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フィルム時代の中判カメラ。デジタル時代のラージフォーマット。

かつて中判カメラが、僕のメインカメラだった。

大井ふ頭  Tokyo Japan 2024 フロントガラス越し FUJI GFXⅡ Fujinon63mm
OiFuto Tokyo Japna  2024   FUJI GFXⅡ Fujinon63mm

書きかけの原稿でしたが、少し直しました!!

かつてプロ時代、まあ、今でもプロカメラマンだけれど、
ぼくにとってメインカメラは、中判カメラだった。
大判カメラは、4x5(しのご)や8x10(エイトバイテン)のビューカメラやフィールドカメラ。35㎜フルサイズは、小さなフォーマット、その下にハーフ版があったが、中学の修学旅行のためにオリンパスペンSを買っただけだ。

日芸に入り、その時のNO.1カメラは、アサヒペンタックスSP。
後に知った、中版カメラ、アントニオーニ監督の「欲望」のなかにでてくる
ハッセルブラッド。
スエーデン鋼の夢のカメラ。
二眼レフのローライフ、マミヤフレックス、は知っていたいが、
ハッセルは知らなかった。
考えてみれば、
アマチュアも中判カメラが多かった。

ゼンザブロニカが、ハッセルをまねたことはその時知った。
ハッセルは無理だけれど、僕は、学生時代、ゼンザブロニカのブラックボディを使っていた。重いけどカッコいいカメラだった。

カメラの世界で、35mmがメインになったのは、一眼レフのニコンFからだろう。
もちろんライカは名機だけれど、機能的にはスーパーじゃなかった。
レンジファインダーカメラは、過去のカメラだと思っていた。
ニコンFさえ知らなかった僕だからしかたがない。
ニコンFのファインダーを初めての覗いたとき驚愕した。
これがNO.1のカメラだと。

僕の中判カメラの歴史は、
小学5年の誕生日に、フジペットを買ってもらったことからはじまる。
あの頃、自分のカメラを持っている子供は珍しい。
たいていは父親のカメラだった。フジペットは子供専用カメラだった。

前年の誕生日に、プラスチックのスタートカメラを買ってもらった。
父親にアルバムの作り方を教えられ、ネガの整理し方も教えられた。
特別、写真に夢中になることはなかったが、
飽きずにいたのか、
フジペットが子供カメラとして宣伝していたいので、
欲しくなったのかもしれない。

ブローニーのフジペットは、
肩から斜め掛けのグリーンのビニールのケースに収まっていた。
フィルムはブローニーサイズ、120フィルムを使った。12枚撮りだ。
シャッターとチャージを1,2と押すカメラだ。
裏蓋の小さな赤い窓から、カウンタ数字をシャッターを切るごとに送る。
詳しいことは、覚えていない。

今でもその頃撮った写真はアルバムにあるが、
きちんと整理していたはずのネガは紛失している。
今、あれば、その画質の良さを証明できるのにと思う。

日芸に入り、写真を専攻して、買ったカメラは、アサヒペンタックSPだと書いた。無知な僕は、本当にNikonFを知らなかった。
テレビ広告などで、「ペンタックス、ペンタックス」と宣伝、
最新のPENTAX SPが世界最高のカメラだと信じていた。
ビートルズ(ポール?)もペンタックスSPを使っていた。
レンズは55mmf1.8と105mmF2.8 。標準はついてくるし、無知な僕には望遠レンズしか思いつかず、迷わず105mmにした。135mmという選択もあるがどこかに105mmがいいと書いてあったのだろう。

大学の授業が始まり、NIKON  Fを触った。
学年を超えて、写真がNo.1だと思った、
同級生の僕の写真の先生、高木松寿がペンタックスSVのワイドレンズスーパータクマ28mmを使っていた。
それまでワイドレンズを知らなかった。
ワイドレンズをかりて撮ると、
すぐに欲しくなり買うつもりでカメラ屋に行くと、
奇妙なカメラを見つけた。
KOWA-SW 28mmのレンズシャッターつきだ。
交換レンズではなく、その日から僕は、ペンタックスSPとコーワSWの2台持ちとなった。


1968年
大学2年生の時、学園紛争、バリケード封鎖され、まる1年間学校は休みになった。最初のころはバリケードの中をうろちょろしていたが、夏になってでて、写真を撮るようになった。なぜか理由は覚えていないが、バリケードのなかの写真を僕は一枚も撮っていない。

