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海が苦手だった私は、海に救われ、海を愛す

この文章は、ヤマハ発動機とnoteで開催するコラボ特集の寄稿作品として、主催者の依頼により書いたものです。

海が嫌いだった。
大学を卒業する頃までずっと。

なぜならば、私には「足が太い」というコンプレックスがあったからだ。

思春期の学生が海を嫌いになるのに、その理由は決して大袈裟なものではないと思う。少なくとも私はそうだった。

夏になると、友だちの「海行こ〜!」という誘いを断る言い訳を、いつも必死に考えていた。モデルのようにスタイルのいい友だちを見ては、顔が歪むほどに妬み、嫉み、羨んでいた。

私にとって当時「海」は、自分のコンプレックスが暴かれてしまうかもしれない危険な場所であり、まさに天敵、悪夢のような場所と言っても過言ではなかったのである。

「コンプレックスというかぎり、それは感情によって色どられていなければならない。感情のからみつきのない、自分の劣等性の認識は、むしろコンプレックスを克服した姿である。」

河合隼雄『コンプレックス』

河合隼雄の名著『コンプレックス』には、かのような一節がある。

ただ単に「自分は◎◎が苦手だな」「自分は頭がよくないな」などと、「劣等性」を認識するだけではコンプレックスとは言わない。そのことを考えるだけで、悲しさや怒りや苦しみなどの醜い感情が絡みつく──それがコンプレックスなのだという本書の内容は、すごくすごく腑に落ちた。

当時の私は、自分の足に対して、相当なコンプレックスを抱いていた。絶対に隠し通したかったし、そのことを考えるたびに、なんで私は……と醜く黒い感情が渦巻いた。

今では、「こんな自分でもいいや」と思えるようになっている。細くなったわけでは決してないのだけれど、いろいろと努力して何をやってもダメだったので、諦めがついたのだ。「そんなゆかちゃんが好きだよ」と言ってくれる人がそばにいてくれるようになったことも大きいし、「こんな自分もいっか」とも思えるようになった。感情のからみつきが以前より随分と薄れ、だからこれは前述でいうところの、コンプレックスの克服と言えるのだろう(だからこそこうやって文章にもできている)。

と、まあそのような理由で、私は昔、海が怖かったし苦手だった。海そのものというよりも、水辺にまとわりつく「肌を見せなければいけない」という事象が苦手だった。事実、大学卒業までの人生で海に行ったことは、片手で数えられるくらいしかない。

そんな私は、大学を卒業して社会人になり、東京に出てきて、なぜだかわからないけれど狂おしいほど「水辺での暮らし」を求めるようになった。

最初私が求めたのは、「海」ではなくもう少し身近な「川」だ。

新卒1年目の頃にはじめて一人暮らしをしたのは、神田川からほど近くにある東中野のマンション。

毎日の通勤で川のほとりを歩くと、心が癒えていく感覚があった。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は枯れ木。川を取り巻く四季折々の美しさに目を奪われ、そのせせらぎの音を聴きながら、社会人生活の最初の激動の変化の中、変わりゆくものや変わらぬものに思いを馳せることが好きだった。川のほとりにあるベンチでは、恋人や友だちと、何時間も話をした。ひとりでよく読書もした。

次に住んだのは、逗子だった。海から歩いて15分ほどの、小さな一軒家。あれだけ苦手だった海のそばで暮らすようになったのは、当時のパートナーが住んでみたいと言ったからだ。

誘いを断らなかったのは、大人になってから、海は必ずしも「入るもの」ではなくなっていたことが大きいと思う。引っ越したのが夏の終わりだったこともあり、水着姿にならなくても、ただ散歩するだけでもいい海の存在は、私に学生時代と違った印象を与えた。

そして、まるで苦手だった同級生と再会して恋に落ちるかのように、私は海のことを少しずつ好きになっていったのである。

海を明確に「好きだ」と思うようになった日のことは、今でもはっきりと覚えている。

それはある日、当時のパートナーと家で大喧嘩をして、家出をした時のこと。家出したところでどこにも行くあてのなかった私は、知り合いの店で一杯だけお酒を飲んだあと、歩いて海辺へと向かった。

深夜0時をまわっていて、街には誰も歩いていない。車通りもほとんどない。逗子海岸へと向かう小さなトンネルを抜けると、その先にはどこまでも続く真っ暗な闇が待ち構えていて、視界の情報が限りなく少なくなっているからか、ザーン、という波を打つ音は、昼間よりもやけに大きく聞こえた。

「あ──!!!!!」と、私は海に向かって大声で叫ぶ。

誰もいなくて、誰も私の声など聞いていなくて、誰も私に興味がない。果てのない海を目の前に、私はとてもちっぽけだった。日頃の鬱憤も、上手く生きられない自分に対しての嫌悪感も、大きすぎる夜空と真っ黒な水面、そして波音に吸い込まれていく。自分のすべてを吸い込んでくれる、偉大な自然の存在。

海は、私のことをなんでも受け入れてくれるのだと思った。その日から私は、それまで以上に海に足繁く通うようになる。朝も昼も夜も。もう、「海が嫌い」とは言えなかった。

今思うと、家族と離れて暮らすようになった私は、川や海に、母の存在を求めていたのかもしれない。どんな自分でも受け止めてくれる、まごうことなき包容力。変わらずそこにあり続けてくれるひと。

結局逗子での生活は、パートナーとの関係悪化と同時に1年ほどで終止符を打ち、次に私が住んだのは、隅田川の近くだった。隅田川という大きな川にも日々救われていたのだけれど、その頃の私の心の片隅にはもう、「海のそばでもう一度暮らしたい」という思いが生まれていたと思う。

そうしてしばらくしてたどり着いたのが、いまの暮らし──瀬戸内海と東京の二拠点生活である。

私は苦手だった海にこんなにも救われ、愛するようになったのだった。

瀬戸内海は、とにかく穏やかだ。もちろんたまに荒れるときもあるけれど、波はシルクのようになめらかで、水色やピンクなど淡い色が象徴的。

逗子に住んでいた頃は、自分の醜い部分まですべてを受け止めてくれる存在として海のことを見ていたけれど、いまはちょっと違う。

瀬戸内海は、私の憧れなのだ。

時に自分の感情を押さえることが難しくなってしまう私にとって、時に白黒をはっきりつけたがってしまう私にとって、いつでも曖昧さを許し、やさしく穏やかで、けれども表情豊かで大きな瀬戸内海は、「こうありたい」と願える存在なのだ。「どんな人になりたいか?」とロールモデルをたまに聞かれることがあるけれど、私は実在の人物を挙げるよりも、「瀬戸内海」と応える方がしっくりくる。

たどり着きたくてもたどり着けない、永遠の憧れが、日常のそばで毎日変わらずただ在り続けてくれること。その安心感は、私にこの上ない安らぎと、穏やかな向上心を与えてくれる。

嫌いだった海が、こんなにも今の自分の生活に欠かせないものになっているだなんて、大学時代の私に伝えたらどんな顔をするだろう。

海と私の関係性は、これからもきっと変わり続ける。人と人の関係がそうであるように、くっついたり、離れたり、ちょっと苦手になったり、狂おしいほど恋焦がれたり。いろんな海と出会い、そのたびに、きっと私はいろんな私と出会う。

でも、「海がなかったころ」の私には、もうどう頑張ったって戻れない。たとえ海のそばでの暮らしが終わったとしても、海は、私の記憶と体にこんなにも染み付いているのだから。

ヤマハ発動機とnoteのコラボ特集「#わたしと海」はこちら。

https://note.com/topic/feature

写真 manju koki


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。