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【小説】カレイドスコープ 第7話 泰人

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 神崎から呼び出された時に泰人は少し嫌な予感はしていたが、案の定その予感は見事的中した。

 先日清掃の仕事で再会した時は、初対面の振りをしてしらばっくれていたが、神崎の蛇のように相手を凝視する鋭い視線は決して泰人の思惑通りにならず、獲物を見つけた猛禽類のそれとよく似ていた。

 「山下のトコロ辞めたのは、女絡みだったんだってな?」

 まるで自分がこの世の全てを知っているような万能感を誇示して、好奇心を言外に滲ませながら泰人に問いかけた。

 泰人は憮然とした表情でその質問には返答せずにしたが、神崎の不快な態度は泰人の心を一瞬にして波立たせた。

 「まぁ俺にとってはお前の過去なんかどうでもいい話なんだけど、ただ山下のトコロの辞め方は良くなかったな。」

 神崎の勿体ぶった話し方は、いかに相手の注意を引き、いかに効果的に心を揺さぶる事が出来るかを想定したもので、生来のサディストの気質が溢れんばかりであった。

 「連絡も無しにバックれたのも良くないが、それよりもお前が捌く予定だったブツも全部持ち去って消えたらしいっていうのが、同業者界隈の噂じゃないか?」

 泰人は沙耶に出会った後でドラッグを売る事に迷いが生じていたが、そういった生活に決別をしようと決めた出来事を思い出していた。

 当時カモにしていた30代の男から連絡があり、受け渡し場所を指定してそこに行くと、そこには男の代わりに中学生くらいの少女が待っていたのだ。

 少し違和感を感じたのは、その少女は同世代の他の子達のような年相応のお洒落もする事無く、地味で真面目な印象を与えていたからであった。

 ファストフード店の2階の窓際のカウンター席で座っている彼女の二つ横の席に泰人は座り、今到着した事をラインで知らせると、すぐに二つ隣の彼女は自分のスマホを確認して、持ち帰り用にしているポテトの袋を彼女と泰人の間の席に置き、それを泰人が自分のポテトの袋とすり替えると、中に現金が入っているのを確認してから、コインロッカーの鍵をポテトの袋に入れて再び席に置いた。

 ただ泰人が横目で見たポテトを置いたその少女の右手には、火傷のような痣があるのが分かり、それが煙草の火を押し付けられた跡であるのは明白であった。

 彼女はこういった状況に慣れていないのか、緊張感が空気を通じて伝わってきており、いつもであれば何を感じない泰人であったが、何故かその日は彼女の行動に強烈に苛立ちを覚えた。

 いつもは物々交換が終わればすぐにその場を立ち去るのが常ではあったが、ファストフード店を出た後に、外で彼女が出てくるまで身を潜めて確認し、ドラッグが入れてあるコインロッカーまでの道のりをつけていくことにした。

 少女はコインロッカーを開けてドラッグを受け取ると、そのまま電車の駅に入っていくのが見えたので、泰人はそのままICカードを使って駅の中まで入っていき、彼女の乗る電車にも一緒に乗り込んだ。

 改めて泰人は少女の身なりを観察したが、着ている安っぽいグレーのパーカは、袖のリブの部分が広がった年季の入った物であるのが明らかで、穿いているデニム地のロングスカートも皺が多く、清潔感をあまり感じられない見た目だったので、後ろ姿だけだと40代の主婦に間違われたとしても、納得してしまうような雰囲気を醸し出していた。

 4駅を過ぎたところで少女は電車を降りたので泰人も続けて下車し、距離を置いて少女の後を追って行った。

 駅から少し離れたところに位置する築50年以上のアパートが連なる住宅地へと入ると、少女はその中の一棟の1階の部屋へと入っていった。

 少女を尾行しながらも、泰人は自分が一体何をしたいのか分からずにいたが、強迫観念にも似た好奇心は留まるところを知らず、少女が入った部屋へと近付き、息を潜めてドアに耳を近付けた。

 ドア越しに聞こえる男の声は不明瞭で、弦楽器を適当に弾いているような不快感を伴った音階が流れているようで、泰人は思わず眉間に皺を寄せてドアから離れた。

 泰人はふと我に返り、自分の行動が常軌を逸している事に苦笑し、暴れ出そうとしていた7歳児の自分を閉じ込めている心の奥底に再び蓋をして、その場を立ち去ろうとした瞬間、ドアの向こう側からくぐもった少女の悲鳴が聞こえた。

 その時泰人の脳裏をよぎったのは、幼い時の無力な自分の姿では無く、数日前に電車の中で血だらけのボールペンを力強く握りしめ、まるで世の中の全ての理不尽さと対峙しても厭わないといった風情の沙耶の姿だった。

 それと同時にざわついていた心の波が凪ぎ、部屋のドアノブを捻り開いている事が分かると、迷いなく靴を履いたまま中に入っていき、男と少女がいる部屋へと現れた。

 目の焦点が合っていない男は泰人を見てもあまり動揺していないようで、床に倒れている少女は鼻から血を流しながら、身を縮めて小刻みに震えていた。

 泰人は部屋に入って目に入ったフライパンを手にすると、まだ状況を把握できていない男の横顔に向かって勢いよく叩きつけた。

 男は悲鳴になり損ねた音を口から吐き出すと、糸が切れた操り人形のような動きで床に倒れ、口から泡を出し始めた。

 改めて部屋の中を見回すと、男が座っていた前にあるテーブルの上にドラッグを飲んだ痕跡があったので、ハイテンションになった状態で少女を殴打した事が分かり、泰人の心に一抹の罪悪感がよぎった。

 横目で少女を見ると、目の前で起こった事が俄かに信じらないようで、呆然としたまま瞬きもせず、じっと固唾を飲んで身を潜めていた。

 泰人は憑き物が落ちたかのように心が軽くなり、フライパンをその場に落とすと、少女に力の抜けた口調で話しかけた。

 「お前、この状況から抜け出したいんだったら、俺が手を貸すぞ。」

 しかし少女は黙ったまま何も答えず、頑なにその身を丸めたままだった。

 「大丈夫だ。 お前がここから逃げるのを選択しても、こいつに手を出すことは絶対に出来ない。 だから怖がる必要はない。」

 少女は一瞬泰人と視線があったがすぐに目を伏せ、眉間に皺を寄せて肩をすぼめると、弱々しい声で話し始めた。

 「私が、逃げたら、お母さんがダメになっちゃう…。 お母さん心が弱いから、誰か男の人がいないと泣いてばかりだから、だから、私が我慢さえすればいいお母さんでいてくれるから…、逃げたりなんか絶対に、出来ない。」

 泰人は目の前の絶望が手に取るように分かり、叫びだしたい衝動を抑えて拳に力を入れてグッとこらえ、男の方を振り返った。

 今まで心の奥底に仕舞い込んで気付かない振りをしていた殺人衝動が、自分でも信じられないくらいに自然に湧いてきて、この男は生きるに値しないと判断するのにも抵抗を感じる事が無かった。

 そしてまだ意識朦朧としている男を無理矢理起こすと、バッグから出したドラッグを無理矢理男の口に入れ、水で流し込んで強引に飲ませた。

 業界内でもタブーになっている組み合わせのアッパー系とダウナー系のドラッグの接種を男にさせ、そのままその場に投げるように寝ころばせると、男の顔色は見る見る血の気を失っていき、呼吸音も不安定に変わっていった。

 少女はその光景をまんじりともせずに見守っており、泰人の行動を邪魔するような事は一切しなかった。

 「このまま放置しておいてもいいが、気になるならしばらくして救急車を呼んだらいい。 こいつに運があるなら息を吹き返すかもしれないが、どっちにしろしばらくの間は意識が戻る事は無いだろう。」

 少女は返事をせずに黙ったままだったが、こくりと首だけ曲げて同意をした。

 「警察に何か聞かれるかもしれないが、嘘を突きたくなければ俺の事を話せばいい。 もし何も言いたくなかったら、こいつが勝手にドラッグを乱用していてこうなったって言っておけ。」

 それだけ言うと泰人は踵を返し、少女の方を見返すことなく躊躇なく部屋から出て行った。

 昂ぶった気持ちが少しずつ落ち着き始めると、自分が殺人を犯してしまったかもしれないという事実を徐々に意識し始めたが、そこに後悔や絶望が入り込んで打ちひしがれる事無く、ただこうならざるを得なかった事に対して、諦めが入り混じったある種悟りのような境地に辿り着いていた。

 様々な感情が泰人の心の中をせわしなく渦巻いている中、沙耶に会いたいと思う気持ちが他の感情を凌駕して大きくなり、気が付けばその事以外を考える事が出来ない程、心の中が沙耶で満たされていた。

 電車内でのいざこざの直後、沙耶と連絡先を交換せずに別れたことに対して後悔のような気持を感じていたのだが、その五日後に偶然沙耶とばったり出会った時は、今までの人生で感じることの無かった運命という存在を、受け入れる事が出来るほどに寛容になれた。

 ただその時の沙耶の恰好は、電車内で出会った時のような堅気の生活を送っている一般的な女性の姿では無く、いわゆる夜の街で働いている女性特有の派手目なメイクを施し、少し露出の多いドレスを着た姿だったので、その声が聞こえてくるまでは認識できてなかったのが実際のところであった。

 様々なテナントが混在している雑居ビルの上階にあるバーで一人呑んだ後、エレベーターがなかなか動かないのに業を煮やして非常階段を使って降りていると、下の階の踊り場で煙草を吸っている人影が見えたので、もう一度エレベーターに乗ろうと非常ドアを開けたところ、聞き覚えのある声がその踊り場から聞こえてきたのだ。

 「香住さんからライン届いているのに気付いたから、トイレ行く振りして外から電話しちゃった。 でも本当に、結女ちゃんは嬉しいと思ってるわよ。」

 泰人は非常階段の手すりから顔を出し、踊り場にいる女性を覗こうとして見たが、暗さと上からの角度からでその顔が分からなったので、ゆっくりと物音を立てずに階段を下りて女性に近付いて行った。

 「あの男がドラッグのやり過ぎが原因で、意識不明になって入院中なんだったら、丁度身を隠すのにいいチャンスじゃない。ここの仕事を放り出しても逃げる価値は十分にあるわ。」

 電話での会話に夢中になっているせいか、女性は泰人が近付いている事に全く注意を払っていない様子だった。

 「だからなんとしても、結女ちゃんは守ってあげてね。 私、もうそろそろ店に戻らなきゃ。」

 女性はスマホを耳から話して振り返ると、上階から降りてきている泰人と目が合って、一瞬きょとんとした後に満面の笑みを浮かべ、無防備にも泰人に近付いてきた。

 「先日の電車の中で会った人よね? また会えて良かったー。 だって私、あの時助けてもらったのに興奮し過ぎちゃってお礼もせずに別れちゃったから、家に帰ってから連絡先すら教えてもらって無い事に気付いたのよ。」

 泰人は沙耶の屈託のない態度に動揺しながらも、その瞬間に何をどう話したらよいのか全く分からず、自分の気持ちを正確に表す言葉を探す事が途轍もなく難しく感じられ、気が付けば不器用に沙耶の手を握り、そのまま黙って自分の方に抱き寄せた。

 沙耶は泰人の行動に若干の驚きを感じているようだったが、抵抗することなく泰人の背中に手を回し、優しくその背中を撫でて泰人を受け入れた。

 「今から店に戻らなくちゃいけないの。 連絡先教えるから後で連絡頂戴。 私、必ず返信するから。」

 沙耶は両目でしっかり泰人の顔を覗き見ると、にっこり笑ってから非常階段のドアへ向かって行った。

 泰人は雑居ビルから出ると、バッグに入っていた残りのドラッグ全てをゴミ捨て場に捨て、連絡用に使用していた携帯電話を川の中に投げ入れると、ほんの少し気持ちがすっきりするのを感じた。


 事務所の中で神崎は、芝居がかった口調を辞めることなく薄っぺらい言葉を並べて泰人の過去を暴いた後で、恩着せがましい言い方で泰人に他の仕事を提案した。

 「まぁそんな訳で最初はお前に割のいい仕事を斡旋してやるつもりだったんだけどよ、どうにもこうにも色んなしがらみがあってそうもいかなくなっちゃってな、代わりに同程度稼げる別の仕事をやってもらいたいわけ。」

 神崎はそう言いながら泰人の表情を覗いたが、そこには特に動揺をしている訳でもなく、ひたすら無表情を貫く態度しか見えなかったので、自身のサディストの性質を満足させる事が出来ず、少し不満げに言葉を続けた。

 「今、俺ん所の借金回収係の人数が足りてないから、そっちの方をやってもらいたいんだよね。 お前だったら売人やってて駆け引き得意だろうから、こっちで即戦力でやってもらえるだろ。 上手く回収出来たら、むしろこっちの方が稼げるぞ。」

 泰人は神崎が言外に意味している事を十分に理解していた。

 最近は法規制も厳しくなっていているので、強引な借金回収は難しくなっている状況だが、それでも法の目をくぐって相手を脅したり精神的に追い詰める事がまかり通っているので、この仕事を引き受けるという事は、誰もがやりたがらない処刑執行人のような役割を演じる事を要求されるだろう。
「分かった。 それじゃ俺が担当する分のリストを渡してくれ。」

 神崎から目をそらさずに口から出た言葉には、泰人が自分自身で不思議に感じる程その言い方に迷いや苦悶の含みが無く、まるで自然な反応のような流れに感じられた。

 逆説的ではあるが、この世界には沙耶の存在価値を上回る正義や道徳が存在するとは到底泰人に思う事が出来なかったので、それ以外の事は全て些末な事くらいにしか思え、沙耶との出会いで取り戻しつつあった人間的な感覚を一切遮断した。


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