「サピエンス全史(下)」に見る資本主義の歴史とこれから

近代以前の経済の前提となっている考えは「パイ(富の総量)は変わらない」というものだった。したがって、一人が多くとれば、誰かの取り分が減るわけで、裕福な人々は慈善事業に寄付するなどして己の悪行に対する贖罪の意を示さなければならなかった。

しかし、アダム・スミスが画期的な主張を発表する。科学技術の発展によって「パイは拡大する」という前提に立ち、自分の利益を増やすことが全体の富の増加と繁栄の基本であるとしたのだ。そして「利益が拡大したらさらに投資する」という原則を繰り返し述べた。

ここから現代経済を形成する二つの思想、すなわち「自由市場資本主義」と「消費主義」が発展する。富める者は「投資せよ!」、それ以外の者は「買え!」という2つの戒律が重要な価値体系となる。

これに対して反成長主義者は、経済のパイが大きくなり続けることは困難、地球の原材料とエネルギーを使い果たす、と警告してきた。

しかし、ハラリ氏はこう述べている。

「この世界でエネルギーが不足していないことは明らかだ。私たちに不足しているのは、私たちの必要性を満たすためにそのエネルギーを利用し、変換するのに必要な知識なのだ。」

これまで人類が起こしてきた産業革命の歴史はエネルギー変換における革命、すなわち新しいエネルギー源の発明の歴史でもあった。もし莫大な太陽エネルギーを活用する方法が発明されれば、反成長主義者が心配するエネルギーの枯渇もなく、我々は成長し続けるのかもしれない。

しかし、その先にあるものが必ずしも幸福ではない。ハラリ氏は幸福が富や成長とは関係がないとした上で、そういった外部の成果によらない幸福感として3つ挙げている。

①生化学的な「快感」

「幸せは身の内より発する」と言われるように、幸福感とはセロトニン、ドーパミン、オキシトシンから生じるものである。

②「意義」

人生全体が有意義で価値あるものとみなせるかどうかによって幸福感が決まる。

③仏教的な「感情の追求」の放棄

外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をも止めることで、苦しみから解放される。

ブッダが悟ってから数千年、人類はずいぶん遠回りをしたが、いまだ何が幸せなのか、何を求めて生きていくべきなのか、はっきりとわからずにいる。

ハラリ氏は本書の最後で人類の行く末に警鐘を鳴らしている。

「人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで相変わらず不満に見える。(中略)どこに向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。(中略)自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?」

コロナによって人々は価値観を問われている。これからの私たちは、次なるエネルギー源を開発し、国の発展段階に応じた成長を追求し続けるのか、あるいは、内なる幸福感を追求していくのか。

現実的にはその両者の間でバランスをとりながら生きていくしかない。企業成長の一端を担うことで資本主義社会の恩恵にあやかり、家族を養う立場としては、それを全否定することはできない。しかしながら、人類が何を望んでいるのか、そして我々が持つ力をどう使うべきなのか思いを馳せ、時には内側も外側も感情を手放して、ただ今を生きる。そんなことを意識しながら日々を過ごしていきたい。



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