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30年前!1994年10月にベトナム・サイゴンにて偶然撮られた写真。広告に使用されたり、作家を引きつけた写真の話。

彼女を通りで見かけたとき、僕はベトナムの虜になっていた!


サイゴンの昼下がり 1999年発行 新潮社


1994年ベトナムは、かつて現在の北朝鮮のような、世界から孤立した国だった。1975年ベトナム戦争でアメリカ勝ったものの、後ろ盾はソ連(現ロシア)だけ、その後、正義の独立戦争を戦ってきたベトナムは、同じインドシナのカンボジアに侵攻、国際世論から非難され、孤立した。
ベトナム戦争時代、サイゴンは物資も豊富で豊かだったという。ところが世界から孤立したとたん貧しくなる。
ある日僕は、兼高かおる「世界の旅」という長寿番組の最終会に、振り返って今、一番行ってみた街はどこか?質問に「サイゴン」と彼女は答えた。今の時代だったらピョンヤンと言うのと同じぐらい違和感があった。ちょうど世界から孤立していた時だった。東洋の真珠と呼ばれ、かつてサイゴンは美し街だったという。意外だった。孤立した時代、兼高は入ることのできないサイゴンと言う町に強烈な郷愁があったのだろう。
60年代中ごろから、僕は、「ベトナム」ということばは、「反戦」ということばとくっついて、何度叫んだろうか。でも僕はベトナムの何も知らなかった。「北爆、枯葉剤、ベトコン、B52 、ファントム、ゲリラ、べとちゃん、ドクちゃん」知っていることと言えばそのぐらい。「天と地と」「地獄の黙示録」「グッドモーニングベトナム」「ディアハンター」まだまだあるけど、どれもアメリカから見たベトナムだ。
僕は何も見ていなかった。
ソ連が崩壊して、ベトナムもドイモイをすすめ、国際社会に復帰を始めた。
1994年アメリカの、ベトナムに対する制裁解除。
ようやく誰でも簡単にベトナムに入れるようになった。
でも僕はさして興味はなかった。アメリカに勝利したものの、ベトナムは破壊しつくされた国。
きっと、兼高かおるのいう、東洋の真珠はまぼろしでしかない。
貧しい国。
それでもベトナム復帰は明るい話題だった。
JALの直行便が飛ぶ前に、取材をしようということになった。
あれだけ叫んだベトナムに行けるのだ。
裏切られても、ベトナムと!叫んだのは青春だ。


