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嘘はとびきりの愛なんだよ?

    お久しぶりです、Albertaです。無事に春から大学生になることが出来ました!  応援してくれたFFの皆さんのおかげです! 色々ありますけど大学生活楽しいです笑

    それでは、今回は今話題の推しの子、、、じゃなくてポストトゥルースについて考えを書いていきたいと思います。

ポストトゥルースって?

    はじめに、私のnote読んでくれてる人はだいたい分かると思いますが念の為説明しようと思います。wikiの引用ですが「世論形成において、客観的事実よりも、感情や個人の新年に訴えるものの方が影響力を持状況を指す」らしいです。主に挙げられる例はイギリスのEU離脱選挙やアメリカ大統領選挙でのトランプの勝利です。どちらも虚偽の情報やフェイクニュースが多くの人の投票行為に影響を与えた事例とされます。

    これだけ見るとどうやら悪いことのように聞こえますし、実際あまり良くない事なのでしょう。少しニューアンスを変えてみます。

     ポストトゥルースとは「真実は死んだ 。事実なんて時代遅れ。重要なのは此処の感情であり、自分が世の中をどう思うかだ……そんなニューアンス」これは現代ビジネスに2016年12月1日に森田浩之さんが寄稿した文『流行語大賞に何が選ばれようと、今年の世相を表す言葉は断固コレだ!』https://gendai.media/articles/-/50328?page=2 で書かれた言葉です。政治にある種の理想を求める人はこれに同意すると思います。真実を伝えても都合のいいように改変されて伝わってしまう、SNS上の陰謀論者と対話したことがある人なら上記の森田さんの言葉に首を縦に振ることでしょう。

身の回りのポストトゥルース

    ここからが私の意見になります。先程挙げたのは政治的なポストトゥルースです。ですが実生活において真実を虚構が超えていくことなんて当然のことなんです。

     子供の時嫌いだった食べ物、美味しいって言われていやいや食べていたら食べられるようになっていた。よくあることですがこれは軽い陰謀論を信じていたら陰謀論の沼にハマってしまっていた、と何が違うのでしょうか。

     簡単な思考ゲームをしましょう。部屋にひとりであなたがいて、何でもいいので物を持ってその名前を私に教えてください。簡単でしょ?

    それでは、その物があなたが認知した物であることを証明してください。少し難しくなってしまったでしょうか、あなたが説明したそのスマホ、実はリンゴじゃないんですか? その鉛筆は消しゴムじゃないんですか?

    このように疑わてもあなたには仕方がないですよね。だってそんなの間違う人なんている訳ないじゃないですか。でもあなたが間違ってないってひとりでどう証明するんですか? 監視カメラの映像があったとしてもそれを見たあなたが脳内で映像を改変して認知しているかもしれないじゃないですか。

    もしいきなりあなたの部屋に大量の人が現れて、その物も、監視カメラの映像も、あなたが伝えたものと違うって言ったら信用出来ないのはあなたの認識の方になるんじゃないですか?

    と、私は真実の脆さを証明してみたのですが伝わりましたか? 公約の間違い、ワクチンデマは数字と科学という1番真実が何かを認識しやすいが為に特別ポストトゥルースという枠に入れられていますが私たちは結局視覚の理解に脳内認知のプロセスを入れている時点でポストトゥルース的認知から逃れられないと思うのです。もし、私たちが真実を述べることが出来たとしても科学や数字のような分かりやすい座標がなければそれは奇跡的に正しいだけの代替的事実に他ならないのです。

    私が思うに代替的トゥルースは流通する範囲の狭さが狭いほど真実では無く認識に拠ると思います。

    痛みを痛くないって誤魔化す、これは痛みを認知できるただ1人の個人を本人が騙しているのですから痛くないが他者にとっての真実になるのは容易です。

    過激なサドマゾ的恋愛をする男女、他者が非難しようと本人達にしか感じえない愛を本人達が享受する以上他者性のある真実など無意味です。

    ポストトゥルースとは政治特有の現象ではなく、否定されるべき現象では無く、時に方弁で、時に原動力で、時に愛、文字通り代替機能として働く事実をも指すと思うんです。

終わりに

    ここ数年で取り扱われる認知が現実を超えることへの警戒はその実人間がずっとやってきたことへの、そして自分が自分の意思で選びとることへの脅威の表明です。常に自分が正義でいたい人と何も変わりません。

    陰謀論者がポストトゥルースだから悪なのでは無いのです。私たちが彼らに対してすべきことはポストトゥルース批判なんかじゃなく同じ認知=選択段階に立って私たちが真実を認知するに当たって使った科学、数字のような正当性をより多くの人に認知させることなのです。

    内心の自由というものがあります。なぜ内心であれば果てしなく自由なのか、内心を取り締まる行為に問題があるということが大きいと思いますが私は内心の認知が個人において、それ以外に漏れ出なければ絶対であるからだと思います。

    殆どお気持ちの拙文を最後まで読んでいただきありがとうございました!

    

    
   

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