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「矛盾」を排除しない

日々を過ごしていると、自分自身のいろんな「矛盾」に気づくことがある。

さっき思ったことと今思っていることが全然違ったり、理屈では正しいとわかっていても、心や体が言うことを聞いてくれなかったり。「なんて自分は矛盾だらけで整合性が取れていない人間なんだ」と思うことは多々ある(すこしおおげさだけれど)し、そんな時には自分自身に対して嫌悪感や罪悪感を抱き、なるべく、なるべく、その矛盾をむりやり消し去ろうと努力する。

そしてこれはどうやら私に限った話ではなく、人間という生き物は多くの場合、矛盾を見つけたらとたんに排除したくなる、矛盾を「絶対的な悪」として捉えている生き物のようだ。

けれど、こういったような自分の中にある「矛盾」を無理に排除してしまわないことは大切だな、と最近思う。

人とはそもそも矛盾を抱えてしまう生き物なのであって、矛盾に満ちているというその状態自体が自然なことなのかもしれない。人はパラドックス(論理的矛盾)を見つけたらそれを解くことにやっきになるけれど(そしてパラドックスを見つけること自体にやっきになるけれど)、どうして「そもそも矛盾していることが当たり前」という可能性に目を向けないのだろう。解けない数式があることも、辻褄が合わない状態になってしまうことも、それが「自然な状態」であるかもしれないということを、どうして受け入れることはないのだろう。

論理的に説明のつく、矛盾のない状態が「正」とは誰が決めたんだろうか、とぼんやり思う。

「絶対なんて絶対ない」とか「自信がないという名の自信」とか「正しさを押し付けないほうがいいよねという名の正しさの押し付け」とか、言葉や人生は、どこかで矛盾が生じてしまうものなのではないかなあ。

スローな世界に憧れながら、結局、スピーディに生きているなんて矛盾を抱えているのが、人間なんでしょうね。

私の好きな『ナガオカケンメイの考え』という本の中にある好きな一節。

矛盾があってこそ人はおもしろいのだ、と個人的には思っている。その矛盾を排除せずに抱えながら生きるということ。人なんてものは、誰しもが少しどこかおかしくて、少しどこかねじれているものなのだ、と思う。こんなことを無表情で書きながらサカナクションを聴いてメトロックに向かっている自分も、なんだか少しおかしいのだ。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。