1994年の秋、小説家とアートディレクター松原健とクルマ文化雑誌NAVIの編集長鈴木正文、角川の編集者根本氏。角川からは小説家矢作俊彦のベトナム紀行として別冊を作ることになっていた。その別冊に広告をいれるため、ニューヨークバーニーズの高橋みどりさんが衣装をたくさんもちこんだ。香港経由で深夜ホーチミン市、タンソンニャット空港の上空に来た時、下界は真っ暗だった。ちょぼちょぼと街灯がぼんやり見えるくらい。1974年、アシスタントの時、やはり深夜のインドのデリーの上空からの景色と同じだ。飛行場には深夜にかかわらず、人が多くて安心した。念入りなイミグレーションと税関検査。まあ、こんなものだろうと思った。この頃世界中、イミグレーションは待たされるのが当然。2時間近くかかることもある。ベトナムに到着したものの、ほとんど情報者なく、いや僕はまったく予備知識はない。僕の旅のやり方だし、まずは眼で見たい。空気を感じたい。その国のにおいをクンクン嗅ぎまわる。ガイドブックは見ない。もっともガイドブックはその時のベトナムはなかった。覚えていない。あっても最初は見ない。いいとこ開高健のベトナムを読んだだけだ。いや、ずいぶん前にグレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」を読んだことがあった。なにより、破壊尽くされた多サイゴンの街を期待していなかった。深夜12時ぐらいだったろうか、到着した、町の中心街は薄暗く、ひっそりとしていた。自転車、バイク、クルマもまばらだ。工事中のオペラ劇場の裏にQbarという洒落たバーがあった。そこでビールを飲んだ。ホテルのエアコンはが―ガ―とキンキンに冷えていた。朝、何やら騒がしく目が覚めた。まだ暗い。まだ夜だ。時計を見ると5時ぐらいだ。その嬌声に何事かと、外を見ると、ちらほらある街灯の薄明りの広々とした大通りで、サッカーをして居る連中がいる。皆裸足だ。段々と日があけてくると、自転車やバイクがうようよ、もくもく湧いてきた。明るくなるころはかなり賑やかになった。昨日の夜の静寂はなんだったのだろうか。サイゴンの街は、高層のビルこそ皆無だったが、道路も広く、ごみはなくすっきりしいた。中心街のおおどおりだからだろうか。ただどの建物も薄汚く、見たかったマジェスティクホテルは修理工事中だった。活気はあるが、昼間になっても店は2,3割しか開いていない。観光客目当ての店は数件、たいてい偽時計の土産屋だ。後に爆発する雑貨はまだ皆無だった。雑貨ブームは、アジアやフランス人が、現地でデザインしてベトナム人作らせたものだ。後にブームになる。サイゴンを見る限り、貧しさはまったくなかった。こじきもいない。昼間は活気があった。ベンタイ市場は、なにからなにまで豊富で豊に思えた。外国人用の土産はまだ何もない。結局一番でいろいろな塩と胡椒を買った。ミトーが唯一観光ぽかった。レストランで川魚を高温で上げた像の耳はその後、何度食べたろう。ミトーまでは3時間ぐらい、メコンデルタの中心カント―はフェリーを3回ぐらい乗り継ぐので、一日がかりだと言われた。そんな時、一番のコンチネンタルホテル(これも工事中だった)の裏にあるレタイントン通りのサイゴンツーリストのオフィスで、フエ行きのチケットを買っている時に、僕はふらふら、200mm2.8と24mm1.4Ⅱレンズを2台のEOS5につけて何となく撮っていた。そこに白ポイアオザイの女性が、通りを足早に横切ってゆく。僕は200mmを縦位置に構え、ワンショットモードで連続して6コマ撮影した。彼女が先に行くので追いかけたが、路地を曲がると消えてしまった。皆とはぐれるわけにいかないので、深追いはやめた。白日夢のような奇妙な気分だった。ただそれだけのこと、撮ったことも忘れた。特別傑作を撮れたとは少しも思わなかった。フィルムはベルビアだ。感度50、実行感度はもっと低い。超微粒子フィルムで、増感にも強かった。本来はISO50だけれど、最初か増感するつもりで、現像は+2段の増感現像をした。この写真が特別な写真になったのは、NAVIの別冊OPの創刊号のベトナム特集だった。何十ページもある特集の写真のなかで、片面1pageにフルで使用された。ざらっとした紙だったが、それがまたぴったりだった。いい写真だけれど、すげー、というほどじゃなかった。まとまっていると思った。まとまった写真は、元来つまらない。ところが、何度が見ているうちに、この写真は特殊な写真だと気づいてきた。いくら見てもあきないのだ。友だちは、演出したものだと思っていた。僕は、仕事上は、スナップと言うより、人物撮影が多く、ファッションカメラマンだと思われてたので、偶然のスナップだと言うと見な驚いた。しだいに僕はこのアオザイの女性が誰なんだろかと疑問がわいた。アオザイも、普通の着方ではない。コーディネイトもベトナム人らしくない。きっとすぐにわかると思った。有名人だろう。僕はこのアオザイの女性から、ベトナムに特別な思いが生まれた。すべてがベトナムに行くための理屈になった。翌春、神田憲行氏という、ベトナムで学校の先生をしていたノンフィクションの作家を紹介される。次出す本に僕のアオザイの写真を使わせてもらいたいという。僕は断った。その頃はもう何もかもがベトナムに向いていた。ベトナムの写真集を作ろうと思っていた。神田さんとは、一緒にベトナムへ行った。最初のベトナムは、日本語通訳が最悪だったからだ。この頃の通訳は、皆、公安上がりだ。元警察官ということだ。ベトナム旅行するには、社会主義の国では皆、常に監視されている。日本語もへたで、決まりきったガイドしない。はげ山であれは枯葉剤の影響かと聞くと、「そうだ」「アメリカ悪い国」といった調子だ。神田さんは、自分の教え子に売れっ子通訳がいるから、一緒に旅すればいいという。ところがベトナムに来てみると、彼は本当に売れっ子で、丸一日しかついてこれないとのことだった。そこでピンチヒッターとしてやってきたのが、ド・コク・チュン、チュンさんだった。痩せてて目つき悪し、かいわも高圧的、見るからにベトコンだった。彼はハノイ出身、公安出身。実は公安は皆カメラが好きだ。仕事でも使うのだろう、僕の持っておるカメラに興味を示した。何しろ2回目のベトナムに、僕は、35mmはもちろん、6x6と45(しのご)までを持った、アメリカ軍と同じフル装備だったのだ。なによりインテリだった。漢字も読め、父親はフランスを話、北ベトナムの軍医でありと母親は看護師だった。実はおぼっちゃまだ。彼の話は話すとながくなるので、ここでおしまい。彼と知り合うことで、僕のベトナムへの理解は深まり、ロバート・キャパの取材では、彼の人脈でかなり解明できた。1999年「サイゴンの昼下がり」の写文集がでて、アオザイの写真は一躍有名になった。当初ベトナムの写真集を出そうと思っていたが、難航した。すると新潮社の宮本編集長が、このアオザイの写真を表紙にして、文章をかけるなら出版してくれると言った。なら書きましょう。それまでまとまった文章を書くことはなかったが、なんだかすぐに書けるような気がした。そして書き、出版された。すぐ初版は売れたが、そのシリーズはどれも赤字で僕のは売れたけれど、すぐには増刷されなかった。1年ほどたち、結局増刷したが、値段も2700円から3000円になり、売り時を失ったようだ。あのまま増刷したらもっと話題になったかもしれない。

