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自己責任論という善

    今回は世間で叩かれがちな自己責任論について、いくつかの観点から善の側面もあるということをお話していきたいと思います。

自己責任論とは

    ではまず自己責任論とは何か、ということを語っていきましょう。自己責任論とはその名の通り『自分の行動、結果に自分自身が責任を持つ』という論調です。案外当然のことみたいですよね? 自己責任論とは世間で言われている「冷たい」「弱者切り捨て」という意味では無く、本質は自分の事は自分で責任を取ろうという簡単な事なのです。

    つまり批判として挙げられるような『自己責任論を振りかざして弱者に文句を言う人』は自己責任論という訳ではなく単なる『自己責任論を使ってうさを晴らしたい性格が悪い人』なだけで自己責任論者とは言えないのです。いわゆる『ツイフェミ』と呼ばれる人のせいで本来女権拡大、差別解消を求めるフェミニズムへの風評被害が出ている事と似たようなことが自己責任論にも起きていると言えます。

反自己責任論のデメリットと自己責任論におけるメリット

    次に反自己責任論、ここでは共同責任論としましょう。その問題について具体的な例と共に説明し、自己責任論ではそれをどのように解決出来るかという事を伝えたいと思います。

責任ブーメラン

    自己責任論以外の世界では手放した責任は何処に行くのでしょうか? 責任は意識程度で消せるものではありません。必ず何処かに押し付けられます。

    例えを挙げましょう。貧困な人がいたとして自己責任論ではその貧困は本人の責任です。貧困を政治では無く個人の責任とする論は政治学や他の倫理学になりますので正当性の説明はここでは割愛させていただきます。この論調において責任は個人の枠を超えることはありません。

    次に貧困を共同責任論の普遍的な責任の押し付け先、政府に責任があるとしてみましょう。政府に押し付けて一件落着、ではありません。

    政府、という曖昧な概念に責任を置くことは出来ないのです。では政治家の責任でしょうか……違います、政治家は変えることが出来るため絶対的な責任追及先とならないからです。そして責任はその政治家を選んだ個人、更に言えば国民全体に責任は戻ってくるのです。

    何が問題なの? という話ですが最初、自分の貧困への責任という比較的小さな責任だったものが、他人の貧困への責任というより大きな責任となって無差別に降り注ぐのです。本来、政治参画の権利は一人一票で自由です。しかし、必ず誰かが負わなければならない他者の貧困への責任が誰もに与えられたらそれを解決するべく政治参画しか出来なくなり、大きな政府や経済左派的施策の支持が半ば強制されてしまいます。

    ですから他への責任を負わせられるということは自由な政治参画への脅威となりえるのです。

    これが自己責任論なら最初の『責任が個人で収束する』で終わりです。私達は他人への責任を負うことなく自由な考えで政治に望むことが出来ます。また、貧困に苦しむ方も貧困の改善を政府に求めること自体は自由なのでそれに基づく政治参画、民主主義プロセスに基づいてさえいれば政府が改善策を出すことも国民の『自己責任的政治参画』の結果であれば実現しえます。

正しさの暴力

    自己責任論から逃げた先でより大きな責任に押し潰される、という話をしましたがそれが弱者にとっても苦しいものになることを説明します。

    先に述べたように共同責任論の先には他者への責任、そしてその責任はそれ以上たらい回しにする事が出来ないものであるため事実上の利他を求められる論調となります。先程は政治参画を分かりやすい例として挙げましたがそれ以外の側面においてもです。

    私は弱者の弱者性は犯罪でも無い限り許容されるべきだと思います。弱者がポピュリズムの飲み込まれることも悪いとは思いませんし、弱者だからこそ自分を大切に利己的に生きて欲しいです。

    それを共同責任は許しません。弱者からあと一歩進めば抜け出せる、そんな人に他人の分の責任も被せて自分の為の一歩よりも道徳的で利他的な責任を優先させます。弱者を例に道徳的同情を目的に書きましたがつまるところ、家族、恋人、友達以上に誰でもない他者を優先させる暴力性が共同責任にはあるという事です。哲学、政治が好きという以前に私は『個人の優先順位を書き換えること』を許せません。

自由の萎縮

    私はよくツイートで「自由には健全な責任が伴う、不健全な責任は自由への攻撃」という事を言っています。極端な例を示すならナイフを使った殺人が起きた時にナイフを売ったお店が責任を問われてしまえば、ナイフを売りたいと思う人は居なくなると思います。このようにならない為にも責任は常識的で健全なところに留めなければならないのです。

    ですから私は最初に述べた『自己責任論を振るう正確に悪い人』ですら自負という自己責任以上に他人からの自己責任の強制をされるという点では健全な責任では無いと思います。

    そして健全な責任は法の範囲と自負だからこそ健全たり得るもので、倫理学まではみ出た共同責任論によって押し付けられる他者への責任とは不健全で本来負うべきものでは無いと思うのです。

最後に

    誤解されがちな自己責任論ですが、冷笑では無く自由主義の立場から解剖すると他者に冷たい訳では無く、それ以上に個人の独立によって共同という圧力から個人を守っていると言えます。弱者救済が悪だということではありませんが、その結果弱者にまで等しく(弱者救済論者は意図していないと思いますが)重みが伴うということに目を背けてはいけないと思うのです。

    一人でも多くの読者の皆さんに疎外と無関心の中に優しさ、そして公的権力以上に見えにくい権力からの保護があることを認めて頂けるように願って締めくくらせていただきます。








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