【小説】カレイドスコープ 第10話 恭平

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 銀行のATMに並ぶと、恭平の直前に並んでいる50代前半位の夫人が左手に大き目のトートバッグを持っていたので、その不自然な膨らみが気になり注視すると、中から小型犬が顔を出したので気になってその顔を覗きこんでみた。

 恭平は小さな頃から犬はもとより大抵の動物が好きで、特に犬を街で見かけるとついつい目で追ってしまう習性もあり、今回も至極当然の反応で顔を寄せたのだが、子犬が振り向いて恭平と目が合った時、その顔立ちが『あの子犬』に似ていたので、思わず息を止めて凝視してしまっていた。

 頭の中でフラッシュバックのように様々なシーンが早送りのように再生されて、すっかり記憶の中に閉じ込めていた怒りが急激に堰を切って溢れ出し、気が付けば武者震いを抑える為に意識せずに両方の拳を固く握りしめていた。


 その事を知ったきっかけは、SNSで紹介されていた或る動画サイトからだった。

 炎上目的である事が明らかな数々の動画の中では、犬や猫の虐待を喜々として行い、それを悪びれる様子も無く実況中継している卑劣な内容であった。

 それでも最初の方はまだ軽い悪戯のつもりなのか、尻尾を振って近付いてきた子犬に餌をやりながら、その顔にまゆ毛や字を書いたりした後に、毛を適当に剃りあげて笑っている程度のものだったのだ。

 動画の音声から聞こえてくる加工された笑い声は、数名その場にいるのを物語っており、集団心理が簡単に悪い方向へと舵取りされた時に起こる、自分達のしている行為に陶酔しているような笑い方だった。

 それだけでも恭平は義憤を感じ、言葉にならないくらいの憎悪が自分の中に生まれているのを意識したのだが、その後SNSで様々な情報が流れる中で、その行為が行われているのが恭平の住んでいる市内の可能性が指摘されているのを知り、居てもたってもいられないような気持になってしまっていた。

 その後間を置かず炎上に気をよくした動画撮影者達は、虐待の第二弾の動画をわざわざアップロードして、非難の言葉を燃料にしつつ再生回数がうなぎ上りになるのを楽しんでいるように思われた。

 新しい動画の中で子犬は二人の男に橋の上から川の中に落とされ、溺れそうになっているところで拾い上げられ、再び橋の上から落とされる内容であった。

 子犬の鳴き方は尋常ではなく、恐怖に震えながらも成す術も無い状況に必死にもがいていて、その光景は恭平を暗澹とした気持ちにさせ、胸が締め付けられるように苦しい物であった。

 その動画の中に時折移りこんでいる人影は、明らかにその行為を楽しんでいるのが見て取れていて、その様子は人間に性善説などあり得るはずは無いのでないかと思わせるほどの説得力があった。

 恭平はいても立ってもいられずにSNSや匿名掲示板で情報を収集し、なんとかして子犬を助ける事が出来ないかと動画撮影の場所の特定をすると、すぐさまその足で撮影が行われたであろう場所に向かったが、どれもガセネタで徒労に終わってしまっていた。

 そのような繰り返しを数日間繰り返した間に、虐待の動画が更に二本程更新されていて、それを再生する事は決して出来なかったが、SNSの情報で耳を切られたことを知り、虐待している連中に対し、理性では抑えきれないくらいの怒りを覚え、犯人達に対しての殺意に似た感情も芽生え始めていた。

 或る雨の日にも、まるでそうしないと心が休まらないかのように市内を徘徊していたら、雨の音にまぎれて犬の鳴き声が混じっているように感じ、その場に立ち止って耳を澄ませた。

 自分の呼吸すら止めて、目を閉じて耳に神経を集中して周囲の音に耳を傾けると、やはりどこからか犬の鳴き声が聞こえてきていた。

 恭平は辺りを見回したが犬どころか人の気配さえしてないので、川沿いに建っている閉鎖された倉庫に目星を付け、壊れていたフェンスを乗り越えて中に入っていった。

 雨足は先ほどより酷くなってきているので、傘をさしていても全身が濡れてしまっていて、スニーカーの中にも水が溜まってきて、歩く度にカエルを潰したような変な音を発し始めた。

 何棟かある倉庫を順番に覗いていくと、或る倉庫のドアが半開きになっているのを発見し、中の様子を探る為にゆっくりと近付き、羽目ガラスが既に割れて無くなってしまっている小窓から中を覗いた。

 逆光になっているのではっきりとは分からなかったが、人影がそこに数個あるのが確認出来、何か会話をしているのが見て取れた。

 「雨降ってるし、ここで動画撮るのにちょっと暗くない?」

 「大丈夫だって。 少し窓際まで移動させれば問題無いよ。」

 「今回はアクセス数、めっちゃ上がるぜ。前回の予告で煽ったからな。」

 男達の奥の方に小さなケージに入れられた子犬が確認出来、その瞬間恭平の脈拍は急激に高くなり、先程までの冷静な自分を保つ事が出来なくなってしまっていた。

 3人の高校生らしき男達が、今にも子犬の尻尾を切断する動画を撮影しようとしていると、そこへ迷いのない歩みで恭平は近付き、「お前ら何してる?」と倉庫に響き渡るような声量で話し掛けた。

 振り返った3人のうち2人は、恭平に見つかったことに対して明らかな動揺を示し、「やべぇ」と一言だけ呟くと、すぐにその場から逃げられるように自分の荷物を手にし、子犬の尻尾を掴んでいる首謀者の顔色を伺いながら、どっちつかずの態度でその場に佇んでいた。

 恭平は迷いない歩みで3人組に近付き、「おい、その掴んでいる尻尾から手を離せよ」と命令口調で言った後で、今にも溢れだしそうな暴力衝動をギリギリのラインで収めて、ギュッと拳を握りながら3人組を睨みつけた。

 3人組の内2人は、恭平の迫力を目の当たりにして先程までの威勢をすっかりなくしてしまっていたが、首謀者であろう男は動じることなく恭平の視線をそらさずにおり、逆に挑発するような質問を投げ掛けてきた。

 「あんた、この犬の飼い主でもなんでもないよね? そんな人に藪から棒に命令されんの心外なんだけど。」

 恭平は子供の屁理屈に辟易して怒髪天を突かれる気持ちになりかけたが、同じ土俵に上って対応するとこいつらの思うつぼである事も分かっていたので、極めて冷静を装って返答をした。

 「あぁ、確かにその犬の飼主じゃないさ。 別に法律や道徳の話をしたい訳じゃないし、頭の悪そうなお前らに動物愛護を説こうとも考えちゃいない。 ただお前らのしている事が人として最低だと思ってるから、お前らが犬にしてきた事をそのまま仕返ししたいだけだ。」

 首謀者以外の二人は既に戦意喪失しており、お互いに顔を見合わせて黙っているままだったが、恭平の言葉に挑発された首謀者の少年は、横たわっている子犬を横に蹴り飛ばすと、急に火が付いたように饒舌に反論を始めた。

 「仕返し? やってみたらいいじゃん。 一応あんたに教えてやるけど、犬に危害を加えても器物破損にしかなんないし、あんたが俺に暴力振るった場合、立派な犯罪になるからね。 しかも俺ら未成年がしている行為とあんたが行う行為じゃ、比べられないくらいの罰則が科されると思うけど大丈夫?」

 明らかに社会的な立場や法律を盾にして虐待行動をしている連中に対し、恭平は反吐が出そうなくらい腸が煮えくり返ったが、なんとか気持ちを踏み留めてスマホをポケットから出して3人組を撮影し始めた。

 「勘違いするな。 俺はお前らに子犬にした同様の虐待をしたい訳じゃない。 お前らがネットに流した動画の数々の一つに、新たに顔出し動画を加えて晒したいだけさ。 もともそれを見たネット民が、お前らに対してどんな制裁を加えるかについては、全く予想出来ないけどな。」

 首謀者の少年は顔色を変えて「チッ」と舌打ちすると、先程まで子犬に向けていた刃物を恭平の方に向けて歩み始めた。

 「とりあえず撮影を止めてくんない? その動画のデータ、今すぐ消してよ。」

 この期に及んでも自分の思い通りになると思い込んでいる少年の傲慢で無分別な態度に、恭平は我慢がならなかった。

 少年は恭平のすぐ目の前まで来ると、さも当たり前のように左手を出してスマホを渡すように促すジェスチャーをしたが、それに恭平が応じない事が分かると、躊躇いも無くナイフを恭平に向かって突き出した。

 恭平は咄嗟にスマホを盾にして突き出されたナイフを受け、相手が未成年だからと抑えていた心のリミッターを外し、右足で相手の腹を蹴り上げて、そのまま横に吹っ飛ばした。

 気が付けば他の二人の姿はもう見えず、この騒ぎに乗じてこの場を逃げ出したのが分かったが、倒れた少年は腹立ちまぎれに再び瀕死の子犬に近付き、ナイフをその首元に近付けると、恭平を挑発するように言葉を吐き出した。

 「この犬に同情しちゃってるみたいだけど、こいつだって元々人から捨てられてたのを俺らが見つけただけだからね。 とっくに見捨てられて死んじゃう運命だった子犬を俺らがどう扱おうと、お前なんかに咎められたくないっつーの。」

 少年の口元に不敵な笑みが浮かぶと、そのナイフをゆっくり子犬の首に突き立てようと右手を動かし始めたので、恭平は自分の考えが脳に伝達するよりも早い反応で体を動かし、再び自分にナイフを向けた少年に対して物怖じもせず、少年の髪の毛を掴むや否や、全力で右手に力を入れてその頭を振り回して横に振り飛ばした。

 一瞬後に右腕に激しい熱が発生するのを感じたので自分の腕を見返すと、ナイフがかすった皮膚の部分が10センチ強裂けており、鮮血がそこから溢れだしているのが分かった。

 そして力を入れて握りしめていた右手をゆっくり開くと、少年の頭を掴んだ際に抜けた髪の毛が中にごっそり入っていて、ポロポロ掌から零れ落ちていった。

 少年は横でもんどりうちながら、「ふざけんな」や「ぶっ殺す」などと呟いて、頭から血を流して激昂しているようだった。

 恭平はしゃがんで子犬の様子を観察し、今にも命が果てそうなその儚い姿に心が締め付けられそうになったが、「ごめんな」と一言呟くと、優しく抱きかかえてから雨の中を歩いて帰路に着いた。

 漸く家に着いた時には既に子犬は息絶えていて、その骸を強く胸に抱きしめた後、行き場の無い怒りや無力感に体を支配されながら、雨の中ずっと立ち尽くしていた。


 警察が恭平の事を尋ねに家に訪れたのは、その事件から5日ほど経った後であった。

 どのような用件で警察が家に来たのか恭平は全く見当のつかなかったが、それが傷害事件の容疑者として事情徴収を受ける事が分かった時、あまりにも想定外の出来事だった為に上手く反応が出来ず、不条理を感じながら署に連行されていった。

 警官から聞かされた話では、恭平が少年に暴力を振るって重傷を負わせて逃げた為、傷害罪に問われているとの事であった。

 あまりの理不尽さに咄嗟に言葉を失ってしまったが、正確な状況説明をして反論を試みたが、それを証明する手段であるスマホの動画は少年のナイフにより壊されていて再生不可能であるのと、少年の共犯であった二人が都合の良い証言をしているようなので、話は平行線でなかなか進まずに泥仕合の様相を呈し始めた。

 そして何より致命的であったのが、怪我をした少年の父親が恭平の父の会社の上得意様の一人であったので、どのような方法を選んでこの問題を解決したらいいのか分からず、鬱々とした気持ちのまま過ごす事になってしまっていた。

 恭平は自分がしてしまった事に後悔は何一つなかったが、家族に迷惑をかけている事には負い目を感じていたので、信念は曲げたくない気持ちは強かったが、どこかで落としどころも探し始めていた。

 しかしなかなか事態は好転しないまま悪評だけは世間を駆け巡り、恭平の罪が問われずに示談が成立する頃には、恭平の行動に尾ひれがついた噂が既に広まっており、それをいちいち正して回る事など出来ないような状況にまでなってしまっていた。

 悪戯電話やネットでの書き込みなどが続き、日毎に父親の経営する会社の取引先が減少していくのを目の当たりにすると、自分の存在がどんなに迷惑をかけているかを悟り、ひっそりと家を出ていく事を決めたのであった。


 目の前で婦人のバッグに入れられた子犬はその状況に退屈しているのか、大きな欠伸をすると恭平の方をチラリとみると、すぐにバッグに潜り込んで体を丸めていた。

 子犬をじっと凝視しているのを婦人に気付かれ、少しだけ微笑みかけられたが、何か話そうとしても、その場にそぐう言葉を見つけるのが途方もないような作業に思われたので、同じように微笑みを返すのみに留めた。

 泰人がどのような話を神崎にしたのか知らないが、泰人の望み通りに恭平の請け負った仕事を交代する事が出来たので、恭平はドナーとして待機する事になった。

 元々仕事で貰う事になっていた報酬に関しても、泰人は全額恭平に譲渡するという約束をしてくれたので、本日振り込まれているはずの報酬の半額の前金を引き下ろしに銀行に来ていたのだ。

 カードを差し込んで預金残高を確認すると、そのまま振込機能に切り替えてから、入っている全額分をツグミの口座宛に振り込んだ。

 泰人に入金確認出来たことをラインで伝えた後、夕方以降神崎と会う約束をしていたので、そのまま事務所に向かった。


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