティストとしてシーンに浮上した瞬間だけでなく、その後についても長いスパンで足跡を知っているのではないか、という関心。
 人懐こい笑顔でわれわれに向かい合った粟野さんは「昔のことはほとんど覚えてない」と前置きしつつ、当時のスケジュールを克明に記載した手帳をめくった。その手帳に記されていることはおそらく最低限のビジネス・スケジュールなのだろうが、結果的にそれが記憶のトリガーにもなったようだ。インタビューは滝沢さんについてのみならず、70年代半ばのアルファの社内の様子や人間像を実感のある言葉で伝える証言にもなった。
 というわけで、今回の取材は前後編に分けてお届けする。まずは若き音楽青年であった粟野さんが出会ったアルファでの仕事のあり方と、そのなかでの滝沢さんとの出会いからアルバム制作に至るまでをご本人の言葉でたどってみたい(聞き手は松永良平と都鳥流星)。

粟野敏和氏

──アルファで粟野さんがディレクションされた滝沢洋一さんのアルバム『レオニズの彼方に』について、ずっとリサーチを続けているんです。

 「もう45年くらい前の話ですよね。実は、私が初めてディレクターをやったのが滝沢洋一さんなんです。1976年春に慶應大学を卒業し、それまでのアルバイト扱いから仮入社になったんですが、76年の秋口くらいにはもう滝沢さんの名前が手帳に出てきてます。それが何の作業だったかは書いてないんですが」

──すでに粟野さんはアルファでアルバイトをされていたんですね。

 「それは、私が入部した慶応のライト・ミュージック・ソサエティとの関わりなんです。先輩に村井(邦彦)さん、有賀さん、後藤(順一)さんがいた関係で、私もアルファに出入りするようになりました。たとえばStudio Aがオープンするとき、“スタジオのテスト録音としてバンドを入れて録音したい”という要望がきて、ついては“後輩のバンドにタダで演奏してもらおう”と。それで私たちがやっていたバンドでスタジオに行って機材のテスト用に演奏したりしてました(笑)。

 のちにアルファミュージック(アルファの音楽出版部門)で私の上司になる後藤さんからは、録音した楽曲の宣伝用のミュージックシートを作るというバイトをいただいてました。たとえばユーミンのアルバムが出るときに、音源と録音に使ったコード譜とかをもとに、イントロを書き足したり、歌メロをつけたり、歌詞をつけたりしてちゃんとした譜面にして出版社に持って行き、当時、全盛だった歌本などに載せてもらう。そういう仕事です。それを始めたのが72年くらいですかね。

 私は当時、“けっこうきれいな譜面を書くね”と言われていて、それで後藤さんから重宝がられたんだと思います。そういう流れでアルファミュージックに出入りするようになって、自分の仕事も徐々に広がったという感じです。加橋かつみさんが小さいライブハウスで活動をしたいということで、私にギターで手伝ってほしいと声がかかったこともありました。加橋さんと私のギターで渋谷のジァン・ジァンとかに出たりして、楽しかったですよ。結構かわいがっていただきました」

──その頃のアルファの社内の様子は、学生だった粟野さんにはどう見えていたんでしょう?

 「実は当時のアルファは、みんなスーツ着用だったんですよ。村井さんから、“銀行の人とか来るときに若い連中がTシャツだったら信用されない。みんなスーツでやるんだぞ!”という号令だったんです。それで仕方なく僕もスーツ姿でバイトして、そのまま大学に行って聴講してました(笑)。

 でも、正直言って社内のムードは、よくもわるくも“クラブ活動の延長”みたいな印象でした。私がアルファに入った時点で、絶対的な存在としてプロデューサーの有賀恒夫さんがいらした。有賀さんがそのムードの原石なんです。およそ会社員らしくない(笑)。村井さんからも“有賀は宇宙人だから”って言われてたくらいですから(笑)。

 とにかく有賀さんは空気を読まない。でも、音作りに関してはものすごく優秀。自分で妥協できないことには相手を泣かせてでもこだわってやり通してました。生涯残るものはしっかりやらなきゃいけないという信念ですよね。そういう姿勢を近くで見てましたから、私も影響を受けました。なので、“いい作品を作る”ということに対しては自分たちも真剣に向き合ったつもりです。

滝沢洋一『レオニズの彼方に』(1978年)

──『レオニズの彼方に』を粟野さんがディレクションされたのは77年になってからですが、先ほど76年にはすでに滝沢さんと出会っていた記録があるとおっしゃってましたね。

 「その場面については後藤さんも私もよく覚えていないんですが、おそらくこうじゃなかったのかなと思い当たるフシはあります。RCAレーベル(社名はRVC)にいて西城秀樹さんなどを手掛けていた有名プロデューサーのロビー和田さんが、あの頃はアルファミュージックによく出入りしてたんです。そのときに滝沢さんのデモテープをロビーさんが持ってきたと思うんですよ。“RVCでは出せそうにないんだけど、アルファでどう?”みたいな相談があったんじゃないかな。当時の流れを確認すると、そこくらいしか、滝沢さんのデモを聴く接点がないんです。

 滝沢さんがバックバンドのマジカル・シティー(伊藤広規、青山純、新川博、牧野元昭)と音響ハウスやモウリスタジオ(現モウリアートワークスタジオ)で録音したデモは、出来がすごくよかった。私も“ギルバート・オサリヴァンみたいじゃないか”と思ったくらいです。それで“まずは作家としてアルファミュージックとして契約しよう”という流れになったはずです。滝沢さんとは“作家契約して、アドバンスも月々払います”と。マジカル・シティーとバンドで契約するのは難しいけど、そこは後藤さんが、当時文京区音羽町一丁目に新設した音羽スタジオ(1FはのちのLDKスタジオ、2・3階が音羽スタジオと呼ばれていた)を彼らに使いたいだけ使っていいと許可を出したんです。(伊藤)広規と青山(純)はそこでよく練習してましたよ。

 滝沢さんはすでに手持ちの楽曲も結構ありましたけど、音羽スタジオで新たにデモテープをいっぱい作りました。手帳を見ると、当時の私は、ほぼ音羽に入り浸りでした。私があのスタジオの専任みたいになってたんです。TEACの8チャンネルが入ったので、それを2台つなげて16チャンネルにして、マイク立てからエンジニアリングまで全部自分でやってました。そうやって結構デモを録り溜めていったんです」

──とはいえ、粟野さんの所属は出版部門のアルファミュージックですよね? 音源を管理するほうで、制作のセクションではない。

 「そうなんです。アルファミュージックの本来の業務は、作家の開拓や売り込みなんです。私も入社して半年くらいはそういう仕事をやってたんですが、いつの間にか原盤ディレクターもやるようになっていって。今回、手帳を見返してびっくりしたんですけど、私の最初の3年間の後半2年の仕事はもう、ほぼ原盤ディレクター。よくあれだけ掛け持ちでやってたと思いますよ。若かったからできたのかな。

 滝沢さんだけでなく、クレスト・フォー・シンガーズ、広谷順子も制作はアルファミュージックで、私の担当でした。あとハワイアンの大スター、大橋節夫さんもある時期ご縁があってアルファミュージックで私がアルバムをディレクションすることになったんです。大橋さんとやるにあたって、東芝の有名ディレクター、渋谷森久さんから“大橋さんにはニルソンの『夜のシュミルソン』(1973年。スタンダードソングを名アレンジャー、ゴードン・ジェンキンスのアレンジで歌い大ヒットした)みたいな世界が合うよ”って助言をもらって、ハネケンさん(羽田健太郎)を紹介してくれたんです。それで羽田さんにそのコンセプトでやってもらって、いいアルバムになりました。たいして売れませんでしたけどね(笑)」

──そんな流れのなかで担当されたのが『レオニズの彼方に』だったんですね。

「今回、滝沢さんのアルバムをなぜ作ることになったのか、思い出してみたんです。当時、東芝とアルファの制作部門であるアルファ&アソシエイツ(77年からはアルファレコード)は、年間何枚かずつ作って東芝のカタログにする原盤供給契約をしてたんです。それで、あの年はアーティストが足りないということで、“滝沢さんだったらRVCでの音源聴いてもしっかりしてるし、出せるんじゃないの?”という話になったのではないかと。

 その時点で私と滝沢さんたちでデモテープもしっかり録り溜めていたし、“だったらディレクターも粟野にやらせりゃいいじゃん”みたいな話がアソシエイツでも出たのかなと。本格的にレコーディングを始める前に最初に1週間くらいスタジオ入りしたという記録があるんです。〈最終バス〉のデモ・ヴァージョンなどは、おそらくそのときに録ったんじゃないかな。

 本格的にレコーディングをするにあたっては、村井さんの指示だったと思うんですが、アレンジャーに佐藤博さんを入れようということになりました。私はまだ大学出たてのペーペーなディレクターだったし、その当時、佐藤さんはアルファと契約したばかりだった。まだ何をやってもらうか定まってない状態だったんですが、“まず滝沢さんのアレンジをやってもらおう”となった。私はその指示を受けて滝沢さんと佐藤さんをマッチングさせ、結局その出会いからアルバム本編の方向性が固まっていきました」

(次回に続く)