又吉直樹『東京百景』(角川文庫 2020年)

又吉直樹の著作はデビュー作の『花火』以来である。
嫌いだからなのかと言われると多分そうではない。むしろ好きなはずである。
なぜこのような奥歯に物が挟まったような言い方になってしまうのか。なんとなく抵抗したい気持ちがあるからだ。
『東京百景』というタイトルは冒頭でも触れられている通り、太宰の「東京八景」がベースになっている。そればかりではなく、彼の文章にはどことなく太宰の陰が感じられる。もちろんいくたび引用されているから、という理由もあろうが。
私もいわゆるブンガク青年の例に漏れず、太宰を愛読した口だ。自分こそは太宰を、「人間失格」の葉蔵の理解者であると恥ずかしげもなく感じたこともある。恥。
そういう人間にとって、同じように太宰を好きだ、と喧伝(あえてこういう負け犬じみた表現を使うが)する人間には同族嫌悪から来る反発があるものである。
「火花」も雑誌に掲載されたときにコソコソと読んだ。頭から否定するつもりで読んだ。実につまらない読書だっとと思う。しかし、その文章に溢れる哀愁、在りし日を思い起こさせる、むず痒いような表現に惹かれていたのも事実だろう。そこで私は蓋をしてしまった。彼の文章に魅入られたくなかったのである。
しかし、文章とは不思議なもので時が経てば経つほど、じんわりとしみてくるものである。もはや、隠すことはできまい。私は数年振りに又吉直樹の文庫本をレジに持っていった。

「褒め言葉のように『変わってるね』とお互いに言い合う人達が多くて、気色悪かった。なぜ変わっていることが誇らしいのか解らなかった。僕にとって『個性』とは余分にある邪魔なものを隠して調節するものであり、少ないものを絞り出したり、無いものを捏造することではなかった。」

「僕は周りを避けるあまり、いつの間にか誰よりも突飛な言動を取ってしまっていたのかもしれない。馬鹿は僕だった。そう思うと、今後どう生きていけば良いか解らなくなった。」(34-35頁)

痛いほど刺さる文章だ。それこそさっき語った「太宰の真の理解者たる私」もこの一種だろう。「変わってるね」と言われたかった。でも「変わってるね」と言い合う人達を遠くから見て馬鹿にしていた。自分も似たようなものだった。むしろもっと劣悪かもしれない。
お笑い芸人らしく、と言うのは的確ではないと思うが、彼の文章にはユーモアとペーソスが滲んでいる。太宰や井伏のように。そして孤独でもある。時に戯画化しすぎて読んでられないくらい臭い文章もある。あるいはシュールな笑いを狙いすぎてぎこちなくなっている部分もある。
それでもやはり、彼の文章は魅力的に思える。同じような人種だからだろう。彼の孤独が私の孤独に重なるのだ。

また、何度か出てきた尾崎放哉という俳諧師。
「自分をなくしてしまつて探して居る」
尾崎の俳句は作者が評するに「孤独と哀愁を詠んだ」ものだ。これに対して、続けて次のように述べる。
「俗世間と離れた場所から放たれた言葉が、なぜか僕には東京の恋文に思えてならない」(127頁)
この尾崎の俳句は「東京百景」というエッセイのシンボルのように思える。つまり「東京百景」もまた、孤独と哀愁を詠んだものでありながら、私には恋文に思えるならないのだ。