第10回 村上“ポンタ”秀一さん

 今年2021年3月9日に享年70歳で急逝した村上 “ポンタ” 秀一。ジャズ、ニューミュージック、歌謡曲、アニソンなど多彩なジャンルで活躍して、参加作品数は1万を超えるともいわれており、音楽ファンなら名前を知らない人はいないであろう。音楽番組『ずっと好きな歌』司会のほか、『新堂本兄弟』、『三宅裕司のいかすバンド天国』などテレビ番組にも多数出演していたことから、一般の視聴者にも名前の知れ渡った数少ないスタジオ・ドラマーだった。

 1951年1月1日に兵庫県西宮市で生まれた村上 “ポンタ” 秀一は、1972年の21歳の時に赤い鳥のオーディションに合格。プロ・デビューするとともに上京。上京して最初の仕事はワイドショー番組『3時のあなた』の生放送での演奏だった。赤い鳥加入後最初にレコーディングしたのは、アルバム『美しい星』(1972年)収録の「みちくさ」で、同アルバム収録の「まつり」でもドラムスを担当した。続く、アルバム『祈り』では、大村憲司(g)とのインプロヴィゼーションによる「大地の怒り」など、ロック・スタイルなドラミングを披露。赤い鳥に新しい音楽性を提示するも1973年6月に脱退した。
 脱退した村上 “ポンタ” 秀一は、大村憲司、山村隆男(b)とともに、カウンツ・ジャズ・ロック・バンドⅡを結成。やがて、バンドはエントランスと改名、高水健司(b)が加入して、五輪真弓のバック・バンドとしての活動を始める。同時に、井上陽水、オフ・コース(オフコース)、かぐや姫などの作品にも携わり、スタジオ・ミュージシャンとしての活動も開始した。アルファ関連では、ガロ『サーカス』(1974年)、赤い鳥『書簡集』(1974年)に参加している。

赤い鳥_書簡集+

赤い鳥『書簡集』(1974年)

 1975年には、井上陽水や五輪真弓のレコーディングで知り合った深町純と21stセンチュリー・バンドを結成。『Introducing Jun Fukamachi』(1975年)や『六喩』(1975年)を制作するも、メンバーが次々と脱退。残された村上 “ポンタ” 秀一と深町純は、『驚異のパーカッション・サウンド!!』(1976年)を制作。ドラムスと鍵盤のデュオという当時としては斬新なスタイルでの作品となった(1曲のみ高水健司が参加)。また、セッション・バンドのバンブーに参加。同バンドは短期間で自然消滅するも、同年にカミーノに発展。レコーディング作品は残さなかったが、クロスオーバー・ブームの先駆けとなり、後年に当時のライヴ音源がCD化された。そのほか、ジャズ・ピアニストの有馬すすむのトリオにも参加。その縁で、彼が編曲を担当した吉田美奈子『MINAKO』(1975年)でドラムスを担当している。同アルバムをきっかけに、『MINAKOⅡ』(1975年)、『フラッパー』(1976年)など、吉田美奈子の作品に参加していくことになる。中でも、『フラッパー』や『トワイライト・ゾーン』(1977年)は、90年代に再評価。近年のシティ・ポップ・ブームにて、海外でも高い人気を誇る作品として知られている。歌モノでは、ハイ・ファイ・セット『スウィング』(1978年)、滝沢洋一『レオニズの彼方に』(1978年)、ベナード・アイグナー『Little Dreamer』(1978年)、サーカス『ニュー・ホライズン』(1979年)、三好鉄生『Tessei 2』 ‎(1982年)、吉野千代乃『モンタージュ』(1988年)など、アルファ関連の作品にも多数参加した。ピンク・レディー「カルメン’77」(1977年)や、山口百恵「プレイバックPart2」(1978年)など、昭和歌謡を代表するヒット曲にも参加している。
 歌モノに参加する一方で、インストゥルメンタルを中心とするバンドにも多数参加。1970年代半ばには、松岡直也(kbd)のライヴに飛び入り出演。それをきっかけとして、彼との交流が始まり、松岡直也&ウィシングの結成に至った。ほか、石田かつのり(kbd)が主宰するゼロ戦、渡辺香津美(g)が主宰するKYLYN、高中正義バンド、カリオカ、ノブ・ケインなどに参加。自身のリーダー・アルバムでは、『Tokyo Fusion Night』(1978年)や『PADANG RUMPUT』(1982年)をリリース。1980年前後に起こったフュージョン・ブームの中心人物のひとりとなった。1994年には自身のジャズ・コンボであるPONTA BOXを結成。2005年までに10枚のオリジナル・アルバムをリリースした(NY PONTA BOXを含む)。
 また、坂田明(s)や小川美潮(vo)などによるWha-ha-haや、仙波清彦(ds、perc)率いる仙波清彦とはにわオールスターズなど、実験的な音楽集団にも参加。ポピュラー音楽からエクスペリメンタルな音楽まで、ジャンルを問わず幅広く活動。デビュー25周年を迎えた1998年には、アルバム『Welcome to My Life』をリリース。 江藤勲、山下洋輔、沢田研二、井上陽水、高中正義、渡辺香津美、大村憲司、高木健司、吉田美奈子、Char、山下達郎、大貫妙子、矢野顕子、桑田佳祐、仙波清彦、EPO、森高千里など、96人ものゲストが参加。まさに、ジャンルを超えた活動歴を感じさせてくれる作品となった。
 2000年代以降にも、村田陽一(tb)や佐山雅弘(kbd)と結成した3 Views Producers、村上“ポンタ”秀一&近藤房之助、中牟礼貞則&村上“ポンタ”秀一オールスターズ、本多俊之(s)や後藤次利(b)と結成したTRIPLE BOND、井上鑑(kbd)や後藤次利らと結成した7 Sevenなど、精力的にバンドを結成。2003年には、活動30周年記念アルバム『MY PLEASURE』をリリース。セッション・ワークでも、椎名林檎、中島美嘉、相川七瀬など、J-POPを代表するアーティストの作品に参加するなど、生涯現役といえる精力的な活動をしていた。1万4000曲を超えるという参加作品の一端は、『俺が叩いた。 ポンタ70年代名盤を語る』(2016年)と『続・俺が叩いた。 ポンタ、80年代名盤を語る』(2018年)の2冊の書籍にまとめられており、国内音楽シーンの礎を築いてきたプライドと音楽へ対する真摯な思いが伝わってくる。近年再評価著しいシティ・ポップも、彼の存在があったからこそ生まれた名盤も多く、今後ますます彼の偉大さを実感することになることだろう。

01俺が叩いた+

02続・俺が叩いた

Text:ガモウユウイチ