 この本を見て、この写真に引き付けられたのが、ロバートキャパの伝記を翻訳した沢木耕太郎だった。サイゴン行きの一つは、1975年サイゴン陥落の時、そこに立ち会った毎日新聞の記者、近藤紘一との因縁であり、もうひとつは「サイゴンの昼下がり」の表紙の写真だと、講談社刊「一号線を北上せよ」に書いてあった。ただサイゴンに行くと、アオザイ姿のおしゃれな女性はどこにもいないと言う。僕が撮ったのが1994年、沢木が訪れたのが2000年あたま。この間の10年は無限に近い。全然違う国になっている。いやもっと早く行ったとしても、この女性に会うことできない。なぜならば1995年から行くたびに、この写真をベトナム人に見せたけれど、だれも知らなかった。1995年3回目のベトナム撮影は、週刊文春の巻頭、ベトナム美女図鑑で、サイゴン、ブンタウ、ハノイと回り、有名歌手、女優、有名モデル、ミスコン優勝者を撮り、そのたびにアオザイの写真を見せ、この女性を知っているかを尋ね廻ったが、だれも知らなかった。結論はベトナムに住んでいるベトナム人ではないということだった。ベトナムは1954年に北部が社会主義化し、1975年に南も社会主義化された。1954年はキリスト教徒は大挙南に逃げてきた。海外に移住するひともいた。1975年もそうだ。1994年になりアメリカの制裁が解除され、この数年前から海外で成功したベトナム人が再び戻ってきている。そうい華僑ならぬ、越僑、ベトQの子供じゃないかと言われたことがあった。だからちょっとアレンジの違うアオザイで、しかも誰もしらないということなのだろう。沢木は「一号線を北上せよ」でアオザイの女性が見つからなかったが、やっと見つけた。メコンデルタの小舟の上に、美しいアオザイ女性がすっと立っていたという。やっと見つけたと、思ったら、ビデオ撮影の最中だったという。そこで筆がすべり、もしかして横木もそうい何かの瞬間を撮ったのではないだろうかとあて推量する。失礼な話だ。僕はきちんとキャプションに偶然撮ったものだと書いている。演出などしていない。その後僕はベトナムの本を書いた時、このことを反論のように書いてた。そこにはこの写真を前後2かっとずつ全部で5カット写真を並べた写真を添えた。一枚ではわからないが、その前後を見れば、演出したかどうかはわかる。その本を沢木に送りつけた。

1994年10月サイゴンレタイントン通り


2年後、「ポーカーフェイス」と言う本に、自分の失敗談として「言葉もあだに」とタイトルして書いている。
このアオザイの写真はまだエピソードがる。ある日電通から、この写真を広告に使いたいと言ってきた。その頃、僕は池尻大橋に150平米の一軒家に住んでいた。車は頑張れば4台止められ。そこに颯爽と古いメルセデスの女性がやってきた。アートディレクターの石岡玲子さんだ。お姉さんが有名だが妹の玲子さんも有名だ。不意をつかれたので、僕は彼女の勢いにおされた。
オリジナルの写真が縦位置だけれど、B倍ポスターがあるので、横位置にしたいと。左右を伸ばしたいが、OKをもらえるかということだった。僕は普段広告をやっている身だし、その提案に異論はなかった。煮てでも焼いてでも。結局、ANAの、東京-ホーチミン市就航のポスターになった。広告となるとまた見る人が増える。もしかしたらこの女性が名乗りをあげてくるのではないかと、期待した。
2003年だったろうか、NHKBSとNHK総合で、「地球に乾杯」「地球に好奇心」という番組で、ベトナムのアオザイを中心に、活躍するベトナムの女性の番組に出演した。ベトナムナンバー1の歌手ミータムも撮影した。彼女があまりに現代的で強烈で、彼女の歌だけを使い、インタビューは放映されなかった。
この時にも多くもベトナム人にアオザイの女性の写真を見せたが知らないと言う。以前との違いは、かつてはこの着こなしはベトナム人じゃないとか、この着方はおかしいとか、ネガティブな発言が多かったが、豊かになりおしゃれになったベトナムの女性は、皆このアオザイの写真、その着こなしを褒めてくれた。それだけベトナムが現代化したのだろう。
写真は、過去と未来を永遠につなげてゆく。

↑「サイゴンの昼下がり」のオリジナルプリントは、ここで購入することができます。

Canon Eos 5  EF200mmf2.8  ベルビア+2増感 
オリジナルポジからスキャニング

実は、22歳の時に、デビューしている。このあと篠山紀信さんのアシスタントになり、正式には、1975年9月がデビューだ。



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