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世界を立体的にとらえるためには

「恋をしている女性は、男性がトイレに行っている間にスマホは触らないんですよ」

先日、渋谷のとあるバーのマスターにこう言われてドキッとした。その時の私は、一緒にいた男性がトイレに行っている間にスマホを触っていたのである。見られていた、と思った。ふっと「カウンターの向こう側から見えるスマホを触っている私」が脳裏に映し出されて、世界がぐにゃりと曲がったような気がした。

このように、誰かの言葉がきっかけで、「世界がぐにゃりと曲がる」ような気になることがたまにある。

たとえば、小学生の頃に「ゆかちゃんがいない間に◯◯ちゃんが悪口言ってたよ」と言われたときもそうだったし(なんでこういうことを告げ口する人はいなくならないんだろう)、恋人に撮ってもらった写ルンですの写真を見たときもそうだった(いつのまにこんな写真撮ったの? というものがたくさんあった)。

その言葉や写真たちは、どちらも「私が見ることができない世界のこと」を知らしめる存在で、決まってそういうモノに触れたときに私の世界はぐにゃりと曲がるのだった。

普段私たちは、「自分の目で見た世界」という平面的な世界を生きている。物質的には世界は3Dで立体的だけれど、顔の真ん中に並行についている2つの目で世界を捉えているという点においては、平面的に世界を見て生きていると言えるのだ、と思っている。

でもそんな平面的な世界がたまーにどうしようもなく立体的になったり、曲がったりすることがあって、それは先ほども言ったように「他者の見ている世界」が自分の世界にありありと滑り込んできたときだなあ、と思う。滑り込み方によってはめまいのような不快感を覚えることもあるけれど、いい塩梅で滑り込んできた場合には、心地よい立体的な世界が目の前に広がっていく。

普段は自分だけが見ている平面的な世界が急に立体的になる瞬間。それはなんだか自分が他者と関わって生きている実感であり証拠であり、「やっぱりひとりで生きているわけじゃないんだなあ」と思わせてくれる唯一無二の現象なのだ、と思っている。

だから私も、誰かの世界をいい意味でぐにゃりと曲げたりふくらませたりして、私自身もそうされながら、できるだけ世界を立体的にとらえて生きていきたいなーとかそんなことを思うのです。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。