薄氷の夜

 この村に来て、一回目の冬が来た。

 ハグルマ村の夏は、恐ろしいほど生命力であふれていた。なにもかもかすめ取ってしまう夏に、僕の虚弱な足は震えていた。しかし、秋が来て、冬が来た。ここの冬は冷たくて、透明で、清潔で、寛容だった。

 もう普段の僕ならとうに寝てしまっている時間だった。こんなに夜も深いのに、清潔なベッドに潜っても眠れず、ふらふらとリビングまで歩いてきてしまった。

まだ寄宿寮に入る前、実家にいたとき、僕はいつも九時には寝ていた。しかしある日僕は十一時になっても眠れず、怖くなって泣き出したことがあったのをふと思い出す。知らない土地においていかれたような気がして、子供ながらきちんと明確に絶望していた。

 長い廊下を抜けると、灯が見えた。まだ、ユリが起きているのか、あたたかみのある照明はきちんとその部屋を照らしていた。小花があしらってある壁紙が、まるで太陽の光のような灯を受けて、心地良さそうにしていた。

 暖炉もたきっぱなしになっていた。モスグリーンの品のよい絨毯の上を歩き、出窓に寄った。

 この村の来る前に僕がいた学校に比べると、この村は空気が一等に澄んでいて、そしてよく雪が降った。一年前、僕は寄宿寮の窓硝子越しに、地面を叩き付ける雨を見ながら、密かに……そう、密かに空から零れ落ちる白く冷たいそれにひどく憧れていた。まだ一年前のことなのに、何故かこんなにも懐かしい。寄宿寮の薄汚れたアイボリイの壁紙、ぼんやりと枕元でぼんやりと灯る洋燈。ああ、たしかあそこは一年中霧が立ちこめていた。

 清潔な窓硝子越しに、削られた白い鉱石のような雪が地面に降り積もっている外を見る。すると、窓硝子に自分以外の女の姿が映った。

「フェル、早く寝ないと風邪を引きますよ」

「もう、そんな時間」

「そうですよ。あら、雪ですね」

 窓硝子に映るユリは、初めて会った時のように難しい顔をしていた。そもそも、ユリはいつも難しい顔をしているように見える。彼女の細い指が緩慢な動作で窓硝子をなでた。ふと、僕は隣に来たユリの顔に目を移した。窓硝子越しに見た彼女はあんなにも無骨な表情をしていたのに、実際に見た彼女の表情は、ずいぶん柔らかかった。なんとなく、ああそういうことなのかと納得してしまう。どうやら僕は、一年前の僕を置いてきたらしい。あの、神経質に磨かれた窓の中に。ずいぶん、自分は変わったな、と、目を細めた。

「雪、この村に来て初めて見たんだ」

「はい」

「寄宿学校にいたとき、棚から画集から見つけて、そこで見た絵が印象的だった。それからずっと雪が見てみたかったんだ」

 どうしてユリにこういう話をするのかわからなかった。ユリは相変わらず神妙な顔をして窓の外を眺めていて、僕はくすんだ感傷に浸かっていた。雪の夜はどうしても物寂しくなっていつもより口を滑らせてしまう。ユリは、緩やかに相づちを打ってくれた。

 僕の通っていた寄宿学校には、ずいぶん長い間使われていない美術準備室があった。鍵が壊れているのを知った日から、なんとなく足を運んでいた。埃っぽく、油絵の具の胸に溜まるにおいが充満していて、どうしてこんな場所に足を運ぶのか、わからなかった。埃をかぶった画集を手に取って、よく暇つぶしに読んでいた。思えば、自分の瞬きの音さえ拾えてしまう静謐さは嫌いではなかった気がする。

「私のいたところはよく雪が降っていました。よく積もるので、玄関の扉の前に階段があって、雪が積もっても、きちんと家に入れるようになっていました」

「きれいなところだな」

「雪が深いだけです」

「雪が深い場所は、それだけできれいだよ」

ユリは少しだけ瞳を揺らした後、こちらを見て微かにほほえんだ。

ユリは、ほかの女性と比べると、ずっとずっと表情が硬いほうだった。けれど、ほんの少しこうして微笑むことがあるのを僕は一年一緒にいてやっと気づいた。そして、慈しむように僕の頬に触れるのだ。白く冷たい女の指先が僕の頭をたどたどしくなでる。ふと、僕の記憶の底にいる母親の記憶を思い出した。母はずっと前に死んでしまった。どうして死んでしまったのか、忘れてしまった。ただ、それが、雪が深い季節だったことをおぼえていた。彼女の顔や声を忘れてしまったのに、彼女の薄荷飴のように白い指と、頬を撫でられた感触だけは覚えていた。鮮明に、おそろしぐらいに、きちんと。

「フェルはよい子ですね」

「……よくわからない」

「よい感性だと褒めたのです」

「わかりにくい」

ユリはまた視線をそらし、窓の外を眺めていた。

僕は彼女の冷え切った指を見る。それはどこか懐かしく、僕の阿呆さを突きつけてくる。

暖炉のうえに置いてある古びた時計が、こちこちと間抜けな音を立てていた。

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