平和な世界

 2×××年。また新しい年がやってきた。
いつからだろう。世界はすっかり平和になった。

いじめも差別もなく、性的なものやグロテスクなものも一切見かけることがなくなった。
ずっと昔からそうだった気がするし、つい最近なのかもしれない。
そんなことすら、思い出せないようになった。

朝食の支度をする。
台所の引き出しから杖を出す。
あらゆる道具は10センチほどの杖になった。
ぎゅっと握ると少し指の形がついてしまうくらい柔らかい。

杖を軽く振ると、まな板の上のチーズがぱらりと切れる。
そういえば、"あの時"もこんな朝だった……


―――


いつものように朝食を作ろうと
引き出しから杖を出した時だった。

「母さん、俺……水曜の安楽死ワゴンに乗るよ」

しばらく喋っていない息子の声を久々に聴いた。
こんなに低い声だっただろうか。

「なに言ってるの。ああいうのはね、病気の人や仕事がない人が乗るものなの。あなたが乗るようなものじゃないわ」

「俺病気だよ、苦しいよ、もう嫌なんだ」

「どこが病気なの。顔色もいいじゃない。
 学校ずる休みしたいだけでしょ。」

チーズに杖を振る。いつもと同じ大きさにぱらりと切れた。

「どうしてわかってくれないんだよ!!」

息子が大声をあげた。

「あのね、わかってないのはあんたのほうでしょ。
 お母さんねえ、いま朝ごはん作ってるの。
 あんたのために毎日早起きしてお弁当だって作ってあげてるでしょ。
 洗濯だって掃除だってあんたが当たり前と思ってること全部やってんの。
 近所迷惑になるから大きな声出さないで。」

そう言い終わるが早いか、肩をぐっと掴まれた。
驚いて振り返ると、腕を振り上げている息子がいた。

少しの間、時が止まったようだった。

もうこんな大人の顔になっていたのね。
小さい頃はお父さん似だと思っていたけど、
だんだん私に似て来たわ……


私はとっさに、持っていた杖を振った。

そうするしかなかった。

というより、そうなってしまった。

バラバラバラッ!!!

すると、息子の腹からたくさんのキャンディが出てきた。
透明の薄いセロハンに包まれたフルーツキャンディだ。
息子はその場に倒れこんだ。大量のキャンディに包まれながら。

私はそれからしばらく、ずっとキャンディを眺めていた。
朝日を反射してセロハンがキラキラと光っていた。

その中の一つに手を伸ばす。
赤いセロハンの飴だ。中に入っているのが何味なのかはわからない。
おそるおそる、指を伸ばす。あと、もう少し……

ベチャッ

つかめない。
黄色の包みの飴も、青い包みの飴も、緑の包みの飴も……
一瞬生暖かい感覚があった後、そのまま少しづつ冷たくなっていく。


あ……


これはキャンディじゃない。


これはキャンディじゃない。


これはキャンディじゃない。


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