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私だけがわかるやさしさのかたち

忘れられない、5歳の母の日

私の“お母さん”がいわゆる一般的な”お母さん”とはちょっと違うと気付いた日の話から始めたいと思う。

それは、5歳の母の日だった。

幼稚園の先生からカーネーションを1本ずつ渡された。そして、先生は「お母さんが迎えに来たら、いつもありがとーって渡すんだよ。お母さん、とっても喜んでくれるよ」と笑顔で言った。

私はカーネーションを手にお母さんのお迎えを待った。わたしより早くお迎えが来た友達たちは、次々にカーネーションを「いつもありがとう」っという言葉と共に渡す。友達のお母さんは笑顔でその友達を抱きしめる・・・。

その光景をみているだけで、自分の番がくると思うとドキドキしたし、お母さんの笑顔をみれると想像しただけで心臓が飛び出そうだった。

「あ、お母さんだ」

どんどん近づいてくるお母さん。後ろに隠したカーネーションがお母さんに見えてないかなと思いながら、お母さんが目の前に来るのを待つ。

「お母さん、いつもありがと!」という言葉と一緒にカーネーションをお母さんの前に差し出した。

なんだか恥ずかしくて、お母さんをまっすぐみれなかった。お母さん、泣いちゃうんじゃないか・・・とか、抱きしめてくれるんじゃないか・・・とかそんなことを期待しながらお母さんをみると・・・

とても不思議そうな顔をしながら

「お母さん、カーネーション嫌い。バラがいい」

と一言、言い放った。

!?!?!?

予想外の言葉に、まさしく目が点になっていたと思う。

その後、どうやって帰ったのか全然覚えてない。まぁ、約30年前弱のことなのだから仕方ない・・・。けれど、逆にカーネーションを渡すまでの出来事は鮮明に覚えている。笑

これだけを聞くと私の母親はどんなヒドイ母親なのかと思う方もいるかもしれないが、母の名誉のために言っておくと、私のお母さんはあくまで”個性的”なのであって、ヒドイ親では決してない。(たまに、本当にヒドイときもあるけれど・・・妹と2人で笑い話にするスキルを身に付けた。妹よ、ありがとう。笑)

今だから笑って話せる、個性的で最高なお母さんの話

私のお母さんが”個性的”だと言えるエピソードは他にも沢山ある。今となっては全部、笑い話なので、たのしんで読んでもらえるとありがたいです。

・小学校1年生。「休み明けに雑巾をつくって持ってきてください」と先生に言われた。そのことをお母さんに伝えると、おもむろに立ち上がって、古いタオルを持ってきて「ミシンの前に座って、自分で縫いなさい」と一言。約1時間かけて、雑巾をつくった。もちろん、ミシンの使い方は教えてくれた。しかし、学校に行って、みんながお母さんに作ってもらったと言っているのを聞いた時、私は捨て子なんじゃないかって本気で思った。

・小学校低学年の時、3つ下の妹とたった2人で青春18きっぷで滋賀県から祖母の家がある岡山まで在来線だけで行った。3時間か4時間ずっと私は妹の手を取りながら、お母さんから渡された電車の時刻が書いた紙を片手になんとか倉敷にたどり着いた。(大人になってから、なぜ幼い姉妹2人だけで在来線で行ったのか聞いたら、理由は旅費が安かったから♪っと笑顔で言われた。)

・小学生の頃、「勉強を教えてー」というと「お母さんが育った岡山では習っていない」と一言。(母の名誉のために言っておくと、母は薬学部を卒業し、今でも現役の薬剤師である。)

・小学校のとき、先生から渡される親向けの手紙。親の署名と捺印をして、キリトリ線で切って、学校に持って行く。そのキリトリ線を母は手でちぎる。だから、いつもビリビリに破れていて、持って行くのが恥ずかしくてたまらなかった。ひどい時は、署名の部分まで破れていた。(はさみが使えるようになってからは、親の署名と捺印後、すぐに回収して自分でハサミで切るようになった。)

・学校に忘れ物をしていたと気付いていても、決して持ってきてはくれなかった。ただ、小学校から中学校までの9年間で2回だけ、忘れ物を持ってきてくれたことがあった。泣きながら、電話してやっとのことでお母さんは私の忘れ物をもってきてくれることになったのだが、「お母さん忙しいんだから、学校の玄関のところで待ってなさい」と言われた。玄関で待っていると、向こうの方から自転車に乗ったお母さんが近づいてくる。「あ、お母さん」と手を振ろうとした瞬間。ポイ!とお母さんは私の忘れ物を校門の中に向けて投げ込んで、そのまま自転車で颯爽と去っていった。

・料理は得意だけど、お弁当作りは苦手。本当にやめてほしかったのは、昨晩の残りのおでんを入れること。しかも、謎のこだわりで木製のお弁当箱で密閉性はゼロ。おでんの汁も一緒に入れるから、もう大惨事。その日は、大ゲンカ。(何回かこの大惨事が発生した後、我慢できなくなり、自分でお弁当をつくるようになりました。)

・中学3年生。初めての受験。どんなに勉強しても、成績が伸びない。プレッシャーで圧し潰されそう。そんな時も私のお母さんは容赦がない。塾からの帰り、お迎えの車に乗り込むと「この前のテスト返ってきた?何点?」「国語と数学だけ返ってきた。平均点は75点で私は70点。」「は?あんなけ勉強してて、その程度なん?あほちゃう?そんなん勉強の才能ないからさっさと塾辞めて働いて!・・・(続く・・・)。」塾から家までの帰る車の中、約15分にわたって、こんな感じのことを言われ続ける。(妹も同じことをされていたが、結局、2人とも高校も大学も志望校に合格できた。よかった、よかった。)

・「勉強しなさい」と言われたことは1度もない。ただ、受験だろうがテスト前だろうが関係ない「お手伝いしなさい。ちょっとお手伝いしたぐらいでテストの点数が下がるぐらいのレベルなら勉強しないほうがマシ。」(今から考えると、ごもっともです。)

・高熱。寒気がとまらない。「お母さんー、たぶんインフルエンザだと思うから病院連れて行ってほしい(泣)」「今、忙しいー。ってか、そんなん、寝とけば治る!黙って寝とき。そんなんただの風邪や!」(その後、お母さんに泣きついて病院に無事に連れて行ってもらいました。別の日にお母さんがインフルエンザになったときは、しんどいー死ぬかもしれんー!って大騒ぎされてました。笑)

・そうそう、インフルエンザ関連でもう1つ忘れられない思い出が。高校の部活の全国大会で東京に行った帰りのバスの車内で高熱が出た。学校にバスが着いたのは朝の5時。先生がすぐにお母さんに電話する。「お母さん、熱があって電車で家まで帰れそうにないから迎えにきてほしい。」「は?今何時やと思ってんの。お母さん、眠い。自分で電車で帰ってきなさい。」がちゃん!っと電話が切れた。見かねた先生が家まで車で送ってくれたことは言うまでもない。

・私の大学の卒業式が終わってから3年後、妹の大学の卒業式がやってきた。「お母さん、来るよね?私(妹)の卒業式。」「え?お姉ちゃんの卒業式行ったしなー。もう飽きた。卒業式。」「いやいやいやいや・・・。それは行ってあげて。私と妹の卒業式は別物だから。」と全力で言ったら、「やっぱり?」と、てへぺろって感じで笑ってた。(結局、ちゃんと妹の卒業式にも参加して、行って良かったわーって満足されてました。)

・ケーキを買ってきたら、自分が一番最初に好きなやつを選ぶのは当たり前。

・私が買ってきて、あとから開けようーっとたのしみに思っていた紙袋を勝手に開けて、どんなのものを買ってきたのか確認するのは日常茶飯事。

・一緒に出掛けると、「写真撮ろうか?」ではなく、「写真撮って。」

・お母さんにそもそも何かを相談したことはない。友達とのこと、進路のこと、部活のこと、就職のこと・・・だって、「そんなん知らん。お母さんわからん。自分で考え。」って言われるのが分かりきっているから。(ただし、お母さんの口癖は「ねーねー。どう思う―?」である。笑)

ここには書ききれない、いや、書けない話が他にもいっぱいある。まぁ、こんな感じで、エピソードが絶えない”個性的な”私のお母さん。

私だから知っている、お母さんのやさしさ

だけど、私は知っている。

仕事が忙しく、平日は午前様。土日も仕事に行っている父。頼れる親戚は近くにいない。だから、ずっと一人で私と妹を育ててくれたこと。

「やりたい」と言った習い事はすべてやらせてくれた。ピアノ、そろばん、バレエ(週3で通ってた時期も)、水泳、書道、クラリネットなど・・・。

どんなに忙しくても、公園に遊びに行きたいと言ったら、(文句は言うけど)結局、いつも連れて行ってくれたこと。

おやつはいつも手作り。シフォンケーキ、クッキー、プリン、チョコはもちろんのこと、和菓子もあんこからつくっていた。お母さんがつくれないものなんて1つもない。

鍵っ子だったけど、いつもお母さんの手作りのお菓子と指示書(手紙ではない。笑)があったから、寂しくなんてなかった。

お母さんはなんだかんだいって、いつも私と妹のことを大事に思っている。

3歳の時、顎を7針縫うほどのケガをしたときもそうだった。

どんどん血で真っ赤になるタオルで顎をおさえながら、私に「大丈夫だから」って言いながら、急いで車に私を乗せて、病院に向かった。(なぜか、途中でお父さんを車で迎えに行ってから病院に向かった。)お父さんが車に乗り込むなり、どうしよう、どうしよう、って泣きそうになりながらお父さんに言うお母さんの声を意識が朦朧とする中、聞いていた。

当たり前かもしれないけど、お母さんは私が大事なんだなーって思った。なんだかちょっとうれしかった。

妹が産まれたばかりで、ちょっと寂しかった時期だったから。

お母さんのやさしさはまだまだある。

外食なんてほぼしたことがない。お肉とお魚が日替わりででてくる。和食、洋食なんでも作れる。毎日がごちそう。(午前中に仕事に行って、お昼休みに一度帰ってきて、夜ご飯をつくってまた仕事に行っていた。)

誕生日会を開いたら、ぜーんぶお母さんの手作りの料理やケーキが並ぶ。

ピアノの発表会のドレスも小学校の入学式の服もお母さんの手作り。

自由研究のテーマはいつもお母さんの発案。カブトガニの研究、庭の植物で染め物、備前焼についてなど・・・一緒に最後まで研究してくれた。

のどがいたい。蕁麻疹ができた。目がかゆい、くしゃみがでる。なにか言うと、対応策と薬を置いといてくれる。さすが、現役の薬剤師。

熱が出ると、テレビなんか見せてもらえない。とにかく、寝てなさいと一言。だけど、いつも本を買ってきてくれた。私が本好きになったのはお母さんがきっかけ。

私は料理、裁縫、編み物、掃除、洗い物・・・いわゆる家事といわれるものは小学校を卒業するときには、ある程度全部できるようになっていた。これもお母さんのお陰。

中学2年生の冬。受験は1年後。勉強はお世辞にも出来る方ではなかった。けど、行きたい高校がある。どの塾でも「結構、難しいですね」と言われた。もう、無理なんかなーって思っていたら、お母さんがいくつも塾をまわってくれて、やっと「一緒に頑張ろう」といってくれる塾の先生に出会えた。あの先生に出会ってなければ、私は努力は裏切らないということを知らずにいたとおもう。

志望校に合格。就職が決まった。お母さんに伝えた時は、「ふーん、よかったね」ぐらいだったけど、私は知っている。うれしそうに電話で「うちの子、〇〇に受かったの!」と言っていたことを。


抱きしめてもらうとか、頭を撫でてもらうとか・・・そういった、わかりやすい愛情表現をしてもらった記憶はない。笑

でも、私のお母さんはちょっぴり不器用なだけで、とっても愛情深い人なのです。(たぶん。そう信じたい。)

すべては自分の解釈次第

・カーネーション事件→周りに迎合するな。自分の意志ははっきりと伝えること。(ということを伝えたかった。)

・雑巾事件→お母さんが全てやってくれると思うな。勉強も大切だけど、自分で生活できる力をつけなさい。(ということを伝えたかった。)

・青春18きっぷ事件→なにか困ったら、周りの人にちゃんと聞くこと。助けてくれる人は必ずいる。(ということを伝えたかった。)

・岡山では習っていない事件→お母さんがなんでも知ってると思うな。学校の先生に聞きなさい。要は餅は餅屋。(ということを伝えたかった。)

・手紙のキリトリ線ビリビリ事件&お弁当、おでん事件→自分でやった方が確実なことは自分でやるべし。(ということを伝えたかった。)

・忘れ物、投げ込み事件→忘れ物をする方が悪い。社会人になったら誰も持ってきてはくれない。自力でなんとかする。そもそも忘れ物しないように準備する。(ということを伝えたかった。)

・塾帰りに罵倒事件→結果が全て。悔しかったら、結果を出しなさい。(ということを伝えたかった。)

などなど。

要は、自分がどのように解釈するのかが大事だということ。

そして、なによりも私が”お母さんのやさしさ”をわかっていればいい

それだけでいい。

他の人に理解されない部分があるかもしれないが、

私にとっては、すべてが大切な思い出。

私のお母さんはちょっぴり不器用で愛情深い人。

お母さんのお陰で、今の私がいる。

それだけは確かなこと。

このnoteをお母さんが読むことがあっても、お母さんは決して泣いたりしない。

「もっとわたしに感謝しなさいー!なんかおいしいご飯おごって。」

って言うんだろうな。笑

私のお母さんらしくて、最高だ。





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