その頃、高木君が、ブロニカを買った。
話が重複するが、書き直すのが面倒なのでこのまま続ける。

映画アントニオーニの「欲望」を見た。前衛的な、ファッショナブルな、めちゃめちゃかっこいい映画だった。主人公は、ニコンFとハッセルブラッドを使っていた。仰向けに寝たモデルに馬乗りになり、ニコンでその表情を撮る。カッコイイ。そのトラウマというか、すりこみというか、僕の世代のカメラマンは、皆、モデルを撮るとき、馬乗りになって撮ることを夢見る?!
主人公のカメラマンのハッセルブラッドの扱い方に惚れてしまう。後にブロニカを買った時、ブロニカはフィルム巻き上げが、約3回転半と、微妙だったが、きちんと1回転で巻き上げるハッセルを真似して、巻き上げたことが笑える。
その頃ハッセルは夢のカメラで、値段はデジタルになった今のハッセルと同じような値段か。新品、80mmつきで28万とかしたろうか。そんなカメラを持っているのは、学年でただひとり、Aスタジオの息子だけだった。学生の間は、触ったこともなかった。

ハッセルを日常的に使うようになったのは、師匠のアシスタントになってからだ。それまで触ったこともなかった憧れのカメラだった。

ハッセルを使うにあたって、問題点は、フィルム装填がややこしいことだった。しかもアシスタントは、フィルム装填を30秒ぐらいでこなさなければならない。期限切れのフィルムを使い、何十回、何百回と、フィルム装填と、巻き上げて、シール(なめる)を止める。番号をつけ、新しいフィルムをだし、装填する。ハッセルは、フィルムパックが、外れるので、撮影の枚数を数えながら、先生に12枚目の前に「ラスト」ですという。このフィルムカウントを数えるのが他のことをやりながらなので難問だ。

ハッセルは振動に弱く、よく絞りの羽が飛んだ。車でもカメラバッグを荷台ではなく、シートの上に置き、腫物のように扱った。

撮影が住むと、丁寧に掃除をした。デジタルは掃除するとことが少ないが、昔のカメラは暇さえあればカメラの点検と掃除だった。そこで具合が悪いところも発見した。

アシスタント時代メインカメラはハッセルブラッドだった。
夢のカメラは、毎日のように師匠(篠山紀信)は、使いこなしていた。
アシスタントは、そのシステムを、素早く、正確に機能させることに全力を尽くした。
癖のあるフィルム交換は、パックを外し、フィルムを最後まで巻き上げ、撮影隅のフィルムを出し、番号をつけ、新しいフィルムを入れ、ストップするまで巻き上げ、カメラに装填する。その間約30秒。究極に訓練すると、20秒ぐらいで交換できるやつもいた。その間、先生の撮影中のフィルムカウントを数える。11枚撮ったところで、先生に「ラスト」ですと伝える。

1975年フリーになるとき、銀一カメラで程度のよいハッセルブラッドを取りそろえた。この時代、報道カメラマンなら、ニコンとライカだったが、フリーの写真家は、ハッセルブラッドを持っていなければ、プロとみなされなかった。
ボディ2台、フィルムパック2台、50mm 80mm 150mm 250mmを取り揃えた。中古と言っても、三脚の跡もない、パックの接続ははずしたことがないぐらい、綺麗なカメラとレンズだった。いくらだったかは忘れた。
師匠のカメラ庫には、ペンタックス67が2台あった。使っていないのでやめるときくれると言ったが、なぜかいらないと言ってしまった。もらっておけばよかったと後に思った。まあ、お世辞に使いやすいカメラじゃなかったけど、後に、写真作家たちに人気がでた。

フリーになり、仕事はほとんどがハッセルだった。旅行や、海外に行くときに35mmを使った。日常のポートレイト撮影、スタジオ撮影は、ほとんどハッセルで済ました。フィルムはエクタクロームプロフェッショナル。EPRで発色と、コントラストが好きだった。
35mmはコダクローム64がメイン。アシスタント時代は、コダクロームⅡというISO25の、完全無欠のフィルムがあった。どのエマルジョンも色調が変わらず、超微微粒子だったが、フリーになること、ニュータイプになり、エマルジョンによりあたりはずれがあった。もっともルートによっては、良いフィルムがある。量販店で撃っているフィルムは、クズみたいなもので、大手出版社や、有名カメラマン、プロ現像所が、良質のフィルムをそろえていた。それはF1みたいなもので、力があるカメラマンは良いフィルムを使った。早いやつが、いいマシンに乗るようなものだ。

続く。


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