ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所

第八回「滝沢洋一を探して④」

Text:松永良平

 滝沢洋一が残した幻のシティ・ポップ名盤『レオニズの彼方に』(1978年)制作の経緯を知る当時の担当ディレクター、粟野敏和氏へのインタビュー第2回。前回は粟野さんがアルファに入社する経緯、そして音楽出版部門のアルファミュージック在籍でありながら滝沢さんのディレクションを手がけるに至るまでの流れを聞いた。
 そして話はいよいよ『レオニズの彼方に』の内容面へと向かった(聞き手は松永良平と都鳥流星)。

粟野敏和氏

──粟野さんが本来なら出版部門であるアルファミュージック在籍のまま滝沢洋一さんを制作担当されたという事情を前回お聞きしました。当時のアルファは想像する以上に少数精鋭で運営されていたんですね。

 「少なかったですよ。入社から3年して転籍したアルファ&アソシエイツでも、有賀(恒夫)さんが長男、次男が宮住(俊介)さん、三男が私のようなもの。YMO人気が動き出すとスタッフは増えていくんですけど、それまではその三人兄弟で回してたようなものでした。とにかく、YMOでガラッと変わりました。

 あと、じつは私は、アルファでも特殊な経歴の人間なんです。12年間在籍したんですが、3年ごとに転籍してるんですよ。アルファミュージック、アルファレコード(アルファ&アソシエイツ)、山下達郎さんのいたアルファ・ムーンに出向し、最後にアルファレコードに戻って辞めたんです」

──では、ディレクターとして初めて手掛けられた滝沢洋一さんの『レオニズの彼方に』について、あらためて深掘りをさせてください。アルバムには滝沢さん、粟野さんと並んで共同プロデューサーとして、下河辺晴三さんもクレジットされていますが、下河辺さんの役割は?

 「前回も事情をお話ししたように、アルバムはアルファ&アソシエイツで制作しましたが、リリースは東芝EMIでした。下河辺さんは東芝のアルファ窓口だったので、東芝から出たアルファ作品のすべてにクレジットされてます。しかし、実際の作業はほぼわれわれにおまかせで、ノータッチでした。なので、アルバムの内容については滝沢さんと私、そしてアレンジで参加した佐藤博さんがいろいろアドバイスしてくれましたね。

 佐藤さんはアルバムではアレンジとキーボードのクレジットのみで、プロデュース・クレジットではなかったんですよね。ミュージシャンのセレクションや演奏面には深く関与してたけど、選曲や構成に関してはノータッチだったからでしょうね。ご自身も“プロデューサーでやりたい”という主張も全然なかったです。とにかくアレンジを全部おまかせして専念していただいていたという感じです。

 佐藤さんはスタジオでは割とヘッドアレンジ的なんです。だいたいの進行を決めて録るんだけど、それを一回ご自宅に持って帰ってシンセなどを足す作業をする。最初に決め決めにはしてしまわない感じでした。ブラスのアレンジなどはある程度決まってるんですけど、“こういうふうにやりたいんだけど、ちょっと違うなと思ったら好きに直していいから”と指示してました。リズム面は細かく決めてやってましたけど、ホーンの積み方やサックス・ソロなどはある程度ミュージシャンに任せてましたね」

──マジカル・シティーのメンバー以外にも、豪華な参加ミュージシャンが参加していますが、やはり佐藤さん人脈が多いですよね。

 「大学卒業して1年のペーペーがよくあんなすごい人たちと仕事させてもらったなと今考えてもおそれおおいです。ミュージシャンのご指名は佐藤さんにおんぶに抱っこでした。私はもともとギターを弾いてたから、ギタリストの人選に関しては佐藤さんとも相談しながら声をかけてましたけどね。とにかく、アルファ&アソシエイツ費用で作れるからある程度予算がかけられる、という事情もあったんです。私も先輩の後藤(順一)さんから“粟野、初めてのプロデュースなんだから思い切りやれよ!”と言われた記憶があります(笑)。なので、自分が素晴らしいと思ってるミュージシャンになるべく頼もうという感じでした」

──珍しいところだと、松岡直也さんがピアノで1曲(〈ラスト・ストーリー〉)参加されてますね。

 「あれはダビングでした。佐藤さんが“自分でもラテン風のピアノは弾けるけど、本物じゃない。やっぱりホンマモンに弾いてもらったほうがいいよ!”ということで松岡さんに弾き直してもらったんです。

 ちなみに、このときの私との仕事が縁になったのか、のちにアメリカから帰国した佐藤さんが制作するアルバム『awakening』(1982年)は私がディレクションすることになりました」

──存じてます。その貴重なお話はまた別の機会にあらためてとりあげたいと思ってますので、滝沢さんの話を続けますね。アルバム『レオニズの彼方に』の選曲に関してはどのように決めたんですか?

 「当時はLPが基本だから、片面5曲で両面10曲ですよね。そのなかで、あんまりインストや演奏面の個性が強い曲よりは滝沢さんはソングライターなんだからということで歌ものを重視しました。やはり売れるような曲が書けるんだということをアルバムで表明しなくちゃならない。だからハイ・ファイ・セットがとりあげた〈メモランダム〉とクレスト・フォー・シンガーズのシングルになった〈ラスト・ストーリー〉のセルフカバーも収録しました」

──〈メモランダム〉については、世に発表されているのはなかにし礼さん作詞ですが、小林和子さん作詞の未発表ヴァージョンも存在していますよね。有賀さんにもその経緯をうかがったのですが、ご記憶されていませんでした。直接ディレクションされていた粟野さんならご存知かと思うのですが。

 「あの曲は、もともと小林和子さんの作詞でした。アルファミュージックで彼女と滝沢さんをつないだんです。小林さんが書いた歌詞を滝沢さんに送って、それに曲をつけて持って来たのが〈メモランダム〉。あのメロディ、あの歌詞で作られたデモを聴いて、後藤(順一)さんも私も“これでほぼ完成してるよ”となったんです。有賀さんも非常に気に入ってました。

 ただ、有賀さんは滝沢さんのソロ曲としてではなく、あくまでハイ・ファイ・セットの曲としていいんじゃないかと言われたんです。ハイ・ファイ・セットはちょうどなかにしさんが訳詞を手掛けた〈フィーリング〉(1976年)が大ヒットしていました。詳しくは言えないんですが、大人の事情もあって〈メモランダム〉はなかにしさんの歌詞に差し替えになりました。

 正直言って、有賀さんも私も小林和子さんの歌詞で〈メモランダム〉のイメージができてましたから、ちょっと残念でした。それ以上にがっかりしたのが、滝沢さん。だから、『レオニズの彼方に』で〈メモランダム〉を歌うことについては、滝沢さんは必ずしもウェルカムじゃなかったんですよ。でも、その気持ちはわかるけど、最後はお願いして歌っていただきました。〈メモランダム〉は滝沢さんの作曲のなかでは、それまででいちばんのヒット曲でしたしね。

 小林和子さんには申し訳ないことをしましたが、滝沢さんはその後も彼女と直で連絡を取り合って曲を作っていました。そのうちの2曲〈優しい朝のために〉と〈マリーナ・ハイウェイ〉がアルバムには収録されています」

──アルバムからは〈最終バス〉がシングルとしてリリースされてます。カップリングは〈レオニズの彼方に〉でした。

 「やっぱりあの曲は滝沢さんのいいところが全部出てる曲ですよ。RVC時代に録っていたデモに入っていて、あの段階ですでに素晴らしいメロディセンスを感じてました。こういう優れたメロディメイカーがいるということを知らせるべきだと思って、アルバムのパイロット盤的な意味合いでリリースしたと思います。他にもシングルにできそうなポップな曲はあったけど、メロディメイカーとしてのセンスで、あれに勝る曲はない。私が最初に“日本のギルバート・オサリヴァンだ”と感じた、まさにそのセンスです」

──実は、元マジカル・シティーのみなさんに対談していただいたとき、音羽のスタジオで録った未発表曲で〈日よけ〉という曲が存在し、それが伊藤広規さんのお気に入りだったと語ってらっしゃったんです。

 「今聴くとすごくいい曲なんですよ。当時あれを収録しなかったのは自分の選択ミスかもしれません。滝沢さんに申し訳ないです」

──音羽スタジオ時代に粟野さんが録音されたデモも含めて、作品化されていない曲がまだ滝沢さんにはたくさんあるんですよね。結果的に滝沢さんがアルファで制作したアルバムは『レオニズの彼方に』1枚きりになってしまいました。当時を振り返って、シンガー・ソングライターとしての滝沢洋一にはどんな思いを持たれますか?

 「実は、滝沢さんとは最初から浅からぬ縁があるんです。76年に知り合ってすぐ分かったんですが、卒業した小学校が同じなんです。彼は帰国子女なので、学校にいたのは最後の2年かな。私は学年がひとつ下なんですが、それが分かったら“なんだよ、同じじゃないか”と意気投合して、すぐに兄弟みたいな感じになりました。だから作家とディレクターというより、先輩というか兄貴みたいな関係だったんです。当時の住まいも近かったから、よく彼の家で飲んで話したりしてました。

 滝沢さんは、やっぱり海外生まれの海外育ちが相当感性に染み込んでいたんじゃないかな。ああいうメロディが出てくる人は日本にそうはいないでしょ? 刷り込まれたものが違うんだと思います。家のなかにある家具や飾ってあるものもほとんどアメリカのもの。そういう意味でも彼の家に行くのは面白かったですね」

──アルバムのセールスはなかなか厳しいものがあったのですよね。

 「正直いうと、あんまり動かなかったんじゃないかな。アルファミュージックとしても滝沢さんについては最初からアーティストではなくソングライターとして売り出す気持ちのほうが強かったから。同時期に手掛けた広谷順子はライヴやミニコンサートを結構やってるんですけど、滝沢さんにはそういう計画がもともとなかった。。その気になればマジカル・シティーがいたわけだからライブもできただろうけど、やらなかったですね。当時のアルファにも多くのアーティストを同時にマネジメントする能力がなかったし、滝沢さん自身の向き不向きという面もあった。そこは滝沢さんも納得していたと思います」

──88年にアルファを退社された後は、ゲーム会社のコーエーテクモに転籍されます。のちに同社で滝沢さんが『水滸伝・天命の誓い』(1989年)のゲーム楽曲を担当されますが、それは粟野さんの依頼だったのでしょうか?

 「私があの会社にいたんだから依頼したんだろうと思われるかもしれませんが、大きな誤解です。当時を知る関係者に聞いてみたんですが、あれはコーエーテクモの社長と先輩後輩の関係だった有賀さん経由での依頼だったというのが真相だと思うんです。有賀さんは覚えていらっしゃらないかもしれません。あの頃のゲーム音楽は今とは違って、三和音+メロディで成立するようなシンプルなものでしたから、音楽的な注目もされていなかったですし」

──そうだったんですね。

 「当時は私も新しい仕事に目も振らず邁進していたし、海外にも転勤したりしていましたから、コーエーテクモでお会いした記憶もないんです。滝沢さんが2006年に亡くなったこともだいぶ経ってから知りました。今は、お墓参りに行きたいと思っています。滝沢さんには幻のセカンド・アルバムの予定もあったんですよね? 聴いてみたいですね」

──『BOY』(1982年/ワーナー・パイオニア)ですね。当時、広告も出ていたし、シングル〈Sunday Park〉(1982年)もリリースされたんですが、直前で発売中止になってしまいました。ですが、そのアルバム用の音源を聴いたRCAのディレクター、岡村右さんが、そのうちの1曲を西城秀樹に提供したいということで、アルバム『GENTLE・A MAN』(1984年)の中の一曲として出たんです。その後、滝沢さんは西城さんにアルバム曲〈青になれ〉(1987年/アルバム『PRIVATE LOVERS』収録)も提供しています。その2曲のアレンジをしてるのが元マジカル・シティーの新川博さん。未発表に終わったRCAでのデモを録音したメンバーが、当時ディレクションを担当されていた岡村さんの仕事で再会したんです。

 「ああ、岡村さんもそうやって滝沢さんに恩返ししてくれたんだ。いやー、因果は巡る、ですね(笑)。私にとっても、埋もれていくのが当然と思われていた過去の作品が、今こうして新しく聴いてもらえているというのは、ディレクター冥利につきますよ。2015年に『レオニズの彼方に』のCDが出たときもうれしくて、タワーレコードまで買いに行きましたから」

 そう言って、粟野さんはうれしそうに目を細めた。初めての作品がセールス的には不振でのちに苦笑まじりの話になるというケースは、おそらくこの業界にはたくさんあるだろう。だが、当時は失敗作とされたかもしれないが、こうして永遠の生命を持つ作品として日本のみならず海外からも評価を受けるアルバムを生み出せたという事実を、40年以上経った今、ようやく噛み締めているように見えた。
 シンガー・ソングライターとしての滝沢洋一のディスコグラフィーは、この後RVCでの「マイアミ・ドリーミング / 水平線まで」(1980年)、ワーナー・パイオニアでの「Sunday Park / City Bird(シティー・バード)」(1982年)という2枚のシングルを残して途切れた。未発表に終わった『BOY』については、ぜひとも世に出てほしいと願うが、そこはアルファとは別のヒストリーとなるので、この項はここまでとしたい。いつの日か『BOY』についても制作の経緯も含めたストーリーが明らかにされ、滝沢洋一の残した音楽がよりクッキリとした線になって浮かび上がるはずだ。

 最後に粟野さんが体感していた滝沢洋一さんとの音楽制作の現場を象徴するようなひとことでしめくくることにする。

 「音羽スタジオでデモを録ってるときは楽しかったんですよ! まあ、アオジュン(青山純)、伊藤(広規)は最高のリズムセクションだったし、のちにあれほどの大物になるんだから、楽しくて当たり前ですよね。私みたいなへっぽこエンジニアが適当なマイキングで録っても、ちゃんといい音になるんだもん。ああいう時間を滝沢さんと一緒に過ごせて、アルバムとして残せたのはお互いにすごくハッピーだったなと思います」