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「キャラ」で括るのって古くない? 『捨ててよ、安達さん。』、『住住』から考える。

芸能人、というもののあり方が変わる気がした。

それは現在、テレビ東京で毎週金曜0時52分から放送している『捨ててよ、安達さん。』を視ながら思ったこと。

この作品は安達祐実が本人役で登場し人生から「バイバイ」するものを選ぶ物語。第1話は「『あの作品』のDVD」、第2話は「輪ゴムとレジ袋」に「バイバイ」した。

安達祐実の自宅それも彼女の夢の中のそれ、からほとんど出ないかたちで話は進む。ワンシチュエーションコメディーといってもいいかもしれない。そして、テレ東的モキュメンタリー(『山田孝之の東京都北区赤羽』『山田孝之のカンヌ国際映画祭』『そのおこだわり、私にもくれよ!』)の系譜にある作品だ。

脚本・監督は『勝手にふるえてろ』で評価を確立した大九明子が務める。

全ては「夢の中」のことだけあって、ドラマの中で安達は自身とキャラの不均衡に悩む。

マネージャー:新しいドラマ決まったんです。主役、なんと「安達祐実」役です!

安達祐実:「安達祐実」役なんて、毎日毎日、いっつもいっつも、やっとるわ!

(『捨ててよ、安達さん。』第1話予告  より)
安達祐実:簡単に言わないでよ。ずっと「あの作品の安達祐実」だった。最近やっと、それから解放されてきたんだよ。観ちゃったら私、また引っ張られちゃうかもしれないし。

『家なき子』のDVD(の擬人化):あんたさ、なににビクビクしてんの。世間のイメージとかなに気にしてんの……。捨ててよ、安達さん。私、あんたのこと縛り付けたくてここにいるわけじゃないんだよ。自信もてよ。過去なんてどうでもいいんだよ、あんたはあんたなんだから。前向いて歩いていけよ。

安達祐実:……。

『家なき子』のDVD(の擬人化):あんたいい女優だよ。

安達祐実:ありがと。

(『捨ててよ、安達さん。』第1話より)
安達祐実:(雑誌の連載に)生活感出しすぎちゃったかなあ。イメージ変わっちゃう?

マネージャー:大丈夫ですよ。イメージなんてぶっ壊してしまえばいいんです!

(『捨ててよ、安達さん。』 第2話より)

「安達祐実」というフリがある分、これらのセリフは字面以上に重く響く。このドラマの番宣の取材では、「ロリババア」というネット上での中傷を引き受けて表現に昇華させているメンタリティについても述べている。

多分、これからの時代は芸能人に自分たちが思い込むキャラを押し付けることがダサい時代になってくる。誰かに特定の勝手なイメージを読み込み過剰に信仰消費することが古くなる。

なぜなら安達祐実が「子役出身」という芸能界でのキャラと自身の肉体の不均衡の結果から「ロリババア」を引き受けたことが「強さ」である、と捉えられたような一連の流れがこれから頻発するからである。

そして、私は思う。安達祐実が見せたようなイメージのパラダイムシフトを次から次へと受け入れられるほど、みんな強くない。そしてそのパラダイムシフトをコンテンツ化できるほど優れた芸能人ばかりじゃない。

キャラ、なんてコミュニケーションの仕方が客観的に認知されはじめたのはだいたい20年前だ。評論家の宇野常寛氏は『ゼロ年代の想像力』(2008年刊)の中で以下のように語っている。

国内ではゼロ年代に入り、教室やオフィス、あるいは家族など、特定の共同体の中で共有されるその人のイメージを「キャラクター」と呼ぶことが定着した。この「キャラクター」は、当然、物語の登場人物をキャラクターと呼ぶことに由来している。この一種の「和製英語」定着の背景には、日常を過ごす場としての小さな共同体(家族、学級、友人関係など)を一種の「物語」のようなものとして解釈し、そこで与えられる(相対的な)位置を「キャラクター」のようなものとして解釈する思考様式が広く浸透しはじめたことを示している。

(『ゼロ年代の想像力』 第八章ふたりの「野ブタ。」のあいだで より)

ここで今クールに放送されているドラマをもうひとつ引用したい。バカリズムが脚本を務める『住住』だ。こちらも「バカリズムの仕事部屋」が舞台になったワンシチュエーションコメディ。(第1シーズンは若林の自宅が舞台だった)

第1話のタイトルは「20年後の日村」。物語冒頭で以下のような掛け合いが行われる。少し長くなるけど読んで欲しい。

日村:いやなんか、俺、あの頃のヒデ(=バカリズム)に教えてあげたいもんね。

バカリズム:なんてですか。

日村:いいかヒデ、お前20年後に自分の作業場もつようになるよって。教えてあげたい、うん。

バカリズム:え、いきなりですか?

日村:いきなり?

バカリズム:いや、目の前に現れていきなりそれを言います?

日村:なに?

バカリズム:いやね、20年後の日村さんがいきなり目の前に現れたら、俺まずパニックになると思うんですよ。

日村:パニック?

バカリズム:急に現れるわけですよね。それで、「20年後に作業場もつよ」なんて言われても入ってこない。

(略)

バカリズム:いきなり知らない人が現れるわけですから。

日村:いや「知らない」って、俺、出てきてんじゃん。

バカリズム:それは「後の日村さん」って言われるからわかるけど、なんの説明もなしに出てきたら「うっすら日村さんに似た、ただの老けたおじさん」

日村:「老けてる」って(笑)。

バカリズム:見た目も太ってるし。

日村:面影はあるじゃない。

バカリズム:面影はあるけど、相当。歯ももう違うじゃないですか。

日村:歯はまあ圧倒的に違うよね。これがあるからね。(自分の前歯を指でなぞりながら)

バカリズム:「20年後の日村さん」って言われれば、「あっ、確かに」と思うかもしれないですけど、「20年後の日村さん」ってまだ聞いていない状態でボンって来たらもう、多分俺はもうパニックです。

(『住住(2020)』第1話 より)

この一連の会話劇を見ながら、私はどこかモヤモヤする気持ちを落ち着けることができなかった。それはきっと『安達さん』を観たあとだからわかるが、日村の身体描写があまりにもリアルすぎて、そしてその描写をされている際は私はどうしても画面に映る彼のシミやシワを意識してしまい日村をキャラとしての「日村」として捉えられなくなっていたことへのモヤモヤだった。

日村は47歳、バカリズムは44歳。

彼らをはじめ芸能人たちが歳をとっていくスピードと、彼らが孕むキャラが歳をとっていくスピードがどんどんと離れていく。きっと僕たちはそれにモヤモヤする瞬間がきっとくる。

キャラの不気味の谷、とも言うべきか。

モヤモヤした瞬間がきっとキャラの寿命なのだろう。そう感じた。

(了)

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