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「男の修行」を選択! 防衛大学校の門をたたく

もう38年も前のことだ。大学受験1回目、将来やりたいことも見つからず、自己分析では「真面目な性格」だったので、教員か警察官なら向いているのかもと自分の学業レベルを考えて国立大学を受験したが、あっけなく轟沈。その後1年間、いわゆる浪人生活をすることになった。

高校時代、中学から続けていたバレーボール部に所属し、県大会優勝を目指し、自分なりに必死に練習に取り組んだつもりだった。今思えば、全くの努力不足であったのは言うまでもないが、結果は振るわず。勉強はそこそこ。高校3年生の秋、将来の自分の方向性を深く考えることもなく、どこか大学に行けたらいいと考えていた。いわゆる普通、いやボンクラ学生であったと思う。

浪人が決まり予備校に行く。予備校での勉強は「えっ?全然わからない!」であった。塾に行ったこともなく、家で参考書やいわゆる赤本での勉強をしていたが、初めての予備校のテキストは全く理解できなかった。

5月の模試を終えた梅雨時期、無茶苦茶不安になったのを覚えている。ちゃんと大学に行けるのだろうか?大学行けたとして、何を自分はしたいのだと。
そんな折、当時10月頃に防衛大学校の入校試験があることを知った。今現在の受験スケジュールや選考区分はだいぶ当時とは変わって複雑になっているようだ。とにかく腕試しに受験してみよう!これが始まりであった。

防衛大学校受験対策を含めた勉強を開始すると同時に、防衛大学校がどんなところか調べてみた。当時は、男子のみ(平成4年から共学へ)。全寮制で制服の貸与や学生手当てが支給される。将来は、幹部自衛官になる道もある。

「幹部自衛官とは何?」と思いながらも、深くは考えなかった。全寮制で男子のみ。制服があり学生生活は厳しい決まりがある。まるで「魁!!男塾」(当時週刊少年ジャンプに連載の漫画)の世界ではないかと感心し、防衛大学校に入校して生き生きと生活する自分を想像しつつ、勉強に取り組み、ランニングや腕立て、腹筋なども日々のルーティーンとして加えた。受験の目的、目標が定まらなかった自分に一筋の光明が見えた。まさに、やる気スイッチが入ったのである。

10月、初めての自衛隊駐屯地で試験を受けた。筆記試験は散々だった。とにかく書けることを精一杯書いた。面接はとにかく元気に、自分の情熱を面接官にぶつけた。身体検査は自信はあったが、少し恥ずかしかったことを覚えている。

試験の手ごたえは、はっきり言って無かった。でも、やり切った感はあったので次の1月の共通一次試験等への準備に切り替えができた。そんな中でも防衛大学校入校のためのトレーニングは休まず続けた。「もし、防衛大学校に受かったら必ず行こう。」と既に決断していたのだ。受験会場は、全国で実施されたのであるが、私の受験会場には、自分ほど入学に相応しい奴はいないと、根拠のない自信を持っていたのである。

2月、私立大学を受験に行く道中で、防衛大学校に合格したことを知った。この時点で私の受験は終わったが、これはその後続く私の自衛官生活のスタート、初めの一歩となった。

桜舞い散る4月、防衛大学校の門を一人くぐった。男の修行として防衛大学校を選んだからにはと、当時一番厳しいと言われていた空手道部に入部し4年間やり通した。卒業後は、航空自衛隊に入隊して戦闘機操縦者となった。自衛隊では部隊運用を主として勤務しながらも、人事、安全管理や教育にも携わることができた。

令和5年1月、私は定年退職した。部隊では、良き上司、同僚、部下に恵まれ、お蔭様で約33年の自衛官生活を無事に勤めることができたが、防衛大学校の同期には、学生時代だけでなく、自衛隊勤務時代においても常に励まされ、支えられ、導いてもらった。

まさに、一度受験に失敗し、浪人生となってやっと受験や進路について向き合い、真剣に悩んで出した「決断」がその後の人生を決める節目となったのだ。親や友人のアドバイスももらったと思うが、自分の人生を自分で切り開いただと思っている。

もちろん、防衛大学校時代もやめたいと真剣に思ったこともある。自衛官時代も任務や仕事から逃げ出しそうになったこともある。でも、あの「決断」から一つずつタスクをクリアーしていく中で、知識、経験が自分の自信につながっていき、更に大きなタスクをクリアーできたのだと思う。

家族は無論、これまで私に関わってくれたすべての人に感謝したい